思い出はどこへ行くのか? ― 2004.10.23 ―

〝思い出〟なのに全然なつかしくない!

「記憶する住宅」がもたらしたこころ

美崎 薫(ライター・「記憶する住宅」プロデューサー)


毎日大量の写真を撮り、読んだ本や雑誌、思い出の品々などもすべてスキャンする。美崎さんは、自分が日々「見たもの」「書いたもの」のほとんどを静止画像として蓄積し、それを自宅のモニターにスライドショーとして流すことで、過去の記憶を浴びつづけています。このような「記憶する住宅」に住むということは、住まう人にどのような影響を与えるのでしょうか。〝ちょっと未来を生きている〟美崎さんの体感に迫ります。



「記憶する住宅」とは

 わたしはいろいろな肩書きを使っていますが、実は自分がどういう人なのかよくわかっていません。「未来生活デザイナー」「ソフトウェア&プロダクツデザイナー」「ブックライター」のほか、「1日に100枚写真を撮る男」とか「〝記憶する住宅〟のプロデューサー」「記憶アーティスト」と名乗ることもあります。これだけ挙げてもまだよくわからないでしょう。そこで、わたしが実際に住んでいる「記憶する住宅」についてご紹介し、なぜこんな住宅をつくり、そこで何をしていて、その結果どういうことが起こっているのかお話しましょう。
 「記憶する住宅」というのは、2002年に始めた個人的なプロジェクトです。住宅内部にコンピュータを組み込んで、過去の思い出の品や写真はもちろんのこと、いま読んでいる本や書いている日記、会った人、行った場所など、あらゆる体験をできるだけ取捨選択せずにデータ(主として静止画像)に落とし込み、それを大容量のハードディスクに記録していきます。こうして膨大に蓄積された情報を備え付けのディスプレイにスライドショーとして映し出してながめたり、気づいたことなどをさらに加えたり、蓄積された情報どうしをリンクさせるといった作業を日々行っています。蓄えられたデータはわたしの体験記録、つまり「記憶」であり、そして住宅内部のあらゆる場所に配置したディスプレイに表示し、その情報をわたしが浴びつづけているという点において、単なる電脳住宅ではなく「記憶する住宅」と呼ぶにふさわしいと考えています。
 わたしはもともとものを捨てない人で、小学校のころの教科書やノート、日記帳などはもちろん、読んでいた雑誌やチラシまでそれこそ山のような思い出の品々をたいせつに保管していました。高校生のときに遊びにきた友人がわたしの部屋を見て「驚くべき記憶の堆積」と評したことがあるほどです。これらをただの堆積物ではなく、いつでも自由に、簡単に取り出すことができればどんなに楽しいだろう、きちんと並べて整理しておけば忘れてしまうこともないだろうと、いつしか考えるようになりました。また、過去の記憶をランダムにスライドショーとして映し出せば、それが刺激となって新たな発想の支援につながるのではないかと思ったわけです。幸い、いまはデジタルカメラもスキャナも手ごろな価格で手に入るし、データを貯める記憶媒体は圧倒的な速度で進化していて、ハードディスクやCD‐R、DVDなどがどんどん大容量化してきています。これらのハードウェアを駆使してデジタルデータ化することから始めました。それがこの「記憶する住宅」プロジェクトの始まりです。
 では住宅内部をお見せしましょう。「記憶する住宅」といっても、見た目はごく普通の住宅です(写真①)。リビングの床は電動で上下する秘密基地のようになっていて、ビデオやいらないものは全部床下に隠してあります。カウンターは可動式でミーティングテーブルにもなります。このようにしっかり作り込んであり、かつ機能している住宅が数少ないというので、建築業界からも注目されています。
 書斎ではツインのディスプレイを使っていて(写真②)、メインの方は仕事用です。左わきにおいたディスプレイは蓄積した情報をスライドショーとして映し出すために使っています。スクリーンはこの2つに限る必要はなく、場合によっては壁にプロジェクタで映し出すこともあります。
 このように「記憶する住宅」ではハードウェアの整備が重要です。なかでも日々膨大に蓄積されていく情報を格納する記憶媒体の進化がこのプロジェクトを可能にしているといっても過言ではありません。「記憶する住宅」では現在合計4テラバイト(1テラバイト=1024ギガバイト)のハードディスクを使用していますが、これだけ大容量の記憶媒体を使えば「人生そのものを貯めていく」ことができるようになります。その人の一生分の体験記録をデジタル化して残すことができるということです。
 大容量の記憶媒体といっても、本体サイズはかなり小さくなっています。アップルのiPodに代表されるように、手のひらの上に数千曲、つまり人生で聴いた曲全部を入れられるような音楽プレーヤーもあります。ハードディスク内蔵のコンパクトな動画再生装置も市販されているし、携帯電話でテレビ視聴もできるようになりました。このような携帯端末が進化すれば、まもなく誕生以来の体験記録すべてが映像として記録され、それを手のひらに乗せていつでもどこでも映画のように鑑賞することができる時代がやってくるでしょう。「記憶する住宅」は、まさにこうしたちょっと先の未来を実現したものなのです。



記録は高画質の静止画で

 見たもの、聴いたものを記録するだけなら、個人がすぐにでも手に入れることができるツールがたくさん出ています。1日1000枚写真を撮ることができるデジタルカメラ、数十番組を録画できるハードディスク内蔵レコーダなどはもはや特別なものはありません。古い資料をとりこむためのスキャナには1台数千円のものもあります。これらを使って大容量記憶媒体にどんどん取り込んでいけばいいのです。「記憶する住宅」では基本的にあらゆるものを画像として取り込んでいます。もちろんデジカメ写真もありますが、読んだ本などもテキスト情報としてではなく、本の大きさやデザインが実感できる画像としてページをまるごとスキャンするという方法をとっています。内容を確認する場合はテキスト情報が便利ですが、文字情報だけではものの雰囲気をそのまま再現することができません。文字情報だけではつまらない、イメージとして残すことが重要だと思っているのです。ただし、問題があります。
 実際に先駆的な使い方をしてみて分かったことですが、情報量が爆発してしまって、求める情報にたどり着くのが難しい。以前テレビ番組を30番組以上録画してしまったことがありました。手持ちのハードディスク内蔵レコーダでは1画面に6番組ずつ表示する仕様になっています。30番組ですから6番組×5画面中から特定の1番組選びたいわけですが、これができない。「どこにあったっけ」と思って画面をパッと見て次の画面に変えていく。こうして最後の画面が表示されても、求める番組は見当たらない。確かにここにあるはずだということはわかっているにもかかわらず、探し出すことができないのです。人間のワーキングメモリがいかに小さいかということを実感しました。なぜこんなことが起きるのか考えてみたら、要するに全体が見えないから区別できないのです。特に、動画の場合は静止画よりも解像度が低いため、静止画として切り取ったときにぼやけてしまうという問題もありました。そこで、解像度の高い静止画で全体を見渡すことができれば、情報の爆発にもある程度耐えられるのかもしれない。そう考えたのです。
 小さなサムネイル画像では微妙な違いを峻別することは難しい。しかし思わず見入ってしまうようなレベルの高解像度で保存されていればそれが可能になります。必要に応じて拡大したり、一部分を切り出してもクリアな画像が保持されていれば違いは一目瞭然です。そこで、「記憶する住宅」では、基本的に2000×160画素くらいのハイクオリティな静止画で保存することにしています。こうしておけば目的の情報にたどりつきやすく、たとえば子どものころにもらった賞状や手書きのノートなども、本物を手に取る以上に全体も細部もしみじみと見入ることができます。これなら現物はとりあえず手もとになくてもいいと思えます。このように「見ればわかる」という映像の持つ強さを体感することでいったい自分はどんなふうになっていくのか──。その点への興味も「記憶する住宅」をつづけていく大きなモチベーションの一つになっています。



断片化された情報に文脈を与える

 目的の情報にたどり着けないからといって、蓄積される情報が少ないほうがよいというわけではありません。全体の中からある目的のものを選ぶためには、多数のものがあったほうがいい。多くの中から選ぶことで、よりよいものを選択できるからです。その鍵になるのが先ほど言ったクオリティの高さともう一つ、文脈情報を与えられるかどうかです。蓄積された静止画はそれだけでは断片でしかありません。しかし、文脈情報を与えて体系化できれば、格段に探し出しやすくなります。それにはハイパーテキストを使うのが現時点では最善でしょう。ハイパーテキストとは、インターネットのウェブサイトが互いにリンクしあうように、複数の文書を関連づけるシステムのことをいいます。断片化している情報を文脈情報によってリンクすれば、人間のエピソード記憶のようにいもづる式に情報をたどっていくことができると考えたのです。
 社会心理学者のスタンレー・ミルグラムは1967年に行った「スモールワールド実験」で、アメリカ国内で無作為に選んだ2人の人は、平均してたったの6人の知り合いを介してつながっているという「6次の隔たり」という現象を見出しました。いわゆる「世間は狭い」というものです。これはmixi(ミクシィ)に代表されるソーシャルネットワークサービス(SNS)を利用していて感じることと同じで、友人の友人という関係をたどっていくと、いろいろな人だけでなく、ものや興味関心、現象が密接につながっていることを実感します。単につながっているだけではなく、つながっている人や情報が多ければ多いほど、求める情報にアクセスしやすくなる。これと同じことが「記憶する住宅」のなかでも起こっています。
 スライドショーとして過去の画像をながめていると、いろいろと新しく気づくこともたくさんあります。古い資料や思い出の品でスキャンしたものの大半は廃棄してしまっているのですが、どうしてもほしいものは現物を残しています。そのうちの一枚のあるイラストは額に入れて飾っているのですが、ある日スライドショーをしていたら、そのオリジナルと思われるものが出てきてびっくりしたということがあります。額装して飾ってあるイラストは出典が記録されていなかったのですが、これはあるコミック雑誌の表紙の一部だったということを発見したのです。さらに、同じ作家の初期の短編集のなかにあった絵がこれとまったく同じ構図で、この作家の作風というものをさらに深く理解することができたということがありました。30年も気づかずにいたことが、スライドショーによって気づくという、おもしろいことがいっぱいあるわけです。
 こうなると「あのときはそうだったんだ」というようなことを書きたくなってきます。それで「過去日記」という形で書いています。スライドショーを見るたびに過去日記つきのデータがふえていくし、記述内容も細分化され豊かになってきます。頭の中の思い出なら「あれはいつごろだったかなあ」ということも「何年何月何日の何時だった」という時期が同定できるということもしばしば起こります。それがものすごくおもしろくて、過去と共鳴する〝いま〟ということを感じずにはいられません。
 こうして発見していったことは、その都度それぞれのファイルにリンクをはってつないでおきます。わたしはBTRONというOSを使用していますが、このあたりの作業はやはり自動化できないところで、その都度発見するたびに情報を加えたりリンクをつなげたりということを手作業でこなしています。このような作業をつづけていると、ある時期を境に突然ものすごく使いやすくなったのです。要するに、ハイパーテキストで相互につながるということは、関係が密になればなるほど検索が容易になり、関連情報を次々に発掘できるようになるわけですね。おそらくある閾値のようなものがあって、そこを超えると急速に使いやすくなるという感じを受けます。
 わたしが使っているハイパーテキストの中身ですが、ちょっと古いデータですが、ファイル数が3万2000程度、リンクされてつながっているパスはその10倍くらい。これなら4階層で95%のファイルにアクセスできる計算になります。階層が浅いほどアクセスしやすくなりますが、深い階層にあるものも、浅い階層にあるデータと新しいルートをつくってリンクをはると、階層が上がってきて見つけやすくなります。
 使いやすく体系化するためには、どういう文脈を見つけていくかということも重要です。たとえば、「去年の今日」という日付でたどってみましょう。去年のいまごろ何をやっていたかということを見てみると、今年も似たようなことをしていることがわかります。天候も同じだったり、何かの支払いの時期であったり。こうしてどんどん同じ月の同じ日を1年ごとにさかのぼって見ていくと、いろいろな発見があり、そこでまたあらたな文脈情報を書き加えていくことができます。こういうルートをつくっておくと、じゃあいまから1ヵ月後には何をしているか、何をすべきかという未来予測が立てやすくなるということもあります。
 「記憶する住宅」には埋め込むコンピュータシステムというハードウェアのほかに、このようなソフトウェアの部分も非常に重要だということがおわかりいただけたと思います。



「記憶する住宅」に住むとどうなるか

 「ものが捨てられない」という人は多いでしょう。そしてどんどんたまっていくものをどう収納したり、どう使ったりすればいいのかわからずに、そのまま死蔵されてしまうということが多いのではないかと思います。この点にかんしては、「記憶する住宅」ではほぼ解決できたと思っています。どうしてもとっておきたいごく少数のものを除いて、画像データとしてスキャンしたものは廃棄していくことにしました。わたしにとってすごく大事なものの一つに『Knock!』というマンガがあるのですが、どうせなら突き詰めてやろうと思って、それを先日愛蔵版にしてしまいました。金箔型押しの革装してベルベットの箱入りに仕立てました。大事なものはとことん大事に、そうでないものはすべて取捨選択などしないでスキャンしてしまう、という二極に分かれているのがいまの状態です。こんなふうにすると家の中がすっきり片付きますし、現時点で蓄積された画像は72万枚ほどありますが、それらはすべて死蔵せず、日々スライドショーとして使用しつづけています。
 リアルなものを保存するかどうかという点については議論もあります。たとえば、子どものころにもらった賞状が持つノスタルジックな雰囲気や手に取ったときの質感まで画像で再現することは難しい。そこは「本物」にはかなわないところです。しかし、死蔵するよりはスライドショーとしてずっと見つづけていることで、記憶を蘇らせるきっかけになったり、新たな発見をしたりということは「本物」を手にとるよりはずっとチャンスが多い。能動的に何かを探すというよりは、受動的にただランダムに映し出されるスライドショーを見ているほうが、そうした副産物が多いという実感もあります。
 しかし保存したくてもできないものもあります。たとえばわたしは演劇やライヴが好きでよく出かけていくのですが、DVDとして市販されない限り、手元におくことは不可能です。でも、あらゆるものがデジタルにできる時代だからこそ、生々しい身体感覚としての記憶も重要だと思うのです。だから北海道に自転車旅行に出かけたりもするし、毎日ジョギングして金木犀の香りを楽しんだりしています。そういう感覚を取り戻そうという意識は逆に強く働いていると思います。実体験は実体験として大事にしていきたいのです。ですから、そういう写真は撮ってない。食事も集中したいから、食べる前にきれいに撮影するということもしていません。
 スライドショーの話をもう少しつづけましょう。去年は平均して1日120枚の写真を撮り、今年はすでに1日平均180枚を超えています。日々、これだけの分量のデータが蓄積されていくわけです。最初のころは紙の資料を自分でスキャンしていたのですが、1万枚くらいとるとスキャナーが1台壊れる。それに膨大な時間と手間がかかりますから、いまは業者に出してスキャンしてもらっています。それが月に平均2万枚程度返ってくるのですが、実はこれが待ち遠しくて! こんなに膨大なデータがあり、日々ふえていっているというのにもかかわらず、飽きてしまうのです。スライドショーは2秒に1枚のペースで映し出していくのですが、72万枚あってもだいたい50日くらいで一巡してしまいます。何度も何度も同じものを見るので、手垢がついたようになって、早くなにか新しい刺激がほしい、という感覚に陥ってしまうわけです。スライドショーが新しくならなくても、どこかに出かけて行くということでも当然いいのですが、やはり人間は新しいことが好き、新しい体験をしないと耐えられないということがわかりました。
 これとは別に、スライドショーによって過去の記憶を日々浴びつづけていると、不思議な感覚に陥ります。過去が過去でなくなる、「現在」「過去」という概念そのものが揺れてくるのです。わたしは夏目漱石の「夢十夜」という作品が昔から好きなのですが、第1夜に「100年経ってしまった」という話があります。これに近いことをスライドショーをしていると感じます。また第3夜には子どもをおぶって暗闇を歩いていたら、だんだんその子どもが重くなってくる。「文化5年辰年におまえはオレを殺したろう」とその子どもが言う。その通りだ、オレは殺しをしたのだということを思うという話もあります。こういうふうに、時間の感覚が非常に揺らいでくるのです。
 「過去」とか「いま」とはいったいいつのことなのか。過去の記憶をいま浴びつづけて「あのときはああだった」「それってあれだよ」などといろいろなことが「いま」つながり、そして「未来」までも予測する。スライドショーをすることで過去の記憶がいまたちどころに現れて追体験できるようなことを日々つづけていると、なんとなく全部が「いま」のような気がしてきます。「いま」に対する意識が拡張されているといえばいいのか。過去の記憶が薄れずに全部がリアルに思い出すことができるというところも「いま」という時間の拡張につながっているでしょう。見れば見るほどいろいろなことが出てくる。過去を探求する作業が爆発的にふえて、データもふえていきますが、それはもはや「過去」ではないのです。過去を思い出すことは、過去に戻るということではないのです。
 70万枚を超えるデータを見つづけていても飽きる。そしてすべてが「いま」という感覚に陥ると、もはや「思い出」さえなつかしく感じません。これは「記憶する住宅」を始めていちばん最初に感じたことで、本当にショックでした。甘酸っぱいようなノスタルジックな感覚が薄れるという事態は、もしかしたら相当に切ないことなのかもしれません。実を言えば「やめようか」と思った時期もありました。それでも、いつでも過去に戻れるといういまの状態が非常に気に入っているのです。いつでも戻れるということに安心感さえ感じます。「やめようか」という失意の時期を過ぎて、ようやく「全部〝いま〟なんだ!」と言ってしまってもいいと思うようにもなっています。人間の脳にたくわえられた過去の記憶が変容することは有名な話ですが、記憶というのは思い出すたびにつくられているのであって、それは想像と想起の力だと湊千尋さんというかたが言っています。これは本当にそうだと思います。だからすべてが「いま」なのだと言い切ってもいいかもしれません。
 スライドショーによって過去の記憶がまざまざと蘇ってくるという話をすると、忘れることができないのは不幸なことではないかと問われることがあります。一種の超常記憶ですね。コンピュータシステムを使って本来脳にあるべき記憶を外在化しているので、忘れたくても忘れないのではというのです。この点にかんしては実はあまり心配はありません。飽きると忘れてしまうのです。スライドショーではあまり幸せでない体験も頻繁に出てきます。「あ、見なきゃよかった」ということは当然出てきますが、それを見ている自分というのはつらかったことを克服した自分なのです。そのことに気づくことで自分自身を受け入れられるようになるのではないでしょうか。単純に「見慣れてしまう」ということもあるかもしれません。
 忘れてはならないことといえば、「語ること」です。スライドショーを見て過去日記を書いたりするほかに、「こんなことがあったんだ」「こんなのどう?」などと他者と対話するということがたいせつなのです。語ることによって自分を知ることができる、新たな自分を発見できる、思考が深まります。他者に対して語ることがたぶん人間にとってはとても重要なことで、そのことにくらべたら記録が残っているかどうか、それがコンピュータであるかどうかということは、大した問題ではないとさえ思っています。



「記憶する住宅」はどこへ向かうのか

 わたしの場合、現時点で保有する画像データの枚数からざっと計算すると、30年間に300万枚くらいのものを見たという推測が成り立ちます。60年間生きるとしてその倍の600万枚、90歳まで生きると900万枚。コンピュータはすべてのデータを無制限に扱える必要はなく、これくらいのものを瞬時に扱えるデータベースを持てば、人生をざっと一望できるようになるでしょう。
 このように過去の記憶をすべて積み込んだ将来のコンピュータは、人間の記憶と意識に近づいていくのではないでしょうか。カウンターカルチャーの始祖と言われ、自身ソフトウェアデザイナーでもありハーバード大学で臨床心理学教授を務めた故ティモシー・リアリーは「21世紀にはスクリーンを支配するものが意識を支配するだろう」と言ったそうですが、実際にスクリーンにスライドショーして浴びるように見ていると、次々と現れてくる画像に意識が支配されていると感じることがあります。コンピュータは最初は単純な計算機でしたが、文字を扱うようになり、更にグラフィックや音楽や動画を扱うようになった。次の世代のコンピュータは意識や記憶を扱うようになるでしょう。
 将来、過去を共有できるロボットできるだろうと考えている人も少なくないようです。SF作家の星新一が書いた「なぞのロボット」というショート・ショートでは、何もできないロボットがいつも博士の後をついて歩いてくる。危機に遭っても助けてくれないけれども、家に帰ってくると日記を書いてくれます。アメリカの認知科学者ドナルド・ノーマンは『テクノロジー・ウォッチング』(1993年 新曜社刊)という本の中で「未来の子供たちはテディ・ベアを持つようになるだろう」と言っています。テディ・ベアと一緒にいろいろなことを体験し、それを全部テディ・ベアが記憶し、折に触れて適切なアドバイスもしてくれる。そういう時代がやがて来るだろうと言っています。
 もう少し身近で現実的な話として、「デジタル・アーカイブ」の普及も注目すべき点でしょう。デジタルアーカイブ推進協議会が1996年に発足しています。博物館、美術館、図書館、大学、自治体等を中心とした団体で、ここが出している『デジタルアーカイブ白書』を読むと、どういう形でデータをためていけばよいのかということや、予算不足について問題意識を持っていることがわかります。また、著作権をどうクリアしていくかについても非常に重要な問題として取り上げられています。これは「記憶する住宅」をやっていくうえでもできればクリアしたい問題です。
 たとえば本。テキストデータがあれば検索が格段に容易になりますが、テキストに起こすのがまず大変です。ページを1枚1枚スキャンしてOCRにかけてテキストデータ化しても、誤字を校正する作業も必要ですから結局はキーボードを使って入力していくやりかたのほうが早い。しかし、これを世界中の人がやる必要はないのです。デジタルデータはコピーできますから、極端な話、世界でたった1人がやればいい。著作権を無視したいわけではなく、うまくクリアできさえすれば、これは大変有効な体験記録データになり得ます。インターネット書店のamazonも著作者や版元の協力で本の一部をデジタル化した「中身検索」を一部で開始しています。それでも本1冊分まるごとというのは無理な話で、商用利用としてぎりぎりのところでしょう。Googleが買収して話題になった動画の投稿サイト「YouTube」も、もともとはおもしろい動画をみんなで共有したいというのが始まりだと思いますが、著作権的にはかなりあやしいサイトとなってしまっています。これも簡単にコピーできるデジタルデータだからこその問題です。「記憶する住宅」も、全体の70パーセントくらいは友人など自分以外の人から入ってきた情報です。それぞれが自分の体験記録をデジタルデータ化して、それを共有していくことができれば、さらに広がっていくと思うのですが、著作権やプライバシー問題の壁があるかぎり難しいでしょうね。
 わたし自身は、自分が死んでもプライバシーを見られても平気だと思っているので、ぜひこの先駆的な試みを博物館に入れてほしいと思っています。そして、そのファイルをだれかが見て、何かを感じて書き加えていったら、もしかするとわたし自身が生きているということになるかもしれないと思っています。

(編集 小山茂樹@ブックポケット)





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