思い出はどこへ行くのか? ― 2004.12.04 ―

[20041204 みんぱく共同研究会第3回]
[国立民族学博物館2階第6セミナー室 2004年12月04日 13:00-18:00]
[参加]
塚本昌彦 菅原和孝 大谷裕子 野島久雄 國頭吾郎 長浜宏和 黒石いずみ 山本貴代 内田直子 加藤ゆうこ 佐藤優香 安村通晃 南保輔 佐藤浩司 山本泰則 米谷 平川智章 青木(テレビ東京) 吉田(大和ハウス) オブザーバー横川公子(武庫川女子大学)、伊達伸明(アーティスト)、小山茂樹(編集者)

全記録

そろそろ。。。

[佐藤浩] そろそろ始めたいと思いますが、塚本先生が席を外されているのでそれをお待ちしてから。[間][1'16]事前に伺いますけれど、今日テレビ局の方が入っています。山本貴代さんの取材の一環なんですけれども。

[山本貴] 申し訳ありません。

[佐藤浩] 「テレビに映るのはちょっと困る」という方がいらっしゃれば初めに言っていただければ編集でカットとかしますけど。

[野島] モザイク入れるとか。

[佐藤浩] 菅原先生はどうですか?

[菅原] 別に今は政治犯というわけではないので。

[佐藤浩] 「こんな番組に出ては困る」とか。

[山本貴] [1'51]少子化ストップとかそういう報道の番組だそうです。

[1'54]

[不明] [聞き取れず]でやられたら一番いいんじゃないかな。[雑談]

[2'10]

[佐藤浩] じゃぁ最初に自己紹介。

[2'20]

[青木] 突然お邪魔しまして申し訳ございません。私テレビ東京の報道で、今回年末の特番を作っておりますディレクターの青木と申します。よろしくお願いします。12/25にこちらがテレビ大阪で放送されるんです。テレビ東京系列で放送される西川きよしさんがMCでやっています報道の特番です。今回テーマが少子化ということで、いろんな形で少子化を追っています。その中で、私ともう一人ディレクターがいるんですが、世の中の30代の独身女性は何を考えているのかということを追うために、山本さんの目をお借りして、山本さんの考え方をお借りして世の中を見させていただこうかと思った。お仕事だけじゃあれなので、プライベートの面も密着させていただいて、今回はこういう機会があるということで大阪までくっついてきました。皆さん、透明人間だと思って、普段の通りで研究会を進めていってください。お邪魔にならないようにいたしますのでよろしくお願いいたします。

[佐藤浩] 一応研究会なので邪魔はしないでいただければ。それ以上うるさいことをいう人はたぶんいないと思いますので。

[青木] はい。

[佐藤浩] それでは第3回目のゆもか研究会を始めさせていただきます。[4'05] 今日はゲストに神戸大学の塚本先生と京都大学の菅原先生にお越しいただいています。それで、こちらにどういう人間がいるのかがゲストの先生方がおわかりにならないと思いますので、毎度のことなんですけど野島さんの方から名前と仕事ぐらいでいいと思います。簡単に。

[野島] いつも長いからね。

[佐藤浩] それで時間とるのはもったいないので、今日は山本貴代さんだけ長くやらないと絵にならないんですけど[笑]。野島さんの方から簡単にお願いします。

[野島] はい。NTTのマイクロシステムインテグレーション研究所というところで認知科学、認知心理学の研究をしております野島と申します。この研究会の佐藤さんをお手伝いすることもやっております。よろしくお願いします。塚本先生。

[塚本] 神戸大学の塚本です。今日は最初に話をさせていただきます。よろしくお願いします。

[大谷] 編集者の大谷と申します。よろしくお願いします。

[南] 成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科の南といいます。よろしくお願いします。

[菅原] 二番目に発表させていただく京都大学の菅原と申します。よろしくお願いします。

[内田] 夙川学院短大の家政学科ファッション専攻の内田と申します。よろしくお願いします。

[山本泰] ここのみんぱくにおります山本と申します。情報処理が専門です。よろしくお願いします。

[加藤] シィーディーアイというシンクタンクの加藤と申します。30代独身です。

[長浜] 大和ハウスの長浜と申します。よろしくお願いします。今日はオブザーバーで弊社の方でITの研究をしている吉田を連れて参りました。よろしくお願いします。

[佐藤優] 佐藤優香です。みんぱくにも通いながら、まぁ無所属なんですけれども、教育学が専門で、子供が[6'04][聞き取れず]をやっております。よろしくお願いいたします。

[山本貴] 博報堂生活総合研究所の山本でございます。よろしくお願いします。最近は20代30代のOL100人ちょっとを集めたネットを4月くらいからやっております。この間オフ会というものを初めてやってみまして、けっこう華やかでいろんな業種の女性達が30人ほど集まりましてワイワイとやりました。

[國頭] NTTドコモネットワーク研究所の國頭と申します。ユビキタスコンピューティングと呼ばれる空間でコンピュータはどんなふうに人をサポートしていったらいいのかという技術を研究しております。よろしくお願いします。

[安村] 慶応大学の安村です。ヒューマンインタフェースということで、人間の立場から技術がどう使えるかということを研究しております。よろしくお願いします。

[佐藤浩] ここのみんぱくの佐藤と申します。建築人類学というのが専門です。人類学者というよりも、もともとが建築専門ですので建築がらみの。今回の研究会でもそういうことでは関わっておりました。それから今日は何人かゲストの方がいらっしゃっています。名前だけでも。

[米谷] 千里文化財団の米谷です。前回に引き続きご一緒させていただきます。よろしくお願いします。

[平川] 淡路看護学校の平川です。専門は文化人類学です。[7'44]ハツエタンコ[?]ということで参加させていただきます。よろしくお願いします。

[佐藤浩] あとお一方いらっしゃるんですけれども、謎の覆面レスラーに。中休みのときにちょっとお話をしてもらいたいと思います。そのときに自己紹介をしていただきます。今日は、

[野島] 須永先生がちょっと。

[佐藤浩] 須永先生は実は昨日熱を出して急病ということで。出席される予定だったんですけれども、残念ながら今日は欠席ということになりました。

それから、今日なんで塚本先生と菅原先生お二人をお招きしたかという私なりの考えを述べておこうと思うんです。菅原さんはブッシュマンっていう、おそらく世界でももっとも持ち物が少ない民族の一つだろうと思うんですけれども、その調査を専門にされています。そして人間関係というのは必ず対面的なもの、身体的なものであるということを盛んに主張されていらっしゃいます。

一方、たぶん塚本先生がやられているのは、それとおそらく対極な、対人間関係を身体を通さずにやるという位置づけもできるかと思うんですが、実は現実の姿を拝見するときわめて人間的ですし、実は前回お話ししていただいた美崎薫さんも「目の前に見えているもの全部スキャナで取り込んで空間を真っ白にしたい」といいながら、やっていることは異常なまでにも身体的というか生々しいんですね。もしかすると両者が抱えている問題ってきわめて近いのかもしれないなということを思って、であればこの研究会でそういう視点でお話しいただいたら何か我々にもサジェスチョンがあるんじゃないかと考えました。それから、塚本先生の身体を拝見していると、本当にこれブッシュマン。全ての武器と情報を身につけて歩いているブッシュマンを思わせるようなところもあって、そういうインスピレーションも、お二人をどうしても一緒に会わせてみたいなと思ったきっかけでもあります。では塚本先生からですけれども、お話をお願いします。だいたい2時間ぐらい時間をとっていますので1時間程度で、残りディスカッションに使っていただけたらいいと思います。




ウェアラブルで行こう

[塚本] テレビでちょっと緊張が[笑]。今日はどうもありがとうございます。普段コンピュータ関係、情報関係の人の前で喋ることが多いんですけれども、今日は必ずしもそうじゃなくて、文化人類学・民族学そういうようなことをご専門にされている方がいらっしゃるということで、普段コンピュータ系の方では「文化」という言い方をしてるんですけれども今日はちょっといいにくいなというところがありますが、是非聞いていただきたいと思っています。

先ほど「身体から対極的な」という言い方を最初にされましたけれども、実は私の主張は全く逆です。こちらから見た時には離れているように見えるかもしれないですが、でもコンピュータの側から見た時には、コンピュータの作り出した仮想空間の中で人間は活動するんじゃなくて、人間の活動する場にコンピュータを持ってこないといけないと。それがまさにウェアラブルでありユビキタスであるという主張をしていますので、たぶん身体的活動というのを非常に重視するツールというのがウェアラブルではないかと思っております。

今日は「ウェアラブルで行こう」と。「ウェアラブルとユビキタスの統合による新しい文化の創造にむけて」という題目でお話をさせていただきます。コンピュータが小さく高性能になってどんどん、「つまらないこと」って書いてますけれども、以前軍事科学技術計算していたのと比べると今使っているのって実につまらないことであるという意味で言っています。つまらないことに使われるようになってきた。これからますます小さく高性能になってつまらないことに使われるようになる。実はこの「つまらない」というのはつまらないんじゃなくて大事なことなんだ。人間にとって大事なことなんだと感じております。それがつまり新しい文化であるというところにつなげて行くお話のつもりなんですけど、そういうふうになっているかどうかというのはまたあとで聞いていただきたいと思います。コンピュータを着るというのがウェアラブル・コンピューティングということで、私自身もう3年ぐらい前からコンピュータを体に装着して普段使ってみるということをやっています。

研究自体はもう10年以上やっておりまして、モバイルの自然な延長というのがこういう新しい装着型のコンピュータ利用なんだと思ってやっております。ただ、もう3年半ぐらいになりますけれども、意外なことに未だに孤独である。これは本当に意図に反していて、やり始めた時は、特に研究者仲間はみんなするだろうと思っていたんですけれども誰もしない。なぜかちょっとわからないです。それからもう一つ。意外なほど周囲の反響があって、これは雑誌とかテレビもそうなんですが、周りの人が会う時にすごく期待をしてくださっているんです。やめるにやめられない。この二つが上手く折り重なって今の状況を作り出していると感じております。

「新しい文化の創造」ということで、こういうコンピュータを装着して利用するという、この姿では文化の創造にはたぶん失敗したんだと反省していますけれども、ウェアラブルというのはこれだけじゃないというところを最初にお話させていただきたいと思っています。[14'13]

ここ10年の驚くべき変化というのは皆さん感じていらっしゃると思いますけれども、キーワードは「モバイル」「マルチメディア」「インターネット」である。この3つで本当に10年前と我々の生活ががらっと変わってしまったというところがあります。ただ変わったとはいえ、我々の食べるものそんな大きく変わった訳じゃないですし、やっぱり10年前と同じように電車に乗って通勤して、車は渋滞していて、普段の身の回りの生活ってすごく変わったところとそんなに変わっていないところがあると思います。結局、機器が小さくなって集積度が上がった。まさにマルチメディア・モバイル・インターネットですね。だけでそんなにすごいことができるようになった訳じゃないということを感じます。

デジカメというのは確かにすごいですし、携帯電話というのもすごいです。ただやっていることは写真を撮って、あるいはやっていることは通話していて、あるいはメールでという新しいやり方がありますけれども、やっぱりそんなに、「2001年宇宙の旅」で書いていたような知能ロボットが出てきたり、人類の文化が大きく変わったという観点からはそれほど大きくないんじゃないかという感じがしています。人々の暮らしの変化。これは確かに暮らしは変化していますけれども、これは生活の中に情報機器が入り込んで来ている。デジカメ・携帯・メール・ウェブ。最近はブログとか出会いとか暇つぶしとかそういうところにコンピュータを使うようになってきている。これらはさらに生活に入り込んでくるだろうと考えられるわけです。

これからの変化は、コンピュータはもっと小さく早くなると。ネットワークはもっと太く小セルになる。これらの影響はこれから10年もわっと進んで何か可能性があると思いますが、実はやっぱりなかなか進まないのが本当に難しい部分。たとえば、人工知能、音声画像認識プログラム開発環境、いろいろコンピュータ技術としてはありますけれども、こういうのは本質的に難しくて、10 年ぐらいでぱっと変わるわけではないと思います。[16'28]未だに我々Cでプログラミングしているというのが、20年前とそんなに変わっていないという気がします。

それから、ロボット・ゲノムなど。これも今ロボットがすごく流行していますから急に変わってきた部分があるかもしれないですが、鉄腕アトムみたいなロボットが出てきて我々と仲良く暮らすことができるかというと10年ではやっぱり苦しいのではないか。やっぱりロボットロボットして、ロボットロボットという表現は難しいですね。そんなに知能的じゃないロボットを、我々が限界を理解した上で使うというところが可能性があると思います。

それからゲノムなど。これも10年のスパンでそんなにすごく動いていくかというと、やっぱり動かない。人は今までと同じように生まれて死んでいくというのはこれから10年変わらないんじゃないか。人々の心の豊かさ、人々の生活・楽しみみたいなものは表層的には変わっていくと思いますけれども、深層的な部分がそんなに変わるものではないと思います。本質的に難しい部分の影響というのは、これから10年でそれほど、予想できる部分というのは少ないと思います。何かもしかしたら大きな変化があって、ばーっと変わるかもしれないですが予想はしにくいという意味で、その前者の「コンピュータはもっと小さく速くなる」「もっとネットワークが太く、セルが小さくなる」というあたりはがらっと我々の生活を変えると思いますので、そのあたりを中心に、難しい技術をあまり入れずに、できることというのでこれから10年どう変わるかというところを考えてみたいと思っています。

で、モバイル。さっきいいましたけれども、次のステップというのは明らかにウェアラブルとユビキタスであると思います。モバイルというのはコンピュータ機器を持ち運んで利用できるということで、今のデジカメ、携帯などはポケットの中にコンピュータ機器を持ち歩いて、外でコンピュータ機器を利用できるということでこれまで10年大きな、我々にとって変化があったと感じられる部分ですが、次の10年の変化というのはコンピュータが人にくっついた状態で、ポケットの中に入れて取り出して使うのではなくて、くっついた状態で使えるというウェアラブル。いつでも使えるということだと思います。それからものとか場所にコンピュータがくっつくというユビキタス。これがこれから10年に本当に展開していくだろうと思っています。

ポイントは3つあります。重要なのは、これは私の主張なんですけれども、ウェアラブルというのは近いうちに必ず立ち上がる。これは意外と近いうちに立ち上がるというのが主張です。ユビキタスというのは徐々に身の回りのものが置き換わっていくと。身の回りの空間が変わっていく。で、両者とも普段の生活に多大な革命をもたらすというところです。このあたりは言わずもがなかもしれないですけれども、コンピュータの使い方。コンピュータが生まれて50年ですけれども、これまで本当に使い方というのは変わってきた。[19'38]もの自体は小さくなってきただけなんですけれども、アーキテクチャとかはほとんど変わらない。だけどびっくりするくらい小さくなったということによって使い方が全然変わってきたと思います。

最初60年代大型計算機。部屋一杯を占めるコンピュータというのは軍事科学技術計算で使っていたと。国家とか世界規模の目的に使っていたわけですが、それが70年代80年代になって小さくなって机の上に置かれるようになった。その小さなコンピュータというのは何に使うようになったかというと企業規模の目的。業務とか会計、文書作成。そんなしょうもないことに使うようになったと思います。しょうもないっていうのは、たぶん1世代前の人が軍事とか科学技術計算という目的で使っていたのと比べると、これは全然しょうもないわけですよね。会計計算、文書作成。「そんなものにわざわざコンピュータ使うな」と昔の人だったらいっていたと思いますけれど、70年代80年代はこんなしょうもない新しい使い方になった。

それが90年代になってモバイルになった。鞄の中に入れてコンピュータを持ち運べるようになると、真に自分のコンピュータを利用できるようになって個人タスク。それも業務とけっこう離れたレベルでの利用の仕方というのが主流になってきた。もちろん使い方というのはメール、ウェブ、プレゼン。「こんなプレゼンにわざわざコンピュータ使うな」と70年代80年代の人は言っていたと思います。「トラスペアレンシーがあって手で書けばプレゼンなんてできるじゃないか」とみんないうと思いますが、たぶん20年前に20年後は全員プレゼンというのはコンピュータ使ってやるようになるということを予想しにくかったんじゃないかなと思います。

で、これから2000年代ですけれどもコンピュータはさらに小さくなる。何に使うのかというと、今メールとかウェブのために使うコンピュータ。これを全く違う、たぶん今で考えるとしょうもないことに使うようになってくるんじゃないかと思います。しょうもないことというのは実は、最初にも言いましたけれども、大事なことであるというふうに話を進めていきたいと思います。人の場所にコンピュータが着くということですけれども、これが今いっぱい小さいコンピュータがくっついていまして、何が一番違うかというと、実世界の中で使うというところが違うと思います。今でも携帯電話とかデジカメ、実世界の中で使っているじゃないかというかもしれないですけれども、まだまだ実世界の中での使われ方というのは半分だと思います。実際パソコンなんかは机の上で、コンピュータの世界の中で、コンピュータの中の世界の操作というのをしているという意味で、そうじゃないとこれからのコンピュータっていうのは実世界の中で我々が何か動作や行動をする時にコンピュータが助けてくれるという使い方になってくるという意味で、真に実世界の中でコンピュータを使うというのがこれから10年の変化であると思います。

で、ウェアラブル近いうちに立ち上がるという話です。ウェアラブル・コンピューティング。HMDをつけてPC をつけてというこの写真、私の3年前の写真ですけれども。これは、見た目が異様であるという意味で、ちょっと皆さん避け勝ちであったというところが敗因ではないかと今にしての最近の反省点です。これは神戸の街でけっこうきれいなんですけれども、こんなふうにコンピュータをネットワークにつなぎながらメールを読んだり書いたりしながら歩いています。しかし、これだけがウェアラブルではない。あれを見て「あれは流行らないよ」と思っていらっしゃる方多いと思いますが、その気持ちを是非払拭したいと思っています。この絵がいいというわけじゃないですけれども。

上はウェアラブル携帯。ウェアラブル・デジカメ。パソコンを使うんじゃない。携帯とかデジカメをポケットから取り出して使うんじゃなくて、普段から使えるようにする。携帯からぴゅーっと線が出ていてサングラスとかめがねにくっついていて、めがねのこの辺の端っこの方に画面が見えていると。デジカメもそうです。ここに画面が見えていて、こうやって写真を撮ったり撮られたりすることができるという方がいいだろう。それからディスプレイ服というのは、服にディスプレイが付いていて、ここにいろんな情報とか模様だとかを表示できるというのも装着型の情報機器という意味でウェアラブルだと思っています。[24'19]

それから電飾ドレス。これはもっと単純なコンピュータ利用なんですけれども、これは単にLEDが服に付いていてこれをマイコンで制御して点滅させるだけというようなもの。これもコンピュータで制御すればウェアラブルであると思っています。こういうふうに、結局ウェアラブルというのは情報機器を身体に装着して、その装着した状態で利用できるというところが今までのポケット型の情報機器と違うところである。何度もいっていますけれども、ポケットに入れておいて取り出して使うというのではなくて、装着している状態でもう使えるというのがウェアラブルであると思います。

一体何に使うのかといいますと、これは軍事用・業務用・民生用、3つ大きくあります。軍事用というのはアメリカで30年以上前から研究開発が行われている。業務用というのは1 0年ぐらい前からいくつかの会社がトライしていますけれども、なんかうまくいっていないというのが現状だと思います。それから民生用。最終的な本命はこれである。普通の人が普段の生活の中でコンピュータ機器を装着して、それを普段の生活の中で利用するということだと思います。で、業務用いくつか挙げていますけれども、営業・セールス・消防・警察・ファーストフード・コンビニ・警備・介護・道路工事・建築現場・航空機船舶修理・宅配便・引越屋。この辺がたぶん今後のビジネスの本命だと思います。実際に現場業務するあらゆる人が現場で両手両足使って現場の業務をするわけです。そのときに情報利用したいと思ったらこういう装着型の情報機器を利用するというのはもう当たり前。10年後には当たり前になると思うんですけれども、なかなか産業の立ち上げの部分で上手く今行っていないというところだと思います。

我々「チームつかもと」っていうNPO法人作っているんです。今お手元に資料配っていますけれども、業務用っていったって単に使うだけじゃなくて、見せると。見せる業務というのがあるんじゃないかと思いまして、それがもっと目立つところで業務用で使ったらいいんじゃないかと思って実際活動をしています。それがテレビ。イベント、競技。その辺で利用すれば、単にこれを使っているというだけじゃなくて、使っているところを見せることができる。見せることができると「何だろう」と思って使う人が増えるというのがねらいです。是非目立つところでみんな使ってほしいと思うんです。報道レポーター、司会者、ディレクター、イベントの司会、音楽、キャンペーンガール、それから競技。スポーツ選手とかがこういうのをみんなの前に立ってこれを使っていると「おぉ?何だろう」と思って人が集まるわけです。テレビでも、テレビでぱっとチャンネルをひねった時にこれが映っていると「あれ?何だろう」と思って一瞬止まるわけです。こういうウェアラブルというのは単に機能性だけじゃなくて、何か体に装着するという意味でファッション性というんでしょうか?目立つ。見せることができるというポテンシャルがあるというところで今までの情報機器とは全然違う側面だと思います。そこで何とか流行らすことができれば、真のねらいは民生用。普通の人が普段の生活の中で使うことができるというところにありまして、パソコンをウェアラブルで使うという一つの使い方があります。

実際私がやっているのはパソコンを使っているんですけれども、文字入力とか細かい操作っていうのは非常にしにくいという意味であまり向いていない。むしろモバイルカレント[?][28'04]。デジカメとか携帯とかテレビ、ビデオ、カーナビ。そういうところで使っていくというのがけっこういいと思います。あるいはもっと今までにないような簡単なもの。それは単にサングラスの中に時計が見えているだけというようなものでもいいんじゃないかと思います。こうやって時間を見るよりかは、ずっと。この辺ぱっと見れば見れるというのが考えられると思いますし、さっきも言いましたような電飾のアクセサリ。チカチカ光るけれども、何かインタラクティブにアクションを起こすようなアクセサリというのは考えられると思います。それからディスプレイ服。服にディスプレイが付いているというもの。最初はサンドイッチマン。業務用体と思いますけれども、ゆくゆくは何かブランドのロゴを表示しておくとか、何かきれいな模様を表示しておくというような、民生ですね。民生用途に変わっていくんじゃないかと。これはもう本当に10年後だと思いますけれども、柄が変わらない服なんていうのは考えられないというふうになるんじゃないかと思います。本命。

もう一つ用途としては、本命としていわれているのがユビキタス情報受信。街の中を歩いているといろんな情報がやってきて、その情報っていうのをここでキャッチできるという使い方だと思います。さっき実際に文字入力しにくいということで私どもの研究室では文字入力だとかコンピュータ操作というところを中心に研究していますけれども、これはあまり本質ではないと思ってはいるんですけれども、「実際どんな研究しているの?」ということを良く聞かれますのでちょっと紹介させてもらいたいと思います。

一つは、指輪を両手にはめて、そこにポインタがあってそれを操作するというデバイスを作っています。実際この二つを使って文字入力というのもやっています。セッティングがちゃんとできていないので画面を。ムービーを見ていただきたいんですけれども。これかな?一つでマウスの代わりになっています。ポインタとあとボタン2 つがあるんですけれども、これ2つ使っていて2 つポインタがあるんです。この辺とこの辺に。2 つあるからこの辺でもこの辺でもさっと操作できるというのはあるんですけれども、それ以外にも文字入力もできるようにしようとしています。どうしているかというと、2つのポインタの方向で、片方であかさたな、片方であいうえお。で、ボタンを押して確定というふうになっています。こんなふうに両手の方向を示してボタンを押すというふうにして文字を入力しているというものです。

それからもう一つ。似たようなものなんですけれども。あ、これのポイントを言い忘れていましたけれども、ポイントはあれを見てもらったらわかると思いますけれども、両手で大きな荷物を持っている時でもメールが打てるという点がポイントですね。そういうのは今までデバイスとしてなかったんじゃないか。「助けてくれぇ」というメールを彼は打ちたいわけです。それからもう一つやっています。これは両腕に腕時計をはめて、腕を動かしてコンピュータを操作するというものです。これも同じような感じで、くねくね腕を回して文字を入力するものです。これかな?で、これはIBMとシチズンで開発したウォッチ・パッドというLinux・ウォッチです。加速度センサーとかが入っているものをそのまま利用しているんですけれども、こういう。これどういう動きをとっていますよということを説明しているんですけれども、何かこうやってノックするというのもけっこう精度良くとれます。ウィンドウ操作、ウィンドウの切り替えとかはこういうふうに操作するというふうになっています。両腕で撮っていますのでけっこういろんなことが撮れる。文字入力もこの2枚の看板をこうやって回転させる。「あいうえお」と「あかさたな」の看板の板を動かして、なんかこうやるんですか?ノックしたりとか、いろいろして確定ということをします。これ入力するパターンはいろいろ用意していまして、1行の帯で「あ」から「ん」まであるやつを片手だけでこうやって入力するというバリエーションも用意しています。[32'53]一応想定しているのは、さっきとほぼ同じように、これはこういう書類を持っている時でも入力できる。あるいは荷物を持って電車の中でつり革持っているという状態でもこうやって操作できるというあたりを想定しています。実際やってみたけどだいぶやりにくかったです。指輪はまぁまぁできるんですけれども、線がいっぱい出ていて、普段つけていると線がちぎれちゃったり、何日かでつぶれてしまうというところが悪いところでした。

もう一つはAウェアっていうシステムを作っています。これはいろんなシステムの基盤です。ミドルウェアなんですけれども、ルールベースでアプリケーションをどう起動するか。どういうふうにセンサーとか通信情報を応じてアプリケーションをどういうふうに起動するかというシステムを作っています。これは実際、あとで紹介させてもらいます8耐とかWPC とかライブとかそういうところで使うシステムとして実際に使ってやっていますので、これはけっこう重宝しているというところがあります。さっきも言いましたように、ウェアラブルというのは近いうちに必ず立ち上がるというポイント1なんです。

これぜひ皆さんに覚えておいていただきたいんですけれども、その理由は、さっきも言いましたように目立つというところにつきると思います。これは話題性がある。ユビキタスっていうのは一般的にだめなんですね。ものとか場所とかに埋め込んじゃうわけです。だから坂村先生もだいぶ前におっしゃっていたんですけれども、トロン住宅というのを10年ぐらい前に作った時にいっぱい記者を呼んで「どうぞ!」っていってみてもらったけれども中身見てみると、あ、関係者いらっしゃいます?「中身見たらちょっと近代的な普通の家じゃないの」といってなんかがっかりされたと。「あれはちょっとイマイチだったなぁ」ということをおっしゃっていたんですけれども。コンピュータは埋めちゃったらだめ。埋めちゃったら目立たないですよね。やっぱりちゃんと外につけるのがポイントで、それをさらにLEDとかいっぱいつけて目立たすというんですか。それが何よりも大事なんだと。大事っていうのは使い勝手がいいとかいうんじゃなくて、話題性。それから時代の象徴になるということ。それからメディアの注目を集めるというためには何よりもそこを重視していかないといけないぞという点があると思います。

それからもう一つ。体につけるコンピュータというのはファッションであるという意味で、今までの情報機器の流通サイクルと違って1年に4回新しい流行がくると。5回ですか?いう風なものだと思います。くればですね。くるようになるとそういうふうになると思います。

で、予言。ウェアラブルで5つぐらい予言をしたいと思います。まずはこれからテレビとかショーなどでウェアラブルを目にする機会が増えていく。これはもうちょっとずつ実現しつつあるというところです。それからウェアラブル1年で立ち上がる。これは言い続けて3年ぐらい[笑]。ちょっと次の7年は是非協力していただきたいと思うんですけれども。これは協力お願いします。[36'21][聞き取れず]ウェアラブル携帯、ウェアラブル・デジカメ、年内登場といっていたんですけれども、これはもう年の瀬。徐々に苦しく。来年に置き換えようかなぁと思っているところです。1年後には梅田を歩く若者の50%がHMDを装着している。渋谷原宿でもいいんですけれども。万博公園でもいいですけれども。HMDみんなつけているというのを目指したいと思います。で、時計付きサングラス、電飾アクセサリ、2年以内ブレイク。このあたりを目指していきたいと思っています。是非ご協力を。あ、6もありましたね。ディスプレイ付き服というのは業務用というのが1 年以内。民生用というのが5年以内と思っています。民生用というのは、宣伝に出すというのではなくて、柄とかを出すというタイプです。柄とか、デジカメで自分が撮った写真を、まぁこんな小さいのでもいいと思いますけれども出すというパターンです。

ポイント2っていうのは、ユビキタス徐々に立ち上がるというところです。ユビキタス。これあまり説明する必要ないかもしれないですけれども、世界的にはユビキタス・コンピューティングと。でも日本はなぜかユビキタス・ネットワークですね。ネットワークがどこでも使えると。これはたぶん日本社会が言葉を先にばーんと出して、それでお金とか政治が動いていくというところにあると思うので、ちょっと小さく書きましたけれども、もっと小さく書いた方が良かったかもしれないですね。何とか総研の陰謀ではないかと思います。博報堂でもいいですけれども。博報堂、是非ウェアラブルにのっていただきたいと思うんですけれども。ユビキタス・コンピューティング。ものや場所にコンピュータが付くということですけれども、これは既に源泉がありまして、常にものには値札だとかタグ、バーコードこういうものが付いている。これが徐々にワンチップのコンピュータに置き換わっていくというのがユビキタスであると思います。で、場所には機器があると。これいろんな場所にいろんな機器っていうのは既にあると思いますけれども、地下のホットスポット、インターネット・カフェ、それからキオスク端末、店頭端末、信号、自動改札、エレベータ、エスカレータ、監視カメラ。これらもセンサー付きでいろんな機器を制御しているという意味で街角の情報機器と思います。これが進歩していくんだと。たとえば携帯電話とかなんちゃらカードとかと反応してエスカレータが動いたりとまったりする。速くなったり遅くなったりするということだと思います。ビル・セキュリティ・システム、コイン・ロッカー、街角ディスプレイ。これも今は決まったことを出すだけですけれども、これはもうちょっとインタラクティブにいろんなことができるようになってくるだろうと思っています。で、今ある源泉をもっと進化させるのがユビキタス・コンピューティングだと思うんですけれども、もっと高度なコンピューティングを行えるようになるというところと、もっと日用品に入ってくるという2つの点が違うところだと思います。高度だっていうのは汎用性。いろんな用途に使える。エスカレータとか街角ディスプレイですね。それから自立性。ユーザがいなくても自立的に動作できる。有機性。複数のコンピュータが有機的に連動するというところです。

「もっと日用品に」っていうのは机、いす、鞄、服、茶碗、箸、コップ、ノート、洗濯ばさみ、クリップ。ですからコンピュータメーカー、今ユビキタス、通信メーカもそうですけれども、ドコモさんもそうですけれども、ユビキタスという言葉をすごく使っていると思いますけれども、実はこれからのユビキタス・コンピュータ商品というのはそういう通信メーカ、コンピュータ・メーカに競合するライバルとして、いろんな日用品を作っているところが出てくると思います。それこそ事務用品作っているところなんていうのは、今いろんなことやっていますけれども、それ以外にも、たとえば100円ショップで売っている洗濯ばさみ、これが何かタグをつけれるようになったりだとか、あるいはヨドバシカメラとかビッグカメラで洗濯ばさみを売るようになるというふうになって競合していくということが考えられると思います。で、ものに埋め込んだコンピュータを何に使うのかといいますと、これすごいコンピュータ利用ができるのかなと考えている方多いかもしれないかどうかわからないですが、実はすごくしょうもないことに使うというのが答えだと思います。

私は、生活の中でのプチ・コンピューティングという言い方をしているんです。プチ・スーパー・コンピューティングじゃない。プチ・コンピューティングだと。50 年前に科学技術計算している時に企業内での文書作成なんかにコンピュータ使うなんていうのが想像できなかったのと同じように、今ウェブとかメールに使っているコンピュータ、それが洗濯ばさみに入ったらどうなるかっていうのは、けっこう今想像しにくい。なんてしょうもないと思うようなところに使うんだろうと思います。

今実際進んでいるのが、流通業界の中でIC タグというのが流行りつつあります。製造、生産、流通、廃棄というものが生まれて死んでいくまでものにくっついてそのものの一生をいろんな形でサポートする。それを人間側が利用するということだと思うんですけれども、そういうふうに使われ出しつつあると思います。[41'53]とりあえずICタグから進んでいくんですけれども、それがたぶん今みたいに単なるタグというだけじゃなくて賢くなる。java が動くとか、あるいはセンサが付くというふうになったらどうなるだろうかというと、インターネットにつながるとか、たぶん洗濯ばさみセンサーが付くと思います。で「乾いたよ」っていうのを教えてくれると思います。

で、どう使うか。それを上手いこと使う何かビジネスの組み立てっていうんですか?そこにたぶん一番センスが必要で、コンピュータ技術者が「洗濯物乾いたよ」っていうのを教えてくれるアプリケーションというのをいくら作ったって、どうみてもしょうもない、どう見ても誰も使わない。それがちょっと、あ、皆さんそういう専門の方がお近いようですけれども、生活クリエータの方、なんかさっきそういう名刺を見たような気がするんですけれども、そういう生活プロデューサっていうんですか?そういうセンスのある人が上手いこと別のものと組み合わせて作るとすごくいいビジネスがそこから立ち上がって行くというのは今でも可能だと思います。あるいは情報家電から進んでいくという意味で、情報家電の新しいブームというのが今起こっていますけれども、今ブームとは違う、もしかしたら日用品の情報家電というブームがこれから進んでいくのではないかと思います。

それからもう一つ。場所にコンピュータが埋め込まれるとどうなるかといいますと、これはいろんなものや場所にコンピュータとかセンサが埋め込まれて、その場所をずっと見守っている。その見守った上で何かアクチュエータとか何か情報を発信するという形で、その空間の中で人々がいろんな活動をするのをコンピュータが賢くサポートしてくれるというのが新しい、場所に埋め込まれたコンピュータの利用で、研究分野ではスマート・スペースとかいうような言い方。インヴィジィブル・コンピュータというような言い方で研究開発が今進んでいます。これもたぶんコンピュータ技術者がやるとなかなかいいのが出てこなくて、生活デザイナーが作ると全然違うのが出てくると思います。実際スマート・スペースっていうのは世の中に既にありまして、あ、出てこなかったですね。すみません。文字が出てくると思ってたんですけれども。トイレ。トイレというのは既にスマート・スペースであると私は思っています。女子トイレはどうか知らないんですけれども、男子トイレは入っていって便座の前に立つと水が流れる。で、去ると水が流れる。で、シンクのところに手を出すと水が流れる。こっちに手を出すと石けんが流れる。こっちに手を出すと風が出てくるとか、センサが空間の中に埋め込まれていて、空間の機能と上手く連動して人間のそこでやろうとしている作業とか活動をサポートしてくれるということです。なぜトイレから入ったかというと、人間がトイレでやることはだいたい決まっているという意味でサポートしやすいわけです。割と簡単な機構でサポートできるというところにあると思います。それが次が洗面所であったり、あるいはお風呂であったり脱衣所であったり、あるいはコインロッカーとか。割ともうちょっとやることが決まっている場所に入っていって、ゆくゆくはこういう汎用の目的で使う場所、あるいはお茶の間とか寝室とか、いろんなことをする場所に変わっていくんだろうと思います。[45'39]

これもちょっと研究の紹介なんですけれども、我々は「ユビキタス・チップ」っていう六角形の小型のコンピュータを作っていまして、NECとの共同研究なんですけれども、このコンピュータはコンピュータといいつつ、入力と出力の関係をコントロールするようなコントローラです。こういう入力が入ってきたらこういうふうに動作してくださいというルールを何10 個か、10 個20個かもしれないですけど、書いておいて、それでいろんな機器を接続しておくというような機器です。ちょうどイメージとしては、工場用のシーケンサーっていうのがぴったりイメージに近いんです。工場用のシーケンサーっていうのは工場のラインを流れる工場製品をセンサとかアクチュエータとかいっぱい置いておいて、センサの値でぎったんばっこん製品をどんどん作っていくというシーケンサーというのはちょうどそういうものなんですね。センサの値がどうだったらこのアクチュエータをこう動かすというルールをいっぱい書いておくものなんです。その工場用のシーケンサーを我々は生活空間に埋め込みたい。あるいは人が装着して使いたい。センサの値がこうだったらばたんとこれが動くとか、これがばたんとこっち向くとか、そういうふうに使いたい。生活の中で使いたい生活のコントローラであるという意味合いでこういうものを作りました。これがまさにユビキタス・コンピュータであるという主張です。

ちょっとユビキタス関係の予言をいくつかさせてもらいたいんです。ユビキタスが広がるには5~10年。これは建物を造るなんていうのは本当に5年10年、もしかしたら20年計画ですから、今から設計したら5 年後10年後にできるということになります。それから新しい道路を造るとか都市開発ということになると、それこそ本当に長期のスパンになってくると思いますので、ユビキタスが本当に広がるというのにはやっぱり5年10年というスパンが必要であると思います。それからICタグというのが特定場所からあらゆる場所へ。特定場所というのが、もう今すごく流行っていますので2年ぐらいでICタグを使える場所っていうのができてきそうです。このみんぱくなんて本当に最初にICタグが使えるようにもうなっているかもしれないですけれど、なりそうな場所だと思います。いろんな場所で使えるようになると思います。それから「あらゆる場所へ」っていうのが10年スパンだと思います。

で、10年後。あらゆるものにコンピュータが付いていて、あらゆる場所にセンサが付いていたら、なくした財布っていうのがインターネットで探せる。安村先生のコートも今ピピピッと出せば、今この駅にあるよというのが。今大体インターネット全盛期で、地球の裏側に住んでいる人が書いたHPでもGoogleで検索して探せるわけです。コンピュータなんて3ギガで今動いているわけでしょ。これだけ高度にコンピュータ技術が進歩した世界で、なんで安村先生の大事なコートがどこにあるか今わからない。もう本当に不思議に思います。それができるようになるというのが、まさにこれからの10年の変化だと思います。本当に我々身の回りのものというのが、探すというだけじゃないかもしれないですけれども、今どこにあって、今この場所でどんなことができるということは、我々この空間の中で活動する上で非常に重要な情報だと思いますけれども、それがコンピュータでパパパッとわからないというのがわかるようになるというのが10 年後だと思います。そうするとたぶんGoogleとかYahoo!とかそういうのを使って、「ホッチキス」とかってやったら「そこの引出の中に入っているよ」って教えてくれるという風になると思います。別に検索しなくても、状況を見てホッチキスが必要だと思うと「ホッチキスはここですよ」っていうのが出てくるようになると思います。[49'46]

で、ポイントの3番目ですけれども、ウェアラブル・ユビキタスっていうのは人々の普段の生活に多大な革命をもたらす。たぶんこれが一番重要な所なんですけれども。お、ちょっとゆっくり喋り過ぎ気味ですね。これウェアラブル、ユビキタスの統合ですけれども、人や物や場所にくっついたコンピュータ。これは互いに相補的であるというのが重要です。つまりユーザのことを一番よく知っているのはユーザにくっついたウェアラブル・コンピュータである。それから場所のことを一番よく知っているのは場所にずっとくっついているユビキタス・コンピュータです。で、もののこと。これのことを一番よく知っているのが、このもの、コップに付いたユビキタス・コンピュータです。この3つの情報をちょっと交換するだけで、「今私お茶が飲みたいけど、これがちょっとぬるいよ」とかそんなことがわかったりするわけですね。ウェアラブルとユビキタス、情報を交換するだけで、その場所で、今その人がそこにあるものを使ってなにか活動するのに手助けとなるような情報というのが提示できるということです。適応的な実世界的なコンピューティングが可能になるということなんです。これはたぶん今までのコンピュータが作り出したデスクトップという空間の上で、こうやってああやって、アイコンとポインタを動かして操作してコンピュータを利用するというのとまったく違う。この実空間の中でお茶を飲むというのがコンピュータ利用なんだというところが。お茶今いいですから、別に。すみません[笑]。そういう実空間の中でコンピュータを利用するということですけれども、その実空間の中で人が何を利用するかというと、まずは便利・快適であるというところから始まるんだと思います。ユーザの不快さを検出して適応的にサービスを行う。だけど、この「便利・快適」っていうのはほんの初歩だと私は思っていまして、実際に生活の中で一番人々が必要としているのは「豊かさ」「楽しさ」だと思います。これがやっぱりコンピュータ技術者はわかりにくい。頭ではわかっていても本当にはわかっていないという部分だと思います。それから通信メーカ、コンピュータメーカのトップの人たちがあまりわかっていない部分じゃないかなと。口では言いながら、やっぱりなんかわかってないんじゃないかなと。便利・快適、まぁ安全と安心というのも入るかもしれないですけどね。安全・安心というのは最近トレンドですから、これは入れた方がよかったかなと今思っていますけれど。本当は「豊か」「楽しい」だと思います。で、キーワードは「ファッション」「エンターテインメント」であると思います。で、ウェアラブル・ユビキタスというのはファッションであるというところでいろんな取り組みをやろうとしていますので、後でも紹介をざっとさせてもらいます。[52'44]

で、もう一つ「エンターテインメント」であると。これは今までのコンピュータ・ゲームじゃなくて、いつでもどこでもなにか楽しいことをしようよと。宴会楽しくしようよと。今子どもたちが公園に集まったと。まずは安全だというのはできると思いますけれども、それだけじゃなくて「鬼ごっこしようよ」というのを楽しく演出してくれるのがウェアラブル・ユビキタス情報機器だと。そこにある遊具とかをうまく活用した新しい鬼ごっこゲームというのができると思います。ただ難しいのはうまい切り出し方だということで、これもやっぱりコンピュータ技術者じゃない人たちが考えてほしいところだと思います。

私が考えた例をいくつか挙げてみました。あまりよくないかもしれないですが、これはあっちこっちでいっている話なのでちょっとご批判いただきたいんですが。「音や映像のカジュアル利用」。これは1番目は、ずっとカメラ撮っておくという話です。この辺にカメラがあって一日中撮り続けるカメラ。何に使うかというと、研究者の中では裁判の証言に使うとか、一生記録するとか、そんなことをいっている人が多いです。それは私はそうじゃない。どう使うのかというと、デートとか飲み会の時に「昨日こんなことがあってね」っていうのを映像つきで喋る。テレビ番組で再現フィルムとか必ず映像がありますよね。あれは映像がなかったらしょうもないからだと思います。逆に作り込みの映像でも映像があればすごく人の心に訴えかけるものというのがあるからだという風に、映像というのは大事なんだと思います。それをなぜ我々は、我々にとって一番大事な、我々の人生にとって一番大事な飲み会とデートで使わないんだと。飲み会で「今日こんなことがあったんですよ」というのを口で喋るだけじゃなくて映像つきで喋ったらどれだけ面白いかと思うんですけれどね。逆に、コンパとかで若者5 人集まっていて一人だけ映像なしで昨日のこと喋ったら「おまえいけてねぇなぁ」とかいって、そいつも次の日にはウェアラブル・カメラを買わずにいられなくなるという意味で、文化として後戻りできないと。こういうのが前に進むと。いう側面があるのではないかと思います。是非そういう風に、楽しくするために映像を使いましょうと。これデジカメでもいいんですけれどね。

で、2番目。音です。生活内BGM効果音。これも一緒で、テレビとか映画で音をうまく使わないものというのはないわけです。映画もテレビ番組もそうですけれども「ジャジャン」という音を派手に出して、「あぁ今のテレビ番組よかったな」とか、あちらの方にもいっているんですけれど「今の映画よかったなぁ」とか視聴者が思うんですけれど、実は半分ぐらい音にだまされている。音にだまされているんですね。映画は特にそうですね。今私がなにか喋るときも、音なしで喋っていますけれども、音ありで喋ったらすごいことになるんじゃないかというのをちょっと。あまりよくないかもしれないですけれども。[56'12][ 怪しげなメロディ]実はね、

[一同] [笑]

[塚本] 昨日の番組とか。これ、できるわけですよね。やっぱり皆さんもうちょっとこういうものを。あんまり音と喋っている内容が合ってなかったようです。[56'35][笑い声の効果音]ちょっと失敗した。これ効果音の方でしたね。[56'40][「プォ~ン」という効果音]これはどこで使うんでしょう。[56'43][ 愉快なカントリー調のメロディ]という具合に楽しくプレゼンをする上でも必要。プレゼンじゃなくて、むしろ宴会。宴会とかデートでこういうのをうまく使いこなして盛り上げる、彼女のハートをゲットするというのがいいんじゃないかと。これこそ体に情報機器、それも音と映像がうまく活用できるようなウェアラブル情報機器を、あるいはユビキタス機器があってもいいと思うんですけれども、利用できてこそ使える利用方法だと思います。

もう一つ。さっきもちょっと言いましたけれども、電脳スポーツ。これは強く主張したいんですけれども、今は子どもたちはテレビの前でテレビゲームをじーっとしながら利用しています。1日2時間3時間非常に不健康なテレビゲームをしているわけです。テレビ番組もそうですけれども1時間2時間、まぁちょっと見るくらいにはいいと思うんですけれども、これじーっと見てるというのはやっぱり不健康だと思います。1日中見ているというのは不健康だ。そうじゃないと。子ども達は将来はテレビゲームを腰に付けて、ウェアラブル・テレビゲームを付けて公園の中で走り回って鬼ごっこするというのが思うところです。それからテレビに関しても地デジとか出てきていますから、まぁじっとして見るというのもいいですけれども、もっと普段の生活の中で何気なくニュースとか番組を見るというのがこれからもっともっと増えてくるだろうと思います。それからそれだけじゃなくて、スポーツ観戦も、野球、サッカー、テニス、運動会、レース、こういうのもこういう機器を見ながら観戦できるというのがいいと思います。今野球中継なんていうのはテレビで見ていますけれども、野球中継テレビで見るよりはやっぱり現場で見る方がずっと面白いと思います。現場の雰囲気、周りの観客のなにかがやっぱり現場にはあると思います。逆に今現場に行くと情報がなくて、「なんかテレビで見た方が面白いよね」っていうことになっちゃう部分があります。両者掛け合わせるとどれだけ面白いことになるか。それがウェアラブル・テレビを身に付けて野球観戦ですね、現場で。というのだと思います。

それから3番目。街角ビデオクリップ配信。これはユビキタスの応用なんですけれども、街の中歩いているといろんな情報が降ってくるという話は、皆さん研究者だと、特に通信関係の方はやっていらっしゃると思いますし、5年後には必ずこれが来ると。携帯電話で次から次へと情報が来るよといっていらっしゃると思うんですけれども、これはもう絶対間違いないと思います。さっきの私のポイントでいうと、2年後にウェアラブルが流行っているはずですから、このユビキタス情報配信が流行るより前にウェアラブルというのはもう流行っているはずだと思います。それだけじゃなくて、そんなユビキタス情報が、たとえば一歩歩くごとにいろんな情報、「そっち歩いたら危ないよ」とか出てくるのにわざわざこれを手で持ってずっと見ているなんていうのはどう考えても考えられないハズだと思いますけれども、たぶんドコモの方とかは10年後の将来ビジョンとかいう絵で、携帯電話持ってユビキタス情報を受けている絵を描いてないですか?

[一同] [笑]

[塚本] じゃぁ別の会社の方はそうかもしれない。そうじゃない。実際はウェアラブル・サングラスの中で情報を見るというのが正解だと思うんですけれども、もう一つ間違いがあると私は思っています。なにかというと、降ってくる情報は文字情報じゃない。ビデオだと。ビデオクリップだと。それはさっきからいっているようなことで、文字がいくら出てきても面白くなくて、ビデオっていうのはすごく表現力があって楽しいという点が重要だと思います。[60'53]携帯電話が流行ったのも、今にして思えば、キャラっぱ!とか着メロだとかそういうところだと思います。映像、音声の情報が若者にワッと受けたというところが大きいんだと思います。実際に携帯、インターネットをドコモが打ち出した98年頃というのは、実はこういうインターネットの携帯端末を使ったサービスというのはどこの会社も同じようなことをいっていたと思います。もっと前から携帯端末持ってインターネットに接続できるようなサービスしようというのはいろんな会社がやっていろんな会社が失敗していると思います。ドコモがうまくいったポイントというのはいくつかあると思うんですけれども、やっぱりエンタメ性というんですか、着メロ、イラスト配信という楽しさが若者中心にワッと広まったというところにあるんじゃないかと思います。このユビキタス情報端末も実際情報が出てきたら便利だと思うんですけれども、これはいくつかの会社が情報を出すというだけであって、いっぱい失敗すると思います。で、ドコモかどうかわからないですけれども、どこかの会社がビデオクリップにするんですね、たぶん。それでウワッと若者中心に広まるというのが私が思っているシナリオです。ビデオクリップがどんなのかというと、太陽の塔の前に行くと太陽の塔の子どもキャラクターが降ってきて、子どもキャラクターの絵がやってきて、太陽の塔のキャラクターでもいいですけれども、で、今日の様子を教えてくれるとかですね。なにかそういうのです。ついでに今日のアトラクションだとか、今日の催し物を教えてくれるだとかですね。あるいはスポンサーが入って宣伝のビデオが流れるというような形で、映像つきでビデオクリップ、10秒とか30秒のビデオクリップが流れるというのが、ウェアラブルで情報利用するというのが本質的に非常に重要だと思っています。

たとえば、長いのでもう止めておきますけれども。もう一つ。ARペット。[63'07]これはコンピュータ系ですごく流行っているんですけれども、こういう実空間にCGを重ね合わせて、めがねをかけて見るとこういう風に見えるとかいうのです。皆さんご存知かもしれないですけれども。これは技術的にはたぶん5年10年かかる。ぴったりすごくきれいに見えるものというのは5年10年かかる。だけどそんなに技術的な精度を求めなければ、今でもできる。しかも何らかの形で、昔たとえばたまごっち。95年ぐらいですけれども、あの頃携帯型のペットゲームなんていうのはみんないっていたんですけれども、たまごっちがすごかったのは3000円であんなしょぼいペットゲームを作ったと。しょぼいというのはソフト的にえらい単純だけれども、あんなの面白くないと一見思うんだけれども実はワッと流行ったのと同じように、これもしょぼくてもいいから切り出し方が面白ければ今でもビジネスがうまくできるんじゃないかと思います。で、現場型というのは一つのキーになると思います。この場所でこうすればこうなるというところと、あと癒しというんですか。楽しいっていうんですかね。というところをうまくアピールするというのがいいんじゃないかと思います。

ここを実はちょっといいたかったんですが時間がだいぶ来ていますので。いつもここ簡単になっちゃうんです。「コンテンツ時代がこれからやってくる」という話なんです。[64'40]ユビキタス情報サービスにはコンテンツが最重要。当たり前そうな話ですけれども、位置情報サービス。今でもコンテンツの流通量というのはすごくインターネットで増えてきていると思いますけれども、サービスもインターネットに乗っかってきているビジネスですね。すごく何兆円規模になってきていると思いますけれども、これが位置情報サービスが浸透すると2桁変わる。ユビキタス・エンターテインメント・サービス。エンターテインメントのサービスが加わると2桁変わると。で、両者で4桁、あるいはもっとシナジー効果と。つまり現場でコンテンツ交換というんですか?情報交換というのはこれは本当に大きな、桁がものすごく変わる話で、ビジネスとしてはここに全部乗っかっていくと。世の中の全産業がコンテンツ・ビジネスに置き換わっていく。コンテンツだけじゃないですよ。コンテンツに絡めてサービスとかものを提供するという風に変わってくるんじゃないかと思います。これまでインターネットのコンテンツがどこでも見られる。デスクトップ上でコンテンツを利用してグローバルな検索エンジンがあるというのが、これからはローカルなコンテンツがそこしか見られない。

で、現場でのコンテンツ利用、ローカルに活用すると。グローバルに見ればおびただしい数のコンテンツが、ローカリティによって必要なものだけを利用できるという意味で、「コンテンツの数そんなに増えたらどうするんですか」ということを心配する人が多いですけれども、実はそうじゃない。今この場でこの人がこういう風にしてこの時間にこの人達と利用したいコンテンツというのは大体決まっていて、それをうまく情報を活用して、提供、サービスとか、コンテンツを提供していくというのがビジネスとして一番重要なんだと思います。適切なコンテンツ流通というのが可能になってくるということです。で、位置情報。これは省略しますけれども、データの互換性とかオープン性というのが重要で、国レベルでいろんな政策が行われつつあるということです。[66'32]それから「コンテンツ・サイクルが変化してきている」というのは、これまではコンテンツを作る人がいて利用する人がいたというのが、今はブログとかもそうなんですけれども、普通の人がコンテンツを付くって、それをまた別の人が利用してという、更にそれをもとにコンテンツを作るという、コンテンツのサイクルみたいなものができている。それは新しい流れだと思うんですけれども、それが更にビジネスがうまく乗っかってきて広がっていくんじゃないかと思います。たぶんその中で必要になってくるのは対価、マイクロマネー。いいコンテンツを作った人に対するインセンティブですね。そういうものがあるサイトですね。ブログでもいいですけれども、サイトというのはこれから主導権を握っていくだろう。それはたぶんコンテンツの質の向上というのにもつながっていくだろうと思います。で、ローカル性というのを使えば、それこそピンポイントでいい情報、その人にとって必要な情報を出せるわけでそういうものもポイントになってくると思います。で、ウェアラブル。ウェアラブル1年後に流行るといいましたけれども、これはコンテンツ流通にはまさに大きな影響がありまして、どこまでコンテンツ利用というところと、どこでもコンテンツ制作できるというところです。技術者から見たときにウェアラブルっていうのはあまり用途がないなぁということをいわれ続けているわけですけれども、実はなにかコンテンツとうまく絡まってくるとすごい可能性というのがあるんじゃないかと思います。実空間でこれからはコンテンツは流通される。インターネットの上じゃなくて、実空間でここからここにコンテンツが流通されるようになると思います。で、ネット上のコンテンツの問題というのは、著作権、肖像権とかいろいろありますし、スケールアビリティというのは解決されると。これはちょっと問題これから。著作権、肖像権、販売権、プライバシーその他権利の侵害なんていうのはこれから解決されるとはいうものの、実は現場でだと結構コントロールしやすいというのはあると思います。あれですか?時間がもう?

[野島] いや、大丈夫ですよ。

[塚本] なにか面白い例は。実空間指向コンテンツというのが考えられまして、たとえば直接手渡しでないと手に入らないコンテンツ。幻の子ポケモン。あ、ポケモンってあれですね。幻の…。何にしたらいいのかな、キャラクターにした方がよかったですね。お土産用ペットコンテンツ。直接手渡しでないと渡せないコンテンツ、ゲームのキャラクター。その場でないと利用できないコンテンツ。居酒屋のメニュー、博物館のマルチメディア解説。その場でないと手に入れられない認証キー。スタンプラリー、ローカルサイト書き込み。それから実空間型ウェブ、実空間型P2Pシステムというのが出てきて浸透すると思います。[69'30]

それからコンテンツの直接交換というのがもっとしやすくなるだろうと思います。P2P市場はこれから拡大していくと思いますけれども、情報掲示板が機能拡大して、携帯電話写真が利用でき、マルチメディア情報投稿、ユビキタス情報サービスとしての活用というのが、現場活用ですね。現場でのサービスとして活用できるというのがあると思います。そのときに必要になってくるのが異種産業の統合で、「朝起きた。しんどい」っていうのがセンサでとれるわけですよね。そのときにビデオクリップをパパパッと出すといいビジネスができるというわけです。それは単一産業じゃなくて、医療、食品、薬品、服飾、音楽、電気、内装、気象いろんな業界がうまく組み合わさってサービス提供するというのが大事です。これまではこういうのはできなかった。できないわけですね。なんでできなかったかというと、コストがかかるから。こういう異業種統合が今までできた産業というのは結婚産業だけだという風に多摩大の田坂先生がおっしゃっていました。実は結婚産業というのは1件800万円とかかかるようなビジネスなので、これがコスト掛けて手間暇掛けて、マンツーマンで聞き取りして情報提供していくというのがペイしたと。これが今は結婚だけだけれども、実はユビキタス・コンピュータを使えば非常に。2ステップありまして、1ステップ目はウェブですね。インターネットを使えば低コストでいろんな情報がとれるようになるからもっといろんな産業統合が必要だと。更にユビキタス情報を使えばこんなユーザのニーズまでとれるので、もっともっと低コストで、それこそ0.1円とかもっともっと安い値段でユーザのニーズがとれるわけです。それをうまく活用していかないと、これからのたとえば食品業界、医療業界に勝ち残っていけないというところまで言えるんじゃないかと思います。だから異種産業の統合っていうのはこれから本当に業界に勝ち残っていく上では必須であって、こういうしょうもなさそうに見えるところに業界が食い込んでいかないとビジネスができない時代というのがやってくるよということが考えられます。実世界の中で、実生活の中でリアルタイムで自動的なニーズ抽出、サービス提供ができるから、それをしないと業界としては勝ち残れないという時代になってくると思います。これはもう本当に短いスパンで、遠い将来じゃなくて、5年10年のスパンだと思います。その後の展開というのは「シニア」、「教育」、「環境」、「ユニバーサル」、「ソリューション」、おいしいビジネスが満載しているというところです。

大体1時間なのであれですが、予言としては、ウェアラブルはまずファッションとして展開する。10年後空前の鬼ごっこブーム到来。これは「今日の鬼ごっこベスト10」とかいって、鬼ごっこっていうのはバリエーションがいろいろ考えられると思うんです。それでいろんな鬼ごっこが流行ると思います。是非テレビ東京さんもこの10年後の番組の特集をお願いします。街角情報配信はウェアラブルで受信する。内容はビデオクリップ。これは5年以内。さっきいったとおりです。5年後にはウェアラブルのソリューション・ビジネス全盛と。5年後外出時にウェアラブルがないと不便でしようがなくなる。5年後にはキャラクター、BGM付き携帯メールが標準になると。まぁコンテンツがやっぱり変わってくると。音とか映像というのがもっともっと乗っかってくるということです。で、キャラクター収入、音楽の著作権収入の大半を占めるようになると。5年後フリーター倍増。ほとんど全員がコンテンツ制作をするようになる。主婦やサラリーマンもコンテンツ制作の内職。で、コンテンツ・ソルジャー続出。小中学生の億万長者も出現。これ結構賛同を得られているところなので、こうなると思います。17。10年後子どもや赤ん坊がHMDを付けるようになる。今でも付けようと思ったら付けさせられる。10年後のベストセラーはウェアラブルでのコンテンツ利用ノウハウ本。なにかといいますと、「彼女を落とすBGM」「これであなたも宴会王」「おもしろBGM活用法」。同じような話ですけれどね。結局いいたいのは、ウェアラブルやユビキタスですごく身の回りいっぱいに情報が氾濫すると、で、ビジネスも生活も変わるんだけれども、使いこなすのはやっぱり人間だということだと思います。[74'20]それは使いこなすの難しくて、こういうタイミングでこういう映像をこういう風にカットしておくんだと、で、ここでこういう風にBGM入れておいて、こういう風にいった後こういう風に映像出すんだというのはどう考えてもノウハウだと思います。ノウハウ。人が使いこなさないといけない部分だと思います。

[野島] 10年後も本なんですか?

[塚本] いや。これはだからネット。現場でぴょいぴょい出てくるようなものかもしれないですけれども。そうですね。で、10年以内になくなるもの。街角の博物館、レストラン・居酒屋のメニュー、新聞の折り込み広告、信号機。これは「おまえ止まれ」っていうのをいえばいいわけですね、その人に。レストラン・ショップのBGM。これはその人その人が自分で使いこなせばいいわけです。家庭用ゲーム、CD、DVD。なくなったものはどうなるかというと全てみんぱくへ。「10年前はこんなのだったんですよ」ということになると思います。ちょっと今のうちにとっておいてください、居酒屋のメニュー。今から、後で行きましょう。いろんな犯罪がなくなる。誘拐、強盗、窃盗。これは全部なくなるわけじゃなくて、やっぱり現場でなにかするというのは全部証拠残るという意味でなくなると思います、安直なヤツは。ただ、あり得るとすると、ハイテク犯罪、なりすまし犯罪は増えちゃうと思うので、これは何とかしないといけないと思います。それから故意の誤動作、履歴変更。たとえば安全のために柵がおりているんだけれども、遠隔からハッカーがやってきて、インターネット越しにこれをパカッと開けて、もたれかかろうと思ったときにウワッとどこか落ちちゃって事故に遭うと。功殻機動隊とかご存知ですか?テレビアニメなんですけれども、あれはテレビ東京じゃなかったですか。ちょっとどこだったか忘れたんですけれども。まさにそういう現場でのハイテク犯罪が結構出てくるのですごく参考になります。

で、プライバシーの侵害とか著作権とかウィルスとか。こういうのはもうすごく出てくるだろうと思います。だからこれをなんとかするというのはやっぱり技術としてやっていかなければいけない部分だと思います。それからやっぱりどうしてもなくせないと思うのは、包丁に乗って殺人するとか現実空間の世界の、ロボットとか出てきたら何とかなるのかもしれないですけれども、無差別殺人。それから更に悪いことには、ユビキタスのコンピュータとかをうまく利用すると、無差別殺人とかテロもこういう機器を活用してできてしまうという可能性があるんじゃないかと思います。だからウェアラブル、ユビキタスの研究をやるんだったらこのあたりをなんとかやっていくということはすごく重要だと感じてやっているところです。

で、ウェアラブルの普及に向けていろんな活動をしていますという話なんですけれど、今日はお手元に資料を配りましたのでそれで省略させていただくということでいいですかね。時間が大体ないですので。こんなところだと思うので。ちょっとざっと。写真ばかりなのでざーっと見ていただきたいんですが、チームつかもとというのをNPO法人でウェアラブルを普及啓発するよという活動をしています。こんな司会をしたり、8耐で使ったり。ライブで使ったりというのがまだ出てきていないですね。ライブで使ったりということをしています。これ展示会とかもやっております。これ活動は全部いったん。これサンプラザ中野さんですね。で、ぜんじろうさんです。ここにさえきけんぞうさんもいらっしゃるんですけど、芸能界の仲間が増えてきた。芸能人というのはすごいポイントで、やっぱり彼らが使って何かやってくれると目立つというのと、彼らとしても自分のPRに役立つんじゃないかというところは思います。

で、まとめに行きましょうか。まとめ。[78'48]これはちょっとさっきとかぶってますね。2004年版の、もう今年終わりですけれども、予言というのを今年1年間言い続けた予言がありまして、紹介させてもらいます。今年の流行語は「ウェアラブル」。「ウェアラブル族」「ウェアラブル・デバイド」「ウェアラブる」。「る」って動詞ですね。この3つを流行らそうといろんな人に協力を呼びかけてきましたが、ちょっと今の時点ではだいぶ苦しくなってきた。年末年始にはいろんな人がウェアラブってると。テレビ司会者、報道レポーター、タレント、スポーツ選手、原宿渋谷の若者、サンタクロース。これは、今からでも何とかなると。実際、あれ?今年の流行語「ウェアラブル」というのはちょっと来年に訂正したいと思いますので是非ご協力をお願いしたいと思います。それからこっちの方は一部来年に持ち越しと。サンタクロースは私がやろうと思っていますので。後タレント、スポーツ選手。さっきのサンプラザ中野さんとかぜんじろうさんとかが付けて今活動してくださっているということなので、一部実現したというところです。一応お話は以上です。[80'12] ビデオをざーっと流しながらお話とかディスカッションとかさせていただくのがいいんじゃないかと思うんですけれどもどうですか?

[野島] はい。

[塚本] いいですか?それで。えーと。どれだったか。サンプラザ中野さんの行きましょうか。

[佐藤浩司] HMDで今なにか見えてるんですか?

[塚本] 今見えます。

[佐藤浩司] それは取り出せないんですか?

[塚本] このパソコンの画面をいつも[80'43][サンプラザ中野さんのライブが始まる[?]]見ているんですけれども。今見えてないです。普段これをここに出してパソコンの画面を見ているんです。で、主な用途はメールとウェブなんですけれども、ただそれ使いにくいということですね。無理して頑張って使っているという感じ。




討論

[安村] 質問よろしいですか?

[佐藤浩司] 質問かなぁ。安村先生、質問もですけれども、この研究会向けに翻訳をお願いしたいと思います。

[安村] あ、翻訳。

[佐藤浩司] まぁ質問かたがたそれを。それから菅原先生にコメントと、山本貴代さんにもコメントをちょっとお願いしようかなぁと思っています。その前に僕からも質問あるんですけどよろしいですか? 司会がやってはいけないってこともないと思うので。

実は、社会のイメージについて。どういう社会になるのかなってことを考えていたんですよ。前回の研究会の時にテレビが100チャンネルになったらっていう話が出ていて、國頭さんでしたよね?そうしたらそれをいかに使いやすくするかを考えるのが鍵だって。たくさん増えすぎても困るってそういう話になったんですけれども、実はそのとき私は全然違うことを考えていて、100チャンネルにもなったら、それはマスメディアじゃなくなっちゃうんじゃないかなぁと思っていたんですよね。あるいはそれとも逆にどのチャンネルひねってもやっぱり同じタレントが出てくるのかなぁって。どっちなんだろうってそういう疑問を持ったんです。100チャンネルになるっていうこと自体がある意味社会をちょっと前提にできなくなっているような気がしたんですよね。今、塚本さんがやっているのは100チャンネルどころか、全ての人間がテレビを発信するみたいな、過剰な、過剰でもないか。たくさんの情報を、自分についてのすごく多くの情報を発信できるようになる、そういうデバイスですよね。そのときたとえば、じゃぁそうなった時に社会ってどうなるんだろう。たとえば結婚の前提に恋愛ってことがあって、相手とよく分かり合うために最大の自分を出すとしますよね。それは相手もやっぱりそれをやってくるわけでしょ。そういう人間がたくさんいるわけですよね。その中で一番好ましい人と結婚できたとする。ところがそうなったときに、じゃぁ家族になったとき、家族で全員がそれをやって、愛の家族というのかなんか知らないけれど、やられたら、世の中に出て行っても全ての人間がやっぱり自分の情報をそうやって発信しているという世界になったら、たぶん家族って一番情報を発信しないでいてくれる人かなぁっていう気がちょっとするのね。あんまりもろに出されると嘘が明らかになってしまうって。誤解があからさまに出てきてしまう。そういう社会はたぶん家庭の中では望ましくないかもしれない。そうなったときの社会のイメージについて、塚本さんは一体、そうなっても今の社会を前提に快適とか楽しみとかいうことをいわれてたけど、本当はそのときにはずいぶん我々が抱えているというか、我々が所属している社会というのはずいぶん変わっているんじゃないかなという気がちょっとしています。そういうことをなにか考えられたことはありますか?ってことが一つ。[84'00]

[塚本] まず一番最初におっしゃっていた、コンピュータの世界、インターネットの世界というのとは逆の方向を目指しているっていうお話からさせていただきたいんですけれども。途中でもいいましたけれども、コンピュータ・ゲームは不健康だ。インターネットは不健康だって、やっぱり今の社会犯罪もそうですけれども、インターネットとかコンピュータの仮想世界の中で自分と違う人格を演じているからやっぱりそういう問題が起こるんだと思います。このユビキタス、ウェアラブルというのはそうじゃないと。実世界の中の方にコンピュータを引きずり出してくるという技術なんだという意味で、ちょっと今までとはがらっとコンピュータのあり方というのが違ってくる技術だと思います。テレビのお話もたぶんそうだと思いますけれども、テレビ番組を受けてそれを見てなにか我々が今のような生活をしているというのとはちょっと違うイメージで、やっぱり実世界の中でいろんな生活をしていく上でいろんな情報だとか他の人の様子だとか、いろんな楽しみのために情報利用するんだというのが、100チャンネル時代の100チャンネル、あるいはそういう事情のチャンネルの活用の仕方だと思います。だから目指す方向は、それだけが進んでいくんじゃなくて、やっぱりいかに人間にとって重要な方向へ、人々の生活がより豊かで楽しくなるという方向に持って行けるかというところがすごく重要です。それが我々ができるかどうか。本当にビジネス先行のビジネス・ロジックで儲かるものだけが進んでいくという形で進んでいったらあまりよくない方向に進んでいくという危険性もあるんじゃないか。まぁ今よりかはいいんじゃないかと思うんですけれどね。実空間、身体性というのがどんどん入っていくという意味で。それから家族の話に関しても、家族、今の状況やっぱり人間にとってすごくよくない。人間として。それは人によって意見はいろいろあるかもしれないですけれども。やっぱり家族のことをみんな知らなさすぎるっていうんですか。やっぱり家族はもっと情報を共有しあって、今日一日みんなが外で何をしてきたかと。まぁ隠したい情報は隠したらいいと思うんですけれども。それから外で情報を交換するときも隠す情報は隠すんだと思いますけれども。それでも子ども達が今日一日どんなことがあってどんな気持でいるかということをより分かり合えるのが、このユビキタス情報端末、ウェアラブル情報端末だと思います。だから、この使い方の問題ですけれども、家族はもっともっと分かり合えるためにこういう新しい情報機器というのがこれから10年使いこなすすべというのを身に付けていくべきだと思いますし、そういう使うための技術というのを我々としては重視したいと思っています。それからさっきのデートとか人と会うときにいろんな情報を交換してっていうことですけれども、それに対する危惧をなにかお持ちなんだと思いますけれども、それはなにか危険性はたぶんあると思いますけれども、逆によりわかり得る。今まで以上に合った瞬間によりいろんなことが分かり合えるポテンシャルを持った道具として、人間としてより深い方向を、より深い人間のつきあいができるための道具になり得ると思うんです。だからそれを使いこなすのはやっぱり人間であって。商売商売とかビジネスビジネスとか仕事仕事とかなんか個人の中にあまりこもらずに実空間に出て人と、今までよりもたくさんの人と会って今までよりももっとたくさん体を使って実空間の中でより深い人生をみんな送るというのがこれで可能になるという夢を描いて今活動しているんです。どうでしょう。ちょっとあまりうまい答えになっていない部分が合ったかもしれない。[88'09]

[佐藤浩司] 実は家族についてはそういうことをやってる。あまりにも親密な関係と家族というものを一緒に考えない方がいいのではないかなぁと気がちょっとしているんです。まぁそれはともかくとして。

[安村] ちょっと一応解説というか、翻訳と。それから後で私のコメントというか質問をお伝えしたいんですが。私の理解というのは、ウェアラブル・コンピューティングというのは、もともとコンピュータって、塚本先生の話の中にもあったけど、デスクトップ・コンピューティングってあって、コンピュータに向かって使う使い方をしているわけです。それがバーチャル・リアリティという提案があって、バーチャルな世界を完全に作ってしまって人間がそれを取り囲むと。そうすると今までと違う経験ができるわけですよね。でもそれはひょっとして実世界を忘れているということで、塚本先生達がなさっているのはそういう意味では実世界指向というか、もうちょっとハイパー・リアリティだと思うんですよね。バーチャル・リアリティじゃなくて。つまり実世界と仮想世界が重なり合っていて、シースルーなめがねを掛けることによってエンファンスした、我々が普通にめがね掛けている以上にバーチャルなめがねを掛けていて、それで情報を絶えず得ながら活動するということだと思うんですね。その際にじゃぁ具体的に何をするかというと、一つはウェブ・カメラみたいなものが付いていて常時記録できる。それからなにか忘れ物したり、向こうから人が歩いてくるんだけど誰だったか思い出せないというので思い出そうとか、メールが、今でも皆さんここで、あ、私しか出してないか。コンピュータ出して、実はメールを見ちゃったりしていますけれども、それを歩きながら活動しながらメールを見たりしているんですね。それからそのときたとえば向こうから歩いてきた人を思い出せるかというと、それは今の技術だとちょっと遅れていて、話しているうちになんとか話を合わせながら5分とか10分とか、あるいは30分後に検索が出てきて、まぁそんなにひどくはないかもしれませんけれども。もうちょっと、まだ遅れているんですよね。しばらく時間が経たないと思い出せない。でも大事なことをその場でメモをとるとか、話を聞いているうちにそれに関連した同定義のことが出てくるとかそういうことがもう今でも出来ているわけです。実際にじゃぁウェアラブルって役に立っていこうというので象徴的にいつもいわれるのは、MITウェアラブル7人衆というのがいるそうで、その中の一人のスティーブ・マンがセーターをなくしたと。誰かがコートなくしたようなんですけど。で、ウェアラブルで撮っていたのを逆戻ししていくと写真が写っていて、それは「この場所でなくなった」っていうのでそこへ行ってみるとセーターが見つかったっていうのがエピソードでいわれています。それが大まかな解説です。

塚本先生の話を聞いていて私が思ったのは、先ほどもご自分でおっしゃったように、人には目立つ、でも普及しないっていうのがまだ現状だと思うんです。それから面白いのはウェアラブル・ファッションみたいなことだと思うんです。一番質問したいというか、思ったのは、結局今のところウェアラブル付けている人は自分が入力受けているだけだと思うんですね。自分に対する出力デバイスとして使っているので、ウェアラブルの人に対している人に対する情報提供がまだ今のところほとんどされていない。先ほどの話の中で面白いと思うのは、一つはディスプレイだと思うんですね。それからじゃぁタレントとかは何をやっているかというと、無線のマイクを口に付けて歌っているヤツをいろんなファンが聴いたりしていますよね。だからこれからたぶんウェアラブルで面白いと思うのは、逆であって、出力デバイスとしてのウェアラブルを付けるんじゃなくて入力デバイスを付けて、たとえばアイカメラで、非常に専門家が自分がどこを見ているのかっていうのを別に解説しなくても野球選手の視線でどこを注目しているかが見えるとか。そういう入力デバイスを他の人とシェアする。あるいはコミュニケーション。先ほどの例でよかったなと思うのは、自分の見た記憶を他の人と共有するということで、たぶん自分が見ている状況とか感じていることを、しかもプロが、かなりハイレベルな人が他と共有できるとか、そういう方向へされるとすごくいいかなぁ。目立つことは目立つんですけど、一人で勝手に情報を受けているという印象が強くて、もうちょっと違う発展方向があるかと思うんですけれども、その辺はいかがでしょうか?[92'14]

[塚本] 私と誰かが喋っていて、私だけが情報を見ているというのがなんかいやだっていうことだと思うんですね。

[安村] いや。っていうか逆に、もうちょっと端的に言うと、たとえばサンプラザ中野さんでもいいんですけれども、自分が取得している情報というか自分が注目したことが常に他人とかあるいはファンと共有できるということが面白いかなぁと思ったんですけれども。

[塚本] そうですね。[笑]ただまぁ。みんながこれを付けていればみんなが情報を共有できるのですごくいいと思うんですけれども、その前のステップではやっぱり一人だけ付けていると気持ち悪くて、見ているだけで、

[安村] いや。たとえばもうちょっと妥協していうと、2人でも3人でもいいからクロスオーバーっていうか。たとえばiPodでも人の聞いている曲を、イヤフォンわざわざ[聞き取れない][93'07]、それでカップルで聴くというやり方がありますけれども、塚本さんが検索している内容とか見ているメールを、よっぽど親しくないとまずいかもしれないですけどね、奥さんとやるとちょっとまずいことが起こるかもしれませんけれども、そういう共有をするという考え方を入れるとちょっと面白いかなと思ったんですけれども。

[塚本] ええ。そういう意味で、さっきちょっと出てきましたけれども、私が今使っている中では音を出すとかいうのが一つの人に対する使い方というんですか。一つだと思います。

[安村] ディスプレイを常に付けていて、話題がどれでも検索した結果を人とディスプレイがあれば共有できますよね。

[塚本] そうですね。ディスプレイ服というのはまさにそれで、人に見せるものですよね。

[安村] そっちの方向はすごくいいと思うんですよ。

[塚本] それ以外にも、たとえば今これ出ていますけれども、LEDがいっぱい付いた服とかもありまして、これもディスプレイ服だと思っています。人に見せるためのもので、これは自分のいろんな情報を表現したり、周りの情報を表現したりするものだと思います。だからこれもセンサとかいろんな情報を使って反応するような形になると、これは人から見ていても「あぁなるほどな」ということがわかるようなものになるんじゃないかなと思います。私もそういうのを今付けたくて、この辺にLEDとか昔付けていたことがあるんですけどね、いっぱいこの辺に。で、とりあえずここにウィンカーと、この辺にストップランプを付けようかなぁと。

[一同] [笑]

[塚本] で、走っていて急に止まったときに後の人にぶつかられないようにストップランプを付ける。それからこっちに曲がりたいなと思ったときにウィンカーを付けて、そっちにいる人によけてもらう。人の間にこうやって「すみませーん」っていって割り込んだときに、こうやって両方チカチカっとして後にいる人に感謝の気持ちを示すという。まさにそういう感じのお話でしょうかね。単に自分だけで使うというのではなくて、自分から他の人に対するなにか表現のために使っていくというのが、このウェアラブル・ファッションの一つの要素だと思います。たとえばこれもそうですけれども、光るという機能を単にチカチカ光るだけじゃなくて、いろんな要素とうまく組み合わせることによって新しいコミュニケーションの形態というのができるようになってくるんでしょうね。そこも単にものを作るというだけじゃなくて、やっぱりそのあたりのセンスというんですか。生活をクリエイトするような力がある人がうまく関与してくれると全然変わってくると思うんですけどね。

[佐藤浩司] じゃ菅原先生、コメントがあったらお願いできますか?

[菅原] どうも。発言の機会を与えていただいてありがとうございます。じゃぁ大きな声で喋りますので。聞こえるでしょう。なんか敵地に乗り込むような気持できたんですが、これはやっぱり佐藤さんの挑発にまんまと乗ったなぁと思ったんですが。塚本さんのお話は半分冗談だと思って聞けば、あんまりべたに硬派なというか厳しいことをいうのは大人げないとも思うんですが、でも私の感覚では悪夢のような世界だと思うんです。そのことちょっといいたいんですね。ですから最初にちょっとコメントをして、最後に2つばかり質問したことがあるんです。

塚本さんが描かれた未来像、それは今日私の発表でいおうと思ったんですが、私はSFというのが非常に好きで、SFってサイエンス・フィクションって昔いっていましたけれども、むしろスペキュレイティブ・フィクションですね。思弁小説という風にいった方がいいと思うんです。たとえば最近読んでとても面白かったグレッグ・イーガンという人の「宇宙消失」というSFは、塚本さんが描いた未来像などというのはまったく子供だましみたいなもので、ナノテクノロジーが進化すると、それぞれ専用のポッドというのがあって、その専用のポッドをアメーバの中に組み込んで、そのアメーバを何らかの形で扶養するとそのアメーバが脳にいって、その脳の神経結合のどこかをそのように変えてしまうわけですね。そうするとたとえば警察官ポッドというのは絶対修羅場でも興奮しないとかね。一番すごいのは忠誠ポッドというやつで、「私はこの組織に忠誠を誓う」ということが幸福で幸福でたまらないとかね。ですからこの塚本さんのシナリオというのは究極的には脳の中になにかがじかに産出される。その世界をうたっていくんだと思うんですね。で、私はこのSFというのが好きなのは、優れたSFは決して、これは昔のソ連で書かれた御用作家のSFですけど、本当に優れたSFというのはある種の黙示録なんですね。つまりアポカリプス。人類の滅びというものをきちんと予測して、その人類の滅びを非常にリアリスティックに描くというのが私はSFだと思うんですね。そういう意味では塚本さんは、まぁSFの比喩でいうと、スターリン時代の御用SF作家が書いたバラ色の未来SFというヤツで、作品としてはあまり優れていないですね。

黙示録というのはどういうことかというと、もうすぐ「このミステリーがすごい」という宝島出版のあれがまた出ますので私の正月休みというのはそれのベスト3ぐらいを読むことに明け暮れるんですが、数年前に「フリッカー」というすばらしいアメリカの小説がありまして、それは悪夢のような映画の話なんですね。あるカルト的な映画の話なんですが、そこに変なフランスの映画芸術学者というのが出てきまして、彼が恐るべき予言をするんです。それは、今日の塚本さんの話と引っかけていうと、そこら中にビデオクリップが満ちあふれているような世界。そこで子ども達は育っていくと、ここで人類の認知メカニズムに一つのミクロエボルーション、つまり微少進化が起きて、認知コードが私達と全然違ってくると。その次なる世代は、端的に言うと、1センテンス以上の文章を理解できないというような生物になるわけですね。そうすると私達が長いセンテンスによって、長いセンテンスでものを考えるという形で維持してきた人類の文明は、そこで今までの文明は全部滅びると。そして1センテンスしかものを考えられないような、私達の目から見たらけだもののような人類が支配するわけですが、こういう黙示録というのは私はまったく自分にとって恐ろしい。それはつまりこれから老人になって、若い世代に、若い看護婦さんや若いお医者さんに支えていってもらわなくちゃいけないときに、彼らの認知メカニズムというかものの考え方が私と全然違ってしまうということは私にとっては端的に恐ろしい未来だというようなコメントです。[101'41]

次に質問なんですが、ここら辺からがらっと硬派になって恐縮なんですが、ここにそういう世代の方がほとんどいらっしゃらないと思うんですが、私達学生時代に全共闘運動というのが戦われまして、私は京都大学理学部で、私の学友達の多くは理学部全共闘に所属して果敢に戦って敗北したわけですが、そのときに戦われたテーマというのは、端的にいって、科学と国家権力との関係という問題設定で、それは私は今でもまるっきり正しいと思うんですね。まぁ塚本さんを含めて科学技術を推進する側に立っていらっしゃる方々に、まぁ敵地に乗り込む気分でやってきたんだからこういうことを言っても別に契約違反だとはいわれないと思うんですが、つまり科学技術をさせる方々、つまりそういうエリート集団は、人間の幸福というものの青写真をどういう権利があって誰から委託されて構想するかということですね。つまり私の考えるところ現代の科学技術というのは、デモクラシーの根本原理である社会契約という原則に反していると思うんです。だって誰も契約して自分の生活がこう変わるということに同意したわけではなくて、科学技術はなんのチェックも受けずある時突然人民に対する生活を変えているということですね。そのとき多くの場合、ほぼ100¥%国家権力と産業資本主義の結びついた形で、人間の生活をとにかく変えるということですね。この力。おそらくこれがどんどん進行していくと、もうそれは始まっていると思うんですが、ある種の知能による階層分化が固定化すると思われます。塚本さんのようなIQの高い方達がどんどん人民の、人民なんていうのは今我らの首領キム・ジョンイルさんぐらいしかしないかもしれませんが、でも敢えて使わせてもらえれば、民人の生活をどんどん変えていく。で、多くの民人は大体標準偏差の、この山形のあたりに一番集中しているわけだから、象徴的趣向とか記号操作とかにそれほど長けていないわけですよね。そうすると、そういうものに長けた人達がどんどん「あなた達の幸福はこうだ」といって、そしてほとんどの大衆にとてつもなく退屈な人生を与えて、そのとてつもなく退屈な人生を子供だましみたいなたくさんの仕掛けで維持させるという。つまり私が聞きたいのは、科学技術を推進させる側はいついかなる根拠があって人間の幸福というものを構想できるのかということですね。それが第1の質問です。

それから第2 の質問はもっとしょうもないことなんですが、今日塚本さん、今のリプライの中で「いや、私はバーチャル・リアリティというのは報復に[?][105'27]埋没しないだけヒューマニスティックだ」ということをおっしゃいましたけど、ちょっと一貫性に欠けると思ったのは、そこいら中に登場するペットというヤツなんです。私はこの10年間模範的な愛犬家をやっているので、そんなものより実物の犬の方が絶対に100倍もすばらしいと思うんですけど、敢えてその話に乗るとしたら、構想自体がなんかある種小市民的な抑圧を受けていると思うんです。だってそんなことできるんだったら、我々が一番欲する快楽はいつでもどこでも性交できる相手。別にそれは異性でも同性でも。性的指向性はいろいろあるので。まぁつまり科学技術のこういった形の進歩というのは、一般大衆の快楽を一番満たす部分ではセクシュアリティを、どうやって技術によって補うかということに行くのが当然だと思うんですけど。私いくつかのこういう研究会でそういうことをきちんと論じた方々を、コンピュータ学者を見たことが見たことがなくて、これはある種の抑圧がかかってるんじゃないかと思って。ちょっと最初の質問はあまりにもひどい質問かもしれないんですが、2番目はお答えしていただけるかなと期待して。

[塚本] ちょっといろいろ。普段企業の方々とお話ししているときには全然でないようなお話なのですごく面白いですし、教えていただきたいことがすごくたくさんあるんですけれども。最初におっしゃっていたSFと比べると大したことないという話ですけれども。SFじゃない、予言は、まず。最初にもいいましたけれども、技術的に難しいことというのはいっさい入れてないというとこがポイントです。今日のお話。ゲノムとかナノとかロボットとか全部入れていなくて、とにかく小さくて速くなればできるということだけで構成しているというところが結構私としては注意したというか、ポイントとしてやっているところです。だからその気になれば、世の中が動けば、もう必ずこういう風に動くという方向性を考えて予言という言い方をしています。それからSF小説の話ですけれども、SF作家の方々でやっぱりこのウェアラブルというのが好きな方はたくさんいらっしゃるのでお話しさせていただくことが多いんですけれども、SFの方はやっぱりあり得ない過程をいくつかおいてそこにいかに自分の絵をくっきりと描けるかというところで勝負していらっしゃるので、SFの方は我々の話も聞いてるわけでそういうことがあるんですけれども、そういうのを参考にしながら、やっぱり現実の範囲を超えたところで絵を描こうとされているというところがアプローチとしてちょっと違うなということを感じています。それからSFいくつか私もハードなヤツを読むと面白いですね。すごく世界観というんですか、そういうのがはっきりしていて。アイディアに富んでるものも多いですから。ただ私がSFの方に、実際SF作家の、国内の方ですけれども、何人かに申し上げたのはウェアラブルの使い方がちょっとよくないと。今日のお話と関係しているんですけれども、SF作家の描くウェアラブルというのは業務用というんですか。難い方向の使い方というのが多くて、今日いったような民生の中で子どもとか老人とかがこういうのを付けて楽しんでいるという絵がほとんど出てこない。それは実際にはそうじゃなくて、わりと若い人のブームとしてこういうのがウワッと広まるという可能性を私は考えているので、もっと普段の生活の中でウェアラブルとかユビキタスとかを今の生活とそんなに変わらない、普通にお茶飲んでごはんして食べてという状況の中でこういうコンピュータを利用しているという絵もやっぱりあった方がいいんじゃないかというようなことを申し上げたことがあります。ですから機動隊とか軍事とかハード系じゃなくて、わりとポピュラー系のSFというんですか。そういうのでは特に軍とか機動隊という話が多いんですけれども、それだけじゃないよというのを私が普段主張しているところではいいたいというところです。

それから最初の方のご質問。これは私がお答えできるようなないようではないと思うんですけれども、そもそもなぜか。なぜかというところは、私たぶん社会学とかよくわかってないから理解できていないのかもしれないですが、なぜか資本を握っている人達はなにかすごい力を持っていて、その人達が思っているように世の中をかなり動かして行くことができる。それと同じように科学技術持っている人達は新しい科学技術を作ることでなにかもう今の世の中生まれたときから、その科学技術に携わって新しいものを作って、それがビジネスのロジックに乗っかれば否応なしに世の中が動いていって、それに人々は、ほかの人達というのは従っていかないといけないという社会になってしまっているというのは、それ以上のことは私はわからないです。それをどうすべきかとかいうのは、いろいろ、人間何が豊かで何が豊かでないかと、あるいは人間どう生きるべきかということはいろんな方がいろんな形でおっしゃっていると思うんですけれども、ある程度共感を受ければ声が届いたりすることもあるでしょうし、ベストセラーのヒットの本が書ければなるでしょうし。やっぱりそこも資本主義の、妙なお金中心、ビジネス中心のロジックに回っちゃっている、今我々の暮らしというものが回っちゃっているというところはあると思います。で、そのお答えにはならないですけれども、今いったような方向というのも基本的によい方向悪い方向関わらず、何がよい何が悪いっていうのすらまだわからないと思うんですけれども、それから望む望まないにかかわらず進んでいっちゃう。ビジネスが乗っかる方向に進んでいっちゃうんだと思います。

ただここ10年のインターネット、コンピュータっていう下層の社会、サイバーな社会っていうのはすごく反、なんかご質問に対してすごく狭い範囲でのお答えになっちゃうかもしれないですけれども、身体性。反身体性っていう意味で、もうほとんど全ての人が嫌悪感を持つような社会の方向性というのが見えていたと思うんですね。マトリックスが描く社会というのもたぶん反身体性というところにつきるんだと思いますけれども。私が主張したいのはそうじゃない。これから10年っていうのはそうじゃない。我々が身体性を伴う活動というのにすごくコンピュータ社会というのが入り込んでくるんだという意味で、これは何をもっていい悪いというのはなかなかいいにくいところはあるんですけれども、身体性を我々が取り戻すといういい機会なんじゃないかと。で、この10年ワッと進む部分進まない部分あると思うんですけれども、進む分ワッと広まると思うので、その過程でたぶん我々技術者の側は大事だと思う技術というのは開発できるチャンスにあると。まだ広まる前ですから。それから行政はビジネス・ロジックでワッと突き進んでいく前になにか規制なり行政の手法を使ってなにか食い止めるという手段はあるはずだと思います。今進んでいきそうだと私が描いた絵というのは一つの案であって、コンセンサスそれほどあるわけじゃないですけれども、私から見て、ちょっと演出っていうんですか、このプレゼンの上での演出があっておもしろおかしい表現の仕方になっている部分はあるかもしれないですけれども、典型的にはああいう社会というのは10年のスパンで本当に広まっていくと思います。その際に人間にとって何が大切で何が豊かで何が豊かでないかというのはみんなが考えるべき問題であるかもしれないですし、我々が考えるべき問題であろうとは思いますし、我々以外の、たとえばそういうことをずっと考えていらっしゃる方側に考えてほしい問題だと思います。そういう意味で、今の絵を見て鼻から否定的な、大きく打ち込ますのじゃなくて、むしろああいう風になってっちゃうというところを前提とした上で「ここはこういう風にした方がいい」っていう部分をいろいろディスカッションさせていただくのは、技術を進めていく上での、行政とか他の人の意識を進めていく上でも有益なんじゃないかなと思います。で、一番最初の「まずなんの権利があってこんなことを」、絵を描くこと自体もそうかもしれないですけれども、「絵を描いているんだ」というところに関してはすごく深い、私自身普段のディスカッションの中でしたことないようなお話なんですけれども、重要性を非常に感じますし、もしかしたらそれが哲学であり社会学であり、本当に人間を一番深い部分から見つめるというところにくるのだと思いますけれども、そこは今の時点では私自身はもちろん答えをもっていないということをお見抜きだとは思うんですけれども。

[菅原] ちょっと言い忘れたことがあったんだけど。[116'09]端的に私が「悪夢じゃぁ」と思ったのは、チップ付きの上着ね。家にある上着が全部チップ付きで、妻がいつも私の所在をわかってしまったら女の子とデートすることもできないじゃないというのがまず一番の心配でね。その心配というのは、つまりそのチップ付きの上着が妻だったらまだのろけの範囲ですむかもしれないけれど、それが国家権力が全てチップ付き上着の管理塔みたいなものになるのはやっぱり本当の悪夢の世界で。私漫画も好きなんですが、今ビッグコミックに連載されているかわぐちかいじの漫画に「南日本と北日本」というのが出てきますけど、北日本の住民は全部体の中にマイクロチップを埋め込まれていて全ての対外情報を全部国家権力が吸い上げていくという。だから私の提言としては、今はきわめて未成熟な、いわゆる科学技術の進歩に関する倫理委員会ですね、それまぁ日本だけでやったら国際競争に遅れるんだから、もっと全盛快適に科学技術の進歩のどこまでが本当に人間を幸せにするのか、どこからがあまりにも危険なのかというものがきちんと立ち上げていく努力を科学技術に携わる側の方々もやはりお考えいただかないと。というのはつまり、もし科学技術の、いわゆる進歩といわれるもの自体に、資本主義原理以外になんの枠もないとしたらおそらくいろんな計算で人類はそれほど遠くない未来に滅びるであろうという計算はあるわけですよね。そこら辺はやっぱりもっと真剣に考えないといかんのとちゃうかなと思っただけです。

[佐藤浩司] 菅原先生の最初の質問はたぶん科学技術者にある意味自覚と倫理を求められているんだと思いますが。原因は、原因はというか、科学者がそれをやる原因は[聞き取れない][118'45]メディアであったりするというのはたぶんおわかりのことだから、それはどういう風にこれから、それを突き進めることによって、それ自身の呪縛を説いていくかという話になると思います。私がこの研究会を立ち上げた理由も、これを突き進めることによって、逆にたとえばメディアが100チャンネルになるとか、あるいは全ての人間がメディアの権利を持つことによって逆にメディアの呪縛を解いていくのではないかという方向を考えていたんです。ただ菅原先生はたぶんその先に見ているのが一種のアナキズムによる改革とされているから、かなり強固な社会的なイメージを持っておられると思うし、私は逆にその社会的なイメージがもう少しなし崩しに壊れていくというイメージを持っている。必ずしも敵地に呼び込んだつもりはなくて。[笑]ここにいらっしゃる方も皆さんそれに無自覚であるというわけでもないと思います。ただその方向をどういう風に見ていくかという話なんだろうと思います。

[野島] 野島ですけど、今菅原先生のお話というのは、私ももう20年以上前からたとえばインターネットみたいなものに関わってくる。それからヒューマンインタフェース・コンピュータとかのインタフェースの話も関わっている。たとえば携帯電話とかいうもの。で、まぁ僕も心理学だけれども、電話会社にいるとまさにそういうところの話って一番「こんなことやっていいの?」「携帯電話、子どもに持たせていいの?」とかっていうのが非常に重要な話なんだけれども考えなしにやってきているところがあるわけですよね。菅原先生の最初の質問を聞いていて、そうすると一体何が、そこのところで考えるときに依るべき原理というのは一体何なのかというところが見えてない部分がどうしてもある。今最後のときに菅原先生が、たとえば倫理委員会という形になっちゃうとやっぱりもう一つ別の形のトップダウンだし、じゃぁその倫理委員会で議論する原理って一体何なのっていう話がやっぱりそこでわからないわけです。

最近私、友達の高校の先生とよく話をしているんですけれども、たとえば子ども達、学級崩壊であるとか、あるいはたとえば今の若いまさに30代ぐらいの人の話を聞くと「今の若い子どもっていうのは全然使えん」って「新入社員は全然使えん」ってみんないっているんだけれども、でも家の子どもも全然使えんですけれども[笑]、要するにでもその子ども達っていうのを育てたのというのは我々の世代で「自分のやりたいことやるんだよ」「自分のことを実現するのが第一だよ」「他の人と違う意見を言っても構わないんだよ」って育ててきて、その子ども達がまさに育ってきて本当に教育ってすごく重要だなと。本当に人の社会を変えるんだな、人を変えるんだなというのがわかってきたということは確かなんですけれども、たとえば今の状態というのがいいのか悪いのかというのもわからないんですよね。今の子ども達というのは、一体これは崩壊しているのか、それとも未来なのかというのが実はわからない。そういうようなときに、僕も今塚本先生の話に、非常にひどい言い方をすると脳天気だと思うし、もう一つの言い方をすると非常に面白い話だと思う。現実問題として、僕は1年後5年後というのはきっとないと思うけど、間違いなく塚本先生がやられているような話はこの頭にくっつけるかどうかは別として、常時なにかを見ているというのは間違いなくなってくるだろうと思う。それから先生が今いわれた、たとえばタグがあって場所をどうなっているのか。たとえば携帯をもっていればかなりのところまで掌握されちゃっているわけですよね。それから車に乗っていたらもう間違いなく自分はどこにいるかというのは掌握されている時代になっちゃっている。そういうようなときに、たとえば企業の中にいるそういうことに関心を持っている心理学、社会学の研究者として一体何ができるのかとか、あるいはたとえば20年前になったときに何ができたのかということを考えたときに、いろいろ反省する点はあるんですけれども、次を構築するための一歩というのは実はあまりよくわからないんですよね、正直なところ。それは菅原先生はそこはどういう風に。だから倫理委員会っていうのは一つの手だとは思うんですけど、それはやっぱり話をもう一つ先送りしただけに過ぎないような気がするんですけど、そこはどうお考えなんでしょう?[123'19]

[菅原] 大変誠実なご意見だと思いました。まず私の尊敬する哲学者で大阪大学に菅野盾樹さんという方がいらっしゃるんですけど、その方は昔いじめに関する非常なる名著を書いていらして、その結末で彼が強く指摘したことは、「学校で昔からあるように思うけれども、これは近代の発明で、日本ではたかだか100年の歴史しかないのに、狭いスペースに非常に長い間子ども達を閉じこめておくというこのことの異様さにまず気づかなければならない。だからいじめをなくす一番簡単な方法は、それは学校をなくしてしまうことである」。これはすごい名言だと思ってかなり感心したんです。でありますから、ウェブ社会に非常にポジティブな未来像を見る人達は、これがいわゆる草の根民主主義であり、学校を初めとするいろんな管理的な制度を解体してしまう。そういう意味ではアナーキズムと言っていいのか、リゾーム型社会というんですかね。中枢権力のないリゾーム型社会。まさにポストモダンを実現するものだという形で非常に肯定的にとらえるということは確かにわかります。だから可能性として一体どっちに転ぶのかはまだ未知であるというのはその通りだと思います。

確かに倫理委員会というのも、自分であまりに陳腐だなぁといってから思ったんですが、ただ私の友人に倫理学者という変なのがおりまして、文物の権利を初めとして著作権とかいろんなひねくれた意見を聞くものでつい口走ってしまっただけで、そういうものが本当にいいと思っているわけではない。でもポジティブな答えというのを一つしなければいけないんですけど。私は、一つ現代のインテリをダメにしているものの考え方というのは、いわゆるなんでも相対主義っていうやつだと思うんですね。つまり、いわゆる文化相対主義なんですけど。それぞれの文化でそれぞれの価値観はそれぞれに違うんだから云々かんぬんですね。それをどうにかしないとこういう問題、つまり人間にとって幸福とはなにかというような問題というのは答えが出ないんですね。そこで私は超素朴な、少なくともこれは人間にとって幸福だというリストアップぐらいはできると思うんですね。それは実はアメリカの認知言語学者とかがいっていることなんですけど、それはたとえば病気であるよりも健康である方がいい。孤独であるより仲間といた方がいいとか。人にコントロールされるよりは自分で行動した方がいいとか。打ち倒されるよりは立っていた方がいいとか。そういったまさに身体経験のレベルで絶対ウェルビーイングの条件というのはあるという形で、普遍的なウェルビーイングの定義というのを、それがもし人文学者の使命だったらきちんと作っていかなければいけないんじゃないかなぁと。もう一つ強調したいことは、でもやっぱり歴史に学ばなくてはならないわけで、人間にとって一番どうしようもない不幸というのはやはり近代においては国家がもたらしてきたと思うんです。ですから、どんな幸福論であれ、こんなこと。あ、今はもう国家公務員じゃないからいいのか。どんな幸福論であれ、最終的には国家権力の無化を目指すのが正しい道であろうと。突然過激になりましたけど。

[安村] ちょっとだけいいですか。すみません。菅原先生のすごい突っ込みに。私も実は全共闘世代だったので懐かしいというかあれだったんですけど。塚本さんがなさっているのは日本では非常に珍しいタイプの研究者。つまり日本の研究者ってずるくて、人のやっていることに乗っかってあまり新しいことやらないのに、ちょっとだけ拝領しておいて論文だけ書くとかいうスタイルが多いのに対して、彼は旗売りをしているんですね。旗売りをしているために目立つだけじゃなくて、たぶん予言者のようになっているというか、誤解されている。いや、そんなつもりないのかもしれないけど、本人は。個人的には私は、いい悪いは別として、ガジェットというか、もの付けちゃってますよね[?][128'53]、だからそれが私の流儀だと、彼はユビキタスって目立たないしよくないっていったんだけど、私はむしろコンピュータは使うんだけど目立つべきじゃないという主張なんです。だから彼と同じインタフェースの分野でもちょっと方向性が違うんですよ。で、一番先生にお聞きしたかったのは、ユビキタスとかウェアラブル以前に、たとえばインターネットあるいはコンピュータみたいな世界も我々は知ってしまったということで、つまりなにかリンゴの木の実を食べたというか、火を知ってしまったみたいなところがあって、それを原罪と呼んでもいいのかもしれないけれども、そういうことをどう思われるのかっていうのと、プラス、[聞き取れない][129'30]昔私はたとえばバーチャル・リアリティがあったときにそういうことが進むと人を殺すとかそういうことがなんの危険性もなく感じられてしまうのが非常に危ないと。だからリアルとバーチャルを分けるべきだっていうことをいろんな人にいって、ある時20世紀の最後のときに、21世紀はどうあるべきかというシンポジウムのときにそういう危険性、つまりダークな面のいろいろな話をして「こういう危険性」「こんなことがある」という話をいっぱいしたときに、ついでに会場の人達に「皆さんはバーチャルとリアルを区別しているか?」っていったら、結構若い人が多かったせいなんでしょうけれども半分以上が自分たちは区別していないという発言があったんですね。そのときも驚いてしまったんですけれども、そういう風なものを受け入れるような人間存在になる、変わりつつあるようなことに対してどう思われるかということをお聞きしたかったんですけれども。[130'17]

[菅原] んー…

[佐藤浩司] これ、次のセッションで。次答えるのがいいようですね。

[内田] 私ファッション専攻なもので、ですから先生の今日のお話を楽しみにしていたんですけれども、3、4年前に初めて私ユビキタスじゃなくてなんでしたっけ、

[塚本] ウェアラブル。

[内田] そう、ウェアラブル。石井きんもち先生っていう東大先生、

[塚本] 威望ですね。

[内田] ごめんなさい、威望さん。が、なんのフォーラムだか忘れたんですけど、「こういうのが今流行ってる。これからやります」というような形で、なにかのフォーラムで壇上に乗って話をされたんです。3、4年前。私は被服の専攻なものでしたから「なんだろ、これ!?」っていうのが正直なところだった。そのときは先ほどみせていただいた、画面みたいなのをくっつけた服とかを「これがこれから目指す方向です」とかいわれて、正直「一体この人何を言いたいのかしら?」って思った記憶があって。それからまぁ「そういうことがあるんだな」と思うのも忘れていたのが、学会誌なんですけど、繊維機械学会[131'42]とか私が入っているんですが、(別の学会誌で)ここが繊維製品消費科学会。そうしましたら今年の7月号(繊維製品消費科学)にたとえばICタグの話とか、8月号(繊維製品消費科学)にはまさにウェアラブル・コンピュータや衣服への進化とか、こんなことを取り上げて。で、これ先月きた11月号(繊維機械学会誌)のこっちでもユビキタスの服の模型だとか。ほとんど学会誌は放っていたんですけど、さすがにこれ今日電車の中で立って読んできて。こういうようなことが被服の分野のところでも取り上げつつあるんですね。ただこれはあまりにもマイナー。マイナーって言ったら失礼かもしれませんが、やっぱり突飛な感じが、すごく今まで被服をやっている人間にはあるので。で、先生がファッション専門学校と一緒にコラボレーションとかされているのもインターネットのHPかなにかで拝見したんですが、それで先ほどの、たぶん目立つことを主義にされていろんなことをされていると思うんですけれど、逆にこれがもっと大衆化していったら別に目立つ必要はないんですよね。今敢えてここ付けられていますけど(額を指差す)。

[塚本] 目立つっていうのはすごく単純な言い方ですけれども。

[内田] だけどさっき(安村)先生は「コンピュータは隠れる方が」っておっしゃった。

[安村] うん、私はね。

[内田] 私も、敢えてそれをね。だから今目立たないから「そういうのがあるよ」ってことのためにされていて、でも目立つ方向はそれをずっとウェアラブルとくっつける意味があるのかな?っていうのが一つ疑問だったんですけど。意味が通じてますか?

[佐藤浩司] みんながそれを始めたときに、

[内田] 要するに大衆化するでしょう?

[佐藤浩司] 塚本さんは逆にやめちゃうんじゃないかって。

[塚本] あぁ。

[内田] っていうか、付けるのがウェアラブルっていう趣旨が、付けて目立っていうのが趣旨ではなくて、体に身に付けているっていうことが主だったら別に目立つ必要はないですよね。

[塚本] いろんないくつかのレベルの話が混じっているかもしれないのでわかりにくくなってしまったかもしれないですけれども。目立つっていうのはウェアラブルの一つの特性だと思います。目立てないといけないといっているつもりはないですが、埋め込んで目立たないっていうのも。

[内田] 今はすごく目立っているわけですよね。だけど、ファッションで、トータル・ファッションって考えたときに、だからなんでここに付けてるのかなって思うわけですよ、こっちは。たとえば学生の作品とか見ても「これがウェアラブルだよ」っていったときにも、なんでここにこれを付けなくちゃいけないのか意味とかね。だから身に付けるということをいうのであれば、目立たなくても、それが利用されて使い方ができるとかそういう効果がある。で、特に福祉の世界はもうそれ十分いろんなこと入っていますよね。福祉分野。だから伺っていて、これってユニバーサル・デザインの分野にすごくもう入っちゃってることじゃないかなと思ったんですよ。で、東京のビッグサイトのところでよく福祉機器展みたいなものがあって、先生が先ほどおっしゃっていたいろんなものがすでにいろんなところでこれに近い話ってされているなっていう印象がすごくあったので、先生が一生懸命アピールされていることは別の意味でユニバーサル・デザインとかの形でもう実現しているんじゃないかなぁとちょっと思ったんですけど。だからその目立つのは今だけなのかなぁとそれも。[134'55]

[塚本] いえ。やっぱりいろんなお話がいろんな風に絡んでいるのでお答えしにくいですけれども。安村先生も最初にちょっとフォローしてくださいましたけれども、私がここで今一生懸命喋っている意図というのは、日本でウェアラブルを立ち上げたいと。産業を立ち上げたい。これはたぶん5年後10年後ユビキタスの社会になったときに非常に大きな産業の核になるだろうという意図を込めてお話ししているので、そこの意図がもしかしたら全然うまく伝わらなかった。場が違ったのかなぁというところもあるかもしれない。ですから、基本的に私が今日のお話も含めて、このウェアラブルとユビキタスという新しい方向性の意義っていったらあれなんですけれども、意義とそれに向けてのアジテーションなんですね。特に日本企業の人はなかなか腰が重くて話ではわかっていてもなかなか作ってくれないので、とにかく一緒にやりましょう、前に話を進めていきましょうっていうのが意図です。

さっきご質問の中でペットの話とかありましたけれども、あの話も矛盾しているように思われるかもしれないですが、実空間の中にコンピュータをもってきて、実空間とコンピュータの世界というのがうまくミックスしてくるというのの一例がそうであると。わかりやすい一例が多分そうであるということだと思いますし、まぁ研究動向としてそのあたりが非常に流行っているということをふまえてそういう風に申し上げていたんですけれども。バーチャルのペットと実物のペットを比べてどっちがいいかというのは、やっぱり実物のペット。あ、どっちがいいかっていうのは何を基準にするかっていうのに依るかもしれないですけれども、そこの部分に関しては、私の今日の話の中では意図するところではありません。それから、むしろそういういろんな切り口でいろんなビジネスが立ち上がっていくよというところで、目立つというのは一つの大きなセールスポイントとして活用できるんだというようなことと、それから目立たないという人は望むなら目立たないっていう方向がいいでしょう。

それからファッションとしては、これを付けたときに目立たないようにしていくというのはたぶん結構多くの人が望む方向で、今までの、ここ10年のウェアラブルが広まってきたときの方向性としてそういうのがあったと思います。目立たない。私はその方向性に対して逆に異を唱えていて、もっと目立ってもいいんだということをむしろ強調したかったというところがなにか誤解を生んでいるところになるかもしれない。ファッションという観点からしたときには、これ以外にもいろんな電飾機器とかありまして、結局使い方にもよりますけれども、新しい表現の方法。ファッションというのは、なんのためにファッションというのがあるのかというのはいろいろあるかもしれないですけれども、自己表現であったりホスピタリティであったり、あるいはもっといろんなTPOという言い方をする方もいらっしゃるかもしれないですけれども、そのときのファッションのアイテムとして今まではこういう素材とアクセサリとかですね。いろんなものがあったと思いますけれども、それに加えてセンサとかコンピュータでコントロールできる新しい素材というのが出てきたんだと。表現力が上がるという意味で、それを生かすも殺すもファッション・デザイナー次第なんだと思います。今までのファッションショーというのはいかにも無骨で使いこなし切れていないというところがあったと思うんですね。それをいかにこれからファッションとして、表現力は確かに増えているはずだと思うんですね。いかによい表現に変えていくかというのは、ファッションの方とやっぱりこの業界とのコラボレーションがますます必要だと思うんです。それこそ「いいな」と思うファッションに。まだまだこれから育っていくというポテンシャルはあると思います。もちろん目立たないとか、あとユニバーサル・デザイン。これは非常に関係あると思いますし、そういうユニバーサル・デザインをやっていらっしゃる方とも今いろいろコラボレーションしながらシステム開発やっているところです。[139'33]

いずれにしても目指す方向というのは、やっぱりいろんな人とちゃんと議論できていないというところはあるかもしれないですけれども、私の思いとしては、これはきっと人間にとっていい方向なんだと。私の中でそう信じているというところからそれ以上の説明をできないんですけれども、いい方向だと思っているというのは、人間自体が身体性をもって外で活動できるということと、あともう一つはさっきの途中でもいいましたけれども、よりクリエイティブな、なんか創造性っていうんですか?なにか新しいことを考え出すという、人間の脳の活動の中でも一番人間にしかできなさそうなところをより使っていく方向に産業が進んでいきそうだと。コンテンツ・ビジネスというのはそうですよね。というところで、なんか今までのような、たとえばフリーターが時給で肉体労働しているわけですよね。肉体を使って時間でお金をもらっているのが、創造的ななにかものを作ってそれでお金を稼いでいくという方向にいくんだったらなんかそれの方が人間らしいんじゃないかと思って、ちょっとおぼろげながらこれから10年という、人類史で見るとすごく短いスパンですけれども、今までここ10年なにか人間性らしさみたいなものを、30年かもしれないですけれども、失ってきたものを取り戻していくと。取り戻しながらちょっと違う方向に進んでいくチャンスではないかということを思っています。そういう意味でもこの場のような、委員会っていうのも面白いと思います。検討会とか、こういうディスカッションできるという場でもすごく面白いと思うんですけれども、そういう場でいろんな分野の方とやっぱり人間についてお話をさせていただきたいなというのはすごく思うところです。

[佐藤浩司] 前回の美崎さんのもそうですけれども、自己実現の一つの形なのかなって気がします。そういう可能性を求められているような気もしますね。で、ちょっと時間も過ぎていますので、まとめのコメントってできますかね。

[山本] まとめのコメント。

[佐藤浩司] 場をもり立てるようなコメントをお願いします。

[山本] もり立てるような。軽いヤツを。[141'50]すごく楽しく拝聴させていただきました。ありがとうございます。私広告会社なので広告会社的にはすごく面白いなと思って、たぶんうちのクリエーターとかと一緒にコンテンツを考えると非常に面白いものが出るんじゃないかなという風に思いました。個人的には、教育にいいのか?っていうのと、エコロジーにいいのか?っていうのと、装着しているので健康にいいのか?とか、あとお化粧とか夏場とか落ちないんだろうか?とか。まぁこれだけじゃないと思うんですけれども。あと高齢社会にはよさそうな面もあるし悪そうな面もあるしって、いろんなところが考えられるんですけれども。安村先生がおっしゃったように、みんなで共有できればすごく毎日がディズニーランドみたいな感じかなとも思うし。楽しいことはたくさんあるんじゃないかなと思ったんですけれども、一つ伺いたいことがあって、想像力はそれだと育たないような気がするんですけど、それは育っていくんでしょうか?っていう。これをずっと付けていって想像力という面で、広がっていくのか、それともしぼんでいくというか、あまり考えなくなっちゃうのかな?っていうのと。あと外したくなるときって先生はないんですか?というのと。あと一人でもきっと楽しくて癒されて過ごせる。一人でも楽しく過ごせるという面と、それとも人恋しくなってしまうのかという面で、これを着けていることによって晩婚化みたいなものが進んでしまうのか、それとも出会いが増えて結婚したくなるのかというところをちょっと伺いたいんですが。

[塚本] 想像力というのは、結局私が思っているのは、コンテンツ産業が増えていくというのはこれからますます人間は想像的なものというんですか、新しいアイディアと新しいもの、コンテンツを作り出して、もう全ての人が戦うという時代になってくるんじゃないかなぁと。戦うっていうのじゃないかもしれないですけど。さっきの小学生の億万長者がもし出るとしたら、彼はすごく想像力があるんだと思います。あるいはなにかグルメ情報を出すんだとしても「単においしい」じゃダメで、自分の感じるようにうまく表現するというんですか。っていうのが求められるようになってくるんじゃないかと思います。だから基本的には、こういう新しい時代というのは人間の想像力をかき立てるような新しい道具として発展させることができると思いますね。私今ずっと付けていて、やっぱり外したいというのはいつも外したいんですけれども、ずっと付けているとやっぱりある種のステータス・シンボルみたいになっていて、外してると逆に他の人に見られるのがいやだなぁと思うようになってきましたので、やっぱりそれはアクセサリ的な側面、ファッション的な側面というのが、私に関してはこれはかなり出てきているということは思いますね。実際これ使っていなくても、周りの人達との関係の中で私がこれを付けているというのはどうも必然性があるみたいで付けていることが意味があるみたいです。今は家帰ったらすぐ外しています。ええ。あともう一つは結婚ですか。結婚はね。うまく使えば早く結婚するということになるでしょうけどね。結婚っていうのも人間として考えるとどういうものなのかというのは、まだまだあるんじゃないですか。制度の問題もありますよね。

[山本] 出会いが増えて行くのか、それとも閉じこもって。

[塚本] 出会いは増えますよ。20年30年前に、電話の話したときにみんな電話が広まるとみんな電話ですませて会わなくなるんじゃないかということをいっていたと思うんですけれども、実際そうじゃなくて、遠隔の人と連絡が取り合えるようになって、遠隔の人とも会いたくなるわけですよね。インターネットもそうだと思いますけれども、遠隔の人とメール交換できるようになって、結局よりいろんな人と会いたくなると。これもそうで、いろんな人と会うために、こういうのは使うんだと思います。だから想像したり、人と会ったり、体動かしたりという実空間での活動というのもそんな不思議な話ではないと思いますし、それをこれから10年で取り戻そうと。晩婚化、進んでるんですか?

[山本] 進んでますね。

[塚本] それはちょっとどういう形でどういう影響があるのかわからないですけれども、うまく活用できれば、人と人とが早く会っていい人と巡り会えるとしたらそうじゃない方向に進んでいくという可能性もあると思いますが。どうでしょうか。そのあたりも含めて、ちょっとまだまだよくわからない部分が多いと思いますね。

[山本] ありがとうございました。[147'00]

[佐藤浩司] 出会うことと結婚はまた別だと思います。出会うのは、更に結婚までしたいと思うまでは。まぁいいや。長いことありがとうございました。

[一同] [拍手]

[塚本] ありがとうございました。

[佐藤浩司] ちょっと時間が過ぎてしまいましたので、一応4時まで休憩をとります。ただ、ちょっとスペシャルゲストが今日はきていますので、20分ぐらいお話というか、場を和ませるようなことをちょっとお話をしたいと思います。まぁコーヒーでも飲んでいただいて。テレビ局の方がお菓子を持ってきてくださいましたので、それを皆さんで食べて、10分ぐらいしてからお話を。

[野島] 40分から。

[佐藤浩司] うん。そういうことにしましょう。[147'44]

[野島] どうもありがとうございました。

[塚本] ありがとうございます。[147'46]




建築物ウクレレ化保存計画

[佐藤浩司] そろそろ始めます。席についてください。小学生みたい[笑]。[ 雑談][161'43]では始めます。

[佐藤浩司] [163'20]私が第1回のときに一番初めの話の初めに紹介したアーティストの伊達伸明さんに今日来ていただいたんです。建築、取り壊される建物を利用してそれをウクレレにしていくというプロジェクトをやっていられる方です。彼の言によると、建築家は保存運動を一生懸命やると。だけど建物が壊されると決まったとたんに建築の人間はみんないなくなってしまう。彼はその壊されると決まったところから自分の仕事が始まって、そこに住んでいた人達の話を聞き、彼らにとっての家の思い出をウクレレにしていくというプロジェクトなんですね。伊達さんに20分ぐらい、4時ちょっと過ぎぐらいまでに自分の紹介と仕事の意味についてお話しいただきたいと思います。[164'16]

[伊達] 伊達です。よろしくお願いします。肩書きも活動名も作品名も全部「建築物ウクレレ化保存計画」といいます。今紹介していただいたとおり、取り壊される建物の材料を使って、そこから部材を切り出してウクレレを作ります。なぜウクレレかというところから話をさせていただこうかと思うんですけれども、いろいろ楽器があります。まずは楽器というもの自体がコミュニケーション・ツールとしてものすごくたくさん情報を持ちうるということがまず前提にありまして。というのは、飾ってもよし、弾いてもよし、触ってもよし、まぁいろいろ。それと人が通っている真ん中にある、ある意味シンボリックなものでもありますし、何より僕が芸大で木工をやっていた頃に既に作品として楽器を作っていましたので、それをモチーフにというかベースに作っていくと面白いかなと思って5年前に始めたのがこの建築物のウクレレ化です。実際この材料を、取り壊し前の建物にまず1回お邪魔して、そこに住んでおられた方とかゆかりのあった方々にいろいろお話を伺います。そういう中で「うちの主人が生きていた頃はここにこういう風なものが掛けててね」とか「うちの息子が小さいときに書いた落書きがこうで」とか「ここだけはシール貼ってもよしっていわれた柱がこれでね」みたいなごくごくプライベートな話がいっぱい出てくるんですけれども、そういう話が含まれている部材を切り出しまして、その表面をそのまま残して、手垢が付いたものは手垢が付いたまま、シールの貼ってあるものはシールのまま、塗装がはげていたらはげていたままと、僕は補修をいっさいしない状態でそのまま部材をちょっとずつ加工成形していきます。

ウクレレという楽器である以上、反響胴[166'47]は当然ながらきちんと振動するものではなくてはいけないので、それぞれ反響胴2ミリぐらいまで薄くします。表側はいっさい手を付けないということになりますので、裏側の木材の方を裏返しにした状態でかんなを掛けて2ミリまでしていくんですが、中にはすごく壊れやすいものであるとか、虫の食っていたものとか、その都度その都度条件の違う部材が次々やってくることがスリルでもあり楽しみでもあるわけです。それをウクレレに加工して、弦を張って通常の演奏ができるようにして、それを通常でしたら美術作家の作品というのはとりあえずは作品を保存していることが多いか、またはギャラリー伝いにコレクターの手に行くというようなことが多いんですけれども、それを直接もとの持ち主に返します。まぁ美術作品でよくあるような、美術のジャンル特有の付加価値というものをいっさい排除した状態で、僕が作品に対する思い入れよりも更に強い思いを持っておられる方のところに行くのが一番筋としてはいいんじゃないかということで、そういうルートにしたんですけれども。時々展示をしたりなんかするときには、それをお借りするという形で展示空間を作っていったりするのを常々やっております。なぜウクレレかという理由の一つがその辺にあるんですが、楽器を特に練習したことがないという方とか、歌うたうの好きだけど弾く方はとか、ピアノはできるけどウクレレはという方などがほとんど圧倒多数なので、特殊な練習を何年間もしなくちゃならないような楽器は作って手元にやってきたとしてもあまり嬉しくないんじゃないかということで、ある意味しきいが低いというか、手軽に演奏できる、手軽に音を出してみようかなぁと思えるような楽器であるということがまず条件になります。

もう一つはサイズのことなんですけれども、仮にギターとかコントラバスとかそういう巨大なものを作って「これが旧宅の思い出です」と持っていっても結局邪魔になるものになってしまうので、そういうものじゃなくて、小さいということ。やっぱりハンディサイズといいますか、ちょっと抱えてみたくなるようなというか。あまり大上段に構えた思い出というものはあまりリアリティがないというか、そういう感じが僕個人としてしていまして、なんかそっと包んでおきたいというサイズがいいんだなぁというのが、サイズ的に小さい楽器を狙った理由であります。

もう一つは、これすごく現実的な問題なんですけれども、日本家屋でしたら通常3寸角、まぁ10センチ程度の角材が柱としてよく使われていますけれども、仮にいろいろな理由でそれが1本しか手に入らなかったとしても造れてしまう楽器、サイズというのが非常に重要だと思いました。まぁ仮につぎはぎつぎはぎ、5枚接ぎ6枚接ぎで無理矢理巨大な楽器を作ったとしてもやっぱり見た目的にもイマイチですし、それに強度が劣っていきます。そんな理由で全ての条件を兼ね備えているものとしてはウクレレかなという感じです。

幸か不幸かってやっぱり幸いの方なんですけれども、これは各世代ごとにウクレレブームというのがあるんですね。不思議なことに僕のオヤジ世代でもやっぱり「ウクレレといえばあの人」っていうような、「ウクレレといえばこの歌」みたいなものがありますし、一番最近の例でいうと高木ブーとかその辺の人がオピニオン・リーダー的にウクレレを普及させていたりするということがあって、すごく土壌として受け入れられやすいんですよね。これは後付でいろいろ考えてみたんですけれども、これは日本の伝統楽器ではないので、なぜここまですごく受け入れられやすいのかなぁという風に考えますと、やっぱり一つはハワイというものが特別に日本の多くの人にとって身近な、まぁこれはちょっと国策的な要素が大きいわけですけれども、そういうイメージがあるということ。それに実際に移民していった人達がいっぱいいるというような背景があって、現地の方から見ますとウクレレというもの自体は必ずしもハワイの民族楽器というわけではなくて、更にそれをもう1個ルートをたどりますとブラジル経由でポルトガルの民族楽器だったりするんですよね。それでその土地土地にいろんな人々が出会って、カルチャーがミックスしていって、で最終的にああいう小さいひょうたん型のものがハワイにたどり着いたときに、ハワイの原産のハワイアンコアという木と出会って今のウクレレというスタイルができたという流転がありますので、仮に次のストーリーとして、それが日本にやってきたというときに日本に生えている木というのはむしろ建物を建てたりするような木で暮らしていまして、日本の建物からウクレレを造るということに、多くの人にというのはちょっと勝手な想像かもしれませんけれども、違和感がないんじゃないかと。突拍子もないアイディアだったとは思うんですけれども、受け入れられる余地があるんじゃないかということで最終的にこういうスタイルでやっています。[173'20]

4年半ほど前に初めて今で30本です。その間には公共性の高い扇町ミュージアムスクエアという大阪の文化施設ですけれども、であるとか、法善寺横丁というのが燃えて大きなニュースになっていましたけれども、そこの老舗のバーと、えび家、海老を出していたレストランというか料亭というかそういうお店から作ったりという風な、そういう社会的意義と直結したようなものから、本当に一般住宅。山下さんと寺山さん。そういう一般住宅のものと分け隔てなくといいますか、当然のことなんですが、作っていっております。まぁどんな立派な建物でも、逆に4畳半一間だったりしても、ウクレレにしてしまえば皆同じという。なぜ同じかというと、そこに住んでいた人の思い。たとえばかかってきた時間とか、それはやっぱり触り続けてきた身体感覚とか、手垢とか汚れというのは身体感覚の転写だと思っているんですけれども、そういうものをかき集めてくることでその人の、放っておいたらなくなってしまう時間の軌跡というか証というか、そういうものをくみ上げることができるんじゃないかなぁということなんですね。で、僕が学生だったときに、バブルの絶頂期だったこともあって駅前再開発やリフォームで、ただの通りすがりの僕にしても「あぁあの建物もったいないな」と思う古い建物が次々に壊されていくというのが、やっぱり感覚的にいやなんですよね。ましてやそこに住んでいた人の気持ちたるやみたいな部分がやっぱりずっとあって、そうこうしているうちに自分のオヤジの実家が取り壊しになって。夏休みの間だけそこに帰る、仙台にあった築100年ぐらいのボロっちい木造住宅なんですけれども、やっぱり物体以上の思いというのが子どもの頃から擦り込まれていてあるんですよね。親戚が集まって、それこそ缶蹴りをして一日中遊ぶとかそういう場所だったりしたので。いよいよ自分の身に直接そういう喪失感がやってきたというところが直接的な引き金になっているとも言えます。

初めは楽器を作るという方に重きがあったんですけれども、どんどんどんどんいろんな人の人生みたいなものと直に関わってきたり、依頼してきた人のお父さんが実際に亡くなってしまったり、そういういろいろなことが起こると、ウクレレという単体の意味合い以上に、そこに込めた、他の人には絶対わからなくてもいい一人の人にとって大事な情報というかそういうものが日に日に増していくような気がして。これはライフワークというか、今すぐおうちを取り壊さない人にもなんとかできるような状態にずっと続けて行かなくちゃいかんなと思っているんですけれども。そういうような趣旨でやっております。非常に中間的な位置にいると思うんです。美術と音楽っていったらその中間ですし、過去の思い出とこれからの楽器としての機能ということを考えても中間ですし、パブリックとプライベートという、まぁ建物自体が両方の要素を持ち合わせていますけれども、その意味合い的にも中間的な要素がありますし。1個作ると1 個以上の意味合いができてきたり、人々と出会ったりするというのが、僕作り手個人としてもすごく興味があるし面白いしスリリングなので今後も続けていこうと思っております。本当のダイジェストで、しかもバーッと羅列で喋ったのでどうだったかわかりませんけれども、そんな活動をしております。実物を今日持ってきていないんですけれども、演奏は。[笑]本当は実物があると一番いいのはわかっているのですが、演奏をしてしまうとどうもそっちの方に気持が行ってしまうことが多いので。なんの曲を弾いたのか、そっちの方があとで残ってしまうことが多くて、今日はやめました。そういう感じでやっております。ありがとうございました。[178'41]




討論2

[佐藤浩司] ご静聴ありがとうございました。

[一同] [拍手]

[野島] 本の紹介も。

[佐藤浩司] それから本を今日持ってきてくださっているので、購入希望の方いらっしゃったら今手を挙げていただければ。

[塚本] おいくらなんですか?

[野島] 1500円ですよね。

[伊達] 回覧した内容と混ざってます。コメントと入っています。それとリストであるとか、僕のいろんな生き方であるとか。あとはこれ。家の形を分解するとウクレレになるという組み替えパズルみたいなものがおまけで入っております。

[野島] 回覧しちゃいましょう。

[安村] いいですか?音はやっぱり違うんでしょうね、それぞれ?

[伊達] 音は、はい。違います。作るほどに、振動させる構造にはどんどんなっていきますので、音量的には十分になっていきますけれども、具体的な話ですと、裏板がガラス板だったり、モルタルの薄切りだったりするので、そういう場合に表に抜ける音の堅さが違ってくるですとか。表板の木の種類によって、針葉樹系は柔らかい音ですけれども、材質によっては固かったり、いろいろそれはあります。

[安村] どんな材質でもやられるんですか、逆に言うと?

[伊達] やりますね。

[安村] すごい。

[伊達] 最新作で初めてモルタルの薄切りをしたのが大冒険だったのですが、それでいけたということで、なにかまた別のことを冒険したくなるので、鉄板とかいろいろやりたいなと思っています。

[野島] 一体これはなんなんですか?っていうのは、アートなんでしょうか。たとえばこういうのってみんなに話をすると、今も菅原先生がいわれたけど「うちの実家を壊すとき」って。僕もさっき「うちの実家を壊すときに知ってれば」って。みんなそれ言い出したら困っちゃいますよね。

[伊達] いや、それは受けます。

[野島] あぁそういうの受けるんですか?

[伊達] ええ。一応僕は美術という畑にはおりますけれども、やっぱり美術っていくら発表しても関係者内で止まってしまうという閉塞感があって、かといって変に出て行っても浮ついたものとして終わってしまうという、落としどころがないことがすごく多いので、美術であるという枠を超えておかないと作品として本当に成立しないような気がする。

[野島] そうするとそれはたとえば作ってもらうのに対して、対価としていくらみたいな話があってということですよね?

[伊達] そうですね。

[野島] そうすると、ある意味で言うとビジネスとしても成立しうるようなモデルがあるということですか?

[伊達] しうる。

[野島] してるかどうか知りませんが。

[伊達] そうですね。

[安村] 率直に聞いちゃいますと、いくらぐらいするんですか?

[野島] それ聞きたかったんです。

[安村] 30万ぐらい?

[伊達] いや、15万円プラス、あと2回往復しなければいけませんので、

[安村] 交通費。

[伊達] 交通費で。「もうちょっとあげてもいいんじゃないか」と美術関係者はよくいいますけれども。

[安村] あとそのものはのれん分けされないんですか?

[伊達] それは秘密です。[笑]してもいいんですけど、本当に一つ一つ違いますので。僕の判断というものがどうしても出さないとやっていけないこともあって。まぁどの部材を切り取るかというのにしても、やっぱり僕とその方との中間的にあるものですから。別の方がやっても別に構わないんですけれども、また別の質のものになると思うんですよ。だから僕としては、建築物からウクレレを造るという加工業は私ですけれども、建築物から三味線を造る別の方がおられてもいいですし、そういう可能性として、要するに取り壊されると決まってから実際にものがなくなるまでの間に、素材としてとか、心理的な意味としてグレーゾーンがいっぱいあるんだと。そこでいろんなやり方があって、そのうちの一つを提示したに過ぎないという感じで思っているんです。[182'47]

[安村] 更にあれですけど、知的所有権みたいなのはとられている?

[伊達] あぁ。とられるかもしれませんね。

[安村] 特許とか。

[伊達] いや別になんの申請もしていないです。

[安村] あぁそうですか。

[伊達] した方がいいですね。

[野島] たとえばランドセルのミニランドセルを作るというのはもう既にあったりしますよね。

[伊達] ありますね。

[野島] 基本的にはそれと同じようなものと考えているのか、それとももう少し。その辺はどうお考えなんですか?

[伊達] すごい具体的な違いとしては、小さいランドセルは使えない。それは思い出だけですけれども、ウクレレというのは今後使ってまったく別の人の輪を作る可能性があるのと、それと家がそうであったようにウクレレも朽ちていくだろうと思うんです。弾いて壊れたり、ひっかき傷がいっぱい入ったり、孫の世代の子がシール貼ったり。そういうストーリーも含めて作品という風に設定していますので、仮に新しいおうちが2、3年後ウクレレごと消失してなくなってしまったら、僕の作品のリストの欄には「消失」という文字が出てそれがドラマになるという考え方なんです。

[野島] はぁー。面白い。

[佐藤浩司] 一つとして同じウクレレはない。

[伊達] ないですね。

[加藤] 今日現物がないということなんですけれども、来年のみんぱくの展示とかには?

[伊達] あぁ、出ます。

[加藤] あとOMSのはどこに今?大阪ガスにいっているんですか?

[伊達] ええ、大阪ガス。アーバネックスにゆくゆくは行く予定になっております。

[加藤] そういう個人じゃない場合の帰属っていうのは。

[伊達] それは毎回その担当の方と相談しなければいけないんですけれども。たとえば三条大橋ウクレレ[184'45]というのを作りましたけれども、それを京都市に渡してもこれはしょうがないんですよね。担当の方がどんどん変わって、ゆくゆくはよくわからないものとして捨てられるかもしれないということで。やっぱり顔の見える付き合いをしなければいけないし、展示をしたいといったときにまた借り出す必要があるので、その辺の体勢ができているかどうかで決めます。

[加藤] 私はパレスサイドホテルで最初に拝見して、

[伊達] ありがとうございます。

[加藤] 音が鳴るのかどうかがすごく。あれは写真をはめ込んだような平面作品になっていたので、まぁ来年見れるのであれば是非。その所属の問題がすごく気になっていて。さっきも塚本先生のお話で、ウェアラブルじゃなくてユビキタスの方の話で、チップを入れたときに所有者が変わっていったときの書き換えっていうのはどうなるんだろうってすごく気になっていて。ちょっとあまりに初歩的かなと思って質問やめていたんですけれども、そうすると市とかそういう法人に、建物を造った人に返してしまうと、そのあとわからなくなっていくので、すごくそれが。伊達さんの中にはリストが残っているわけなんですね?

[伊達] そうですね。

[加藤] 今おっしゃってました。

[伊達] はい。で、ちょっと不安だなと思う場合は、僕「永久に預かっていていいですか?」という。で、京都大学の法経第一教室[186'13]から作ったのもありますけれども、それは京都大学の方とちょっと相談していて、最終的には自分のところで保管し続ける自信がないということになったので、ほかにいろいろな寄贈品があって、楽器ってやっぱり特別に大事にしなくちゃならないこともあるからっていうので「まぁ持っていてください」といわれたので持っています。いつでも使うときに与えてくださいという感じですね。でも一応ある程度は、一般住宅の方でしたら、僕の手元には残らないですけれども、記念写真を撮って、それが僕の作品の証みたいな感じですね。

[大谷] いいですか?賃貸住宅に住んでいるんですが、賃貸の中の部材でなにかできないんでしょうか?

[伊達] 難しいですけれどもね。賃貸住宅やりたいですよね。今までそのケースがないので、いざそうなったらなにか工夫をすることになるとは思うんですけれども、将来的には技術的にどこかの工学系の方々と技術提携でもして、柱にパカッとはめ込んでギーッと薄切りするようなそういう機械でも発明していただいて、薄い方は私がいただいて、で、きれいになった柱をそのまままたリフォームとして使っていただくというような手はないものかなぁと思って。

[安村] 法律上は現状復帰すればいいだけなので、汚れたところを、床板でもなんでもパカッとはがして、その辺きれいに直しておいてもらえばたぶんできるんじゃないかと思いますけど。

[伊達] あぁなるほど。あぁー。じゃぁ堂々と柱を一本とって、あと新しい柱を。

[安村] ええ、やっちゃってもいいと思う。構造的に現状復帰できれば。

[野島] ちょっと大胆だな。[笑]

[佐藤浩司] 来年私の住んでいる公務員宿舎が取り壊されるのでやってもらおうかなぁと思ってますけど。

[伊達] あぁ。

[野島] 公務員宿舎、でも佐藤さんのところに行かないんでしょ?

[塚本] 帰属先が。

[野島] ねぇ?

[佐藤浩司] いやいや、壊されちゃうんですよ。

[野島] 壊されちゃうのはいいのか。

[佐藤浩司] 今住んでいるところから追い出されるので、その追い出される前に柱を削ってしまおうと。

[伊達] 本当にその辺の顛末がいろいろで。先比引き渡して、上物ごと引き渡して、あ、間違えた。上物を壊して土地を引き渡すというような契約のもので「じゃぁ壊れる前にとりましょう」っていって玄関の上がりがまちなんかをガバッととってしまったあとで「なんか銀行から融資が出ないかもしれない」とか言い出して。[笑]で、「その建物ごと使うかもしれなくなるかも」みたいなことをいわれて大あわてしたことがありました。それは金策が付いてウクレレも引き渡せたという、そういう例もいろいろあります。エピソードには事欠かないですね。

[佐藤浩司] ありがとうございました。

[伊達] どうも。

[佐藤浩司] 懇親会も行かれるので、ほんの話もそのときにでもしたいと思います。[189'35]

[野島] じゃぁ菅原先生の話が終わったあとで本を購入する人は。

[佐藤浩司] じゃあ菅原先生。

[伊達] ありがとうございました。[189'44]

[一同] [拍手]




ワタシをつつむ繭

[佐藤浩司] なんか追い立てるようですみません。時間がなくて。じゃぁ京都大学の菅原和孝先生にお願いします。[190'02]

[菅原] それじゃぁ全部消すと眠くなると思いますから、明かりは半分。これぐらいでいいと思います。配付資料とスライドとを同時に見るような形で。佐藤さんにお誘いを受けたとき、私がこの研究会で喋ってなにか貢献できるのかどうかちょっと心許なかったんですが、前メールでのお知らせで引用していただいたとおりに、日頃人類学の業界では喋る機会のなかったようなことを喋りたいというので、実はこの発表の準備で結構遊んでしまいまして、思ったより時間を費やしたんですが。

業界で喋れないようなこととはなにかといいますと、それは私の個人的性癖に関わることで、私は自分をもし特徴づけるとしたら、第1の言葉が夢想家である。夢想家というのは恐ろしく社会に適応しがたい特質だと思うんですが、まぁ夢想家であるということですね。ですからSFが好きだというのも、そういう夢想家的なところと関係しているのではないだろうか。ですから今日は私の紡ぎ出した夢想みたいな話を、図像というふうに題を変えましたので、図像と映像で追っていきたいということであります。

最初に表題の意味。「ワタシ」となんでわざわざカタカナで書いたのかということなんですが、それは私が追求している人類学の私がこうありたいと思っているもののわかり方というのは、あ、まず最初に教科書的なことをいいますと人類学の目標というのは簡単にいうと他者理解なんですね。自分以外の他者をどう理解するか。特に社会人類学といわれているものは、人間が他者と共にいて社会的な存在であるという、そのことをなんとか理解したいということであり、ただそれだったら社会学と同じなんですが、その場合人類学は一つの独特なスタンスをとって、それは私達が住んでいるこの近代というシステムの外側でそれを理解したいというそういう望みなんですね。その理解するというときに、これが私が追求したいと思っている方向なんですが、たとえ動物であれ、全ての他者達にとってそれ自身から見たらそれは一つの私なんですね。私の飼っている犬だって、ある形では私性というのを持っていて、その私というのは非常に独特な世界に住み込んでいるという、そのそれぞれの私が独特な世界に住んでいるという、その成り立ちを明らかにしたいというのが私がやりたいと思ってきた人類学であります。ので、わざわざカタカナにしました。こういったことは一口に内部的な視点とかいわれて、私の尊敬するフランスの哲学者メルロポンティが非常に緻密に追求してきた立場だと思うんですが、ちょっと口幅ったい言い方ですが、今日の発表が若干哲学っぽくなるとしたら、その私がやりたいと思っていることがどうしてもそういったメルロポンティ的な考え方と切り離せないということなので、理屈っぽいところはご容赦いただきたいと思います。[194'26]それから、すごく盛りだくさんなので1時間で喋りきれるかどうかはなはだ不安なのですが、ちょっと急いでやりたいと思います。

レジュメに沿っていいますと、最初に「シンプル・ライフ?」という風にクエスチョンマークをつけてありますが、これはまだスライドは。あ、これでいいんですね。実は私は子どもの頃なぜか東京のど真ん中に住んでいたんですが、ひどく動物好きでありまして、その動物好きというのは一体何だったんだろうって遡行的に振り返ってみると、それは私がこれからお話しするカラハリのブッシュマンのところで研究をしているときに、多大の援助をしてくれた私よりもずっと年若い、まぁ私は天才的っていっているんですが、天才的音声学者、まぁ言語学者なんですが、のことをちょっといったら、皆さんおわかりになるんじゃないかと思うんですが、この言語学者は子ども時代の思い出として図鑑類がものすごく好きだったっていうんですね。昆虫図鑑とかそれから岩石図鑑ですね。鉱物図鑑。なぜかと彼は今になってわかったんだけれど、彼は昆虫そのもの、あるいは岩石鉱物そのものではなくて、その普通の日本語にはない実に独特な言葉の音調ですね。たとえば「アオバアリガタハネカクシ」とかいうような言葉そのものにうっとりとしていたというんですね。だからいつもうっとりしながら「アオバアリガタハネカクシ」とかね。私鉱物の名前全然知りませんが、「なんやらなんとかコウ」とか口ずさんでいた、そういう変な少年だったっていうんですね。だから彼は天性の言語学者、特に音声学者になるべきなにか素質を持って生まれついたんだと思うんですね。私はそれを聞いて「へぇー」っと思って、じゃぁ俺にとっての動物ってのはなんだったんだろう?と思ったときにふっと思い当たったのは、それは生命とかそういうロマンチックなものというよりも、むしろある種の形に対する熱中じゃなかったのかなと思い当たりました。それは私は本当に幼い子どもの頃から東宝の怪獣映画、「空の大怪獣ラドン」とかそういった怪獣映画をこよなく愛して、それからそのころとしては珍しいまでに恐竜少年だったんですね。そういう恐竜少年であったり怪獣映画が好きだったりする、つまり形のグロテスクさというのが、私の心のふるさとは上野の森なんですが、上野の博物館とかで子どもの時に見た仏像であるとかね、そういったものに対する熱中というのが動物学というところに結びついたんじゃないのかなと。ですから今日、図像、映像ということを軸にするのも、その私の形へのこだわりというのがモチベーションになっているということであります。

で、ありますから私にとって子どものとき繰り返し読んで、ぼろぼろになるほど読んで、今でも家にあるんですが、それはコナン・ドイルの「失われた世界」という恐竜がたくさん出てくるすばらしい小説ですね。それから更にそれよりあとになってジェラール・ダレルという人の「積み過ぎた箱船」。これはイギリスの動物学者が王立動物境界から委託されてカメルーンの森林でたくさんの小動物を採集して母国に持ち帰るというノンフィクションですが、そういったものを本当になめるように何十回となく読んで、動物学者になろうと思いました。その発展形として霊長類学、つまりサルの学問というのに巡り会ったわけです。

私はこのサルたちに不思議な憧れを感じながらフィールドワークをやってきたんですが、最初は宮崎県の幸島というところでニホンザルの調査をしていましたが、残念なことに幸島のあまりいい写真がないので、ここにお見せしているのは私がこれで学位を取った研究のもとになった、エチオピアに住むヒヒ類ですね。ちょっとややこしいんですが、マントヒヒというヒヒとアノビスヒヒというヒヒが雑種を作っているという地域で研究をしました。そのときの私のサルたちに対する得体の知れない憧れというのはなにかというと、つまり繭が全くないということですね。繭がないというのは、彼らは朝起きてあくびなどをしてぼんやりしたあと、サバンナに採食に出て、そして夕方になると別の泊まり場に帰っていってそこで眠ると。全ての動物はもちろんそうなんですが、特にサルというのは人間とほとんどそっくりであって、特に手が不気味なまでに人間そっくりですよね。そういう人間そっくりの手をした、私達の業界ではそういうのをすぐ「ヒト達」といってしまうんですが、そういうヒト達がまったく何も持たずに生きているということは私にとっては不思議な憧れの感覚でありました。その後霊長類学から転向して、いわゆる人類学に越境したわけですが、そこでいろいろな行きがかり上で調査の対象というか、ホストグループですね、とさせていただいたのは、このいわゆるブッシュマンの人達であります。

午後1時佐藤さんからご紹介いただきましたように、おそらくブッシュマンというのは、この人間の身体を包むものの繭というのが極小の人達であろうと。レジュメに書いてありますが、自分の身体だけで運べるものだけを携えて、生きて、食べて、しかものんびりくつろいで、そして眠るという。それこそまさにシンプル・ライフですよね。[201'28]そういうシンプル・ライフに対する得体の知れない憧れというのは、ブッシュマンの研究を始めてから何年になるのかな?82年だから22年になりますが、その間ずっと私を突き動かしてきたといっていいと思います。

それに比べると、こういう漫画を描いて遊んでいたから時間がかかったんだけど、私がまずスーツケースと機内持ち込みリュックとに入れて現地に持っていくものというのをやけくそのように書いていくとこんな風になるんですね。これは一番最近のフィールドワークが今年の8月でしたから、今年の8月にどんなものを持っていったかなって全部思い返して、まったくプランもなしに書いて、A4の紙に1枚納まるのかなと思いながら書き出したら意外と納まったのでびっくりしましたが。たとえば、これですね。蛍光灯。これは私の生命線でありまして、この中にもちろん向こうで単一の乾電池を4本買うんですが、単一の乾電池を4本ぶち込んで、これが私の、あとでいいますが活字中毒者である私の唯一の夜の灯りになります。これはアルカリ単一でも5日間ぐらいしか保ちませんよね。でありますからどれだけたくさんの単一乾電池をかっていかなくちゃいけないかというのは計算してください。それから必ず持っていくものが、これあまりうまく絵が描けなかったんだけど、タイヤ・ゲージとか。常に車のタイヤの空気圧を計っていないとえらいことになりますので、空気圧を計る小物ですね。それからバルブ?その空気圧を計るときにあまり締めてあるとこれがスポンと入らないので、そのバルブをゆるめるキーとか。私にとって生命線である蛍光灯が切れたら大変なので、必ず予備の蛍光灯を1本持っていくとか。このスチール・カメラというのをなんでこんなに下手くそに描いてしまったかと思うんですけど、実は私が使っているイオスというカメラは性能はいいんですが非常に重いもので、それを憎々しげに描いていたからこんな変な絵になってしまったんですが。そして今では本当に革命的に進歩して、もっと昔からこれがあったら私の研究はもっと精密なものになったろうとまぁ後悔してもしょうがないんですが、デジタルビデオカメラと、何よりすごいのはバッテリの性能がどんどん向上して、もちろん私のフィールドには電気がありませんので、日本で充電済みのバッテリと4、5本持っていくとまぁまぁ1 月半ぐらいの調査はできるというような感じですね。[204'45] これだけの途方もないものの前で身を包まないと私はカラハリで生きていけないというのは実にふがいないことであります。

しかも私どもは車というのを使うんですね。これは1982 年に初めていったときに南和のトヨタから借りたランドクルーザーであります。こちらは確か96年に使っていたハイラックスのディーゼル車ですね。これはぶっ壊れてしまいました。この車に1月に1回街で買い出しをして膨大な食料、これは私だけではなくて私の調査助手達、あるいは周囲にいる人達にも配らなくちゃいけないので、そういった私一人が食べる分の5倍ぐらいは買ってきますね。そして絶対に欠かせないのがアルコールであります。1 月に何本のアルコールを消費するかは秘密にしますが[笑]、バカになりません。そして何より愛憎こもごもというのが、このテントであります。このテントは、今ここに写っているのはダンロップ製の、日本でもどこでも冬山に耐えられるようなテントで、非常に風に強いんですが、こういったテント以前の私達でも、調査チームを組んでやっていますから、私達調査者の生活はかなり悲惨なものでありまして、1984年には夜にものすごい砂嵐が襲ってきて、あえなくテントは崩壊してしまって明日からどうやって暮らすんだろうと呆然としたこともあります。

そして突然この辺な図を見せたのはどういう話の脈絡かといいますと、でもこれだけのものの繭というのは、私がたまたまとても柔弱軟弱な人間なのでいつまでもこういうものの繭をしょって歩いているんだけど、これはそぎ落とそうと思えばいくらでもそぎ落とせるんですね。理想的にはブッシュマンの水準にまでそぎ落とすことは可能です。それを実践しているのが、私より何歳若いんだ、あいつは。絶対年齢をいった方がいいな。たぶん今は27、8の大学院生がいるんですが、私とは研究科が別ですが、女性です。彼女は「菅原さん達の実に軟弱なおじさん調査は私はいやだ」といって、「そんなぁ。何も持たないで一緒に暮らせばいいじゃないの」っていって。大体自分でご飯を作らないと不安だというのはあまりにも彼らを信用していないとかっていって。まさに彼らのキャンプに、まぁさすがにテントだけはプライバシーの最終線ですからね。それだけは持っていくんですが、あとは全部お任せ。彼らに食わしてもらうという生活を選択してきちんとやっています。ので、これはフィールドワーカーとしての、私は彼女を実に卓越したフィールドワーカーであると密かに声援を送っているんですが。事実昔の日本の人類学者には山岳部出身とかワンゲル出身というのが非常に多くて、私の師匠、このカラハリに私を導いてくれた田中次郎さんという方も確信犯的な京大山岳部で、次郎さんの話を聞くと、山岳部の人生というのはちょっと世間の人には信じられないようなもので大体1年の半分以上山に行っていて、主食はインスタントラーメン。しかもインスタントラーメンをできるだけ容積を小さくしなくちゃいけないので、全部砕いてそれをおかゆみたいにして食うと。毎日毎日そればっかり。「だからおまえらの考えているようなハイキングとは違うんだよ」とかいわれてぎゃふんとしますが。最近チェ・ゲバラがまた妙にブームになっていますが、ゲリラというのはそうですね。山岳ゲリラというのはまさに自分たちが持てるものだけで、徒歩で歩いて村人達の居住区をとってと[?][209'48]。昔日本共産党のやった山村工作隊というのは惨めに敗北したわけですが。できないことはない。ものの繭をそぎ落とすということは、ぎりぎりまで鍛錬によって可能であると。

しかし、実は今日のテーマは「表象の繭をそぎ落とすことは不可能ではないのだろうか」ということであります。表象とはなにかという話に移りますと、レプリゼンテーションという言葉、聞き慣れない方もいらっしゃるかと思いますが、これは注意していただきたいんですが、記号という概念ですね。記号という概念とはやや違いますね。たとえば今日みんぱくに来るときに「いばらき」とか「国立民族学博物館」という記号、まぁ街中に記号が満ちあふれていますが、表象というのはそれよりも広い概念ですよね。一つ難しいのは、たとえばこのマイクロフォン。これは公的な表象かというと、こういった道具というのを表象と呼ぶのはやっぱりちょっと奇異であると思われます。しかしながら公的な表象じゃなくて心的な表象の話を最初にした方がわかりやすいと思うんですが、心的な表象というのは心の中に浮かぶいっさいであります。それが私にとって存在することは疑い得ないわけですね。ちょっとペダンティックになりますが、たとえば私はひたすら絵が好きなので、今パウル・クレーのひなぎくといえばパウル・クレーのひなぎくの絵が私の頭の中にはっきり思い浮かびますし、ゴッホの教会といえば浮かぶし、ドガの踊り子といえば浮かびますよね。だけど、これは視覚イメージですが、決して表象は視覚イメージに限られない。もっとペダンティックになると、ベルリオーズの「幻想交響曲」の第4楽章? え?どこだっけ?「第4楽章の始まりのときにものすごいティンパニの音がするやろ?」といえば、そういうジャンルの好きな方は今頭の中にたぶん浮かんだと思うんですね。井上陽水の「ホテル・リバーサイド」って私がいえば、好きな方は「あぁあのいやらしい歌ね」とか思って頭の中にメロディが浮かぶと思う。でありますから表象というのは、視覚的であってもいいし聴覚的であってもいいし、あるいは「金木犀」といえばあのすばらしい匂いが浮かぶように、嗅覚的であってもいい。いずれにせよ心的表象は存在する。のだけど、心的表象は私にしか見えないという特質を持っていますよね。これが人間の一番の悲劇だと思うんですが。究極の心的表象は、先ほど冒頭に私は夢想家だといった、その夢想家というのは別に比喩でもなんでもなくて、究極の心的表象が夢であるわけです。「私はこういう夢を見た」と口で言うのはたやすいのですが、「でもそんなのは全部創作で嘘っぱちかもしれないじゃないか」といわれたときに証拠になるものがあります。それは夢から覚めた直後に枕元のノートにその夢の中で見たイメージをやみくもに書き記すことであります。私は、これなんだ?1970年ですね。だから大学1回生の冬頃から、全共闘運動も尻つぼみだし、延々と下宿で1日10時間ぐらい寝て夢日誌を書き記すという自堕落な学生生活を4年過ごしました。今日初めてその成果の一部をお見せします。

[一同] [笑]

[菅原] 70年2月18日ですね。だからこれは夢日誌の最初の頃ですね。大体こういう非常に漫画的な、私はひたすら漫画も好きなので、これなんかそのころ熱中していた白土三平の漫画の影響がすごく強いのですが、それ以外にある種の風景ですね。空間的なイメージ。これはすごい窪地があってここに柵があって家が建っているというイメージなんです。それから家から煙がもくもく上がってる。それからこれが私のグロテスク好きが夢の中にも出てきて、得体の知れない生命体ですね。この得体の知れない生命体の夢というのは、私の夢オールタイム・ベスト10ぐらいに入るんじゃないかと思うんですが、そのころ凝っていたウィリアム・フォークナーのアメリカ南部の小説と、今でいうホラー映画と合体したような夢を見て、それを目が覚めてから一生懸命書いたのがこれになります。とうとう、詳しく説明していくときりがないのですが、今日は場所柄も考えエロティックな夢というのは全部割愛してきましたが、これなんか今見てもちょっと笑っちゃうんですが、これすごいオリエンタリズムなんですが、中国式コンピュータというのが出てきて、たくさんの中国人達がぐるぐるとこれを回転させるとここだけバーッと光って、そのときだけコンピュータが動くという。これを1971年に見たというのは、私は先見の明を誇っていいのではないかと思いますが、その後言語行為論で有名なジョン・サールという人が、中国人の部屋という思考実験をしていたりというのに巡り会ってびっくりしました。それからこれはエロティシズムに境界ですね。これトイレらしいんですね。でも非常に奇妙なトイレで、どうやって使うんだろう?というようなものとか。これも風景ですね。それからこれは説明しないとわからないんですが、丸ごと鶏ハムというヤツで、鶏がそのままハムになっていてどんどん薄切りしていくという。これを実は今回の発表をするというので机の中に眠っていた膨大な夢日誌から絵のある部分だけピックアップしてきて、私自身「うわぁこんな夢見てたんだ」とすごい楽しんでしまった。これは比較的最近。これ最近私がカラハリで使っているフィールド・ノートなんですが、そこにもいくつかこういう図像というのは出てきます。[216'54]

で、今お話ししたことは、今何をやったかというと、本来私にしか見えないはずの心的表象を私は絵にしたんですね。図像化したことによって、心的表象が公的表象に変換された。これが人間のコミュニケーションにとって決定的なことでありまして、つまり私達がコミュニケーションしているというのは、この公的表象を使っているわけですね。でありますから、今私が垂れ流している音声言語というのも公的表象の代表選手であります。そこで、人間と動物という話をちょっといたしますと、この表象能力というのはある種の動物にはもちろんあります。あると考えられます。たとえばうちの犬はひたすら外でおしっこの匂いを嗅ぐのが好きなんですが、きっとおしっこの匂いを嗅ぎながら、彼の友達、あ、彼じゃない、彼女ですね。雌犬ですから。彼女の友達犬とか、彼女にとっていけ好かない犬とかのイメージが何らかのイメージで彼女の頭の中に呼び起こされていなかったら、何が面白くてあんなにおしっこの匂いを嗅ぐのかわかりません。

その表象能力というのがもっとも見事に証明されているのは、この東アフリカに広く分布するベルベットモンキーというサルで、このサルは3種類の警戒音を持っているんですね。一つは鷲が空高く待っているときの警戒音で、一つは豹とかハイエナみたいな四足獣が地上を近づいてきたときの警戒音。最後はニシキヘビが草むらを忍び寄ってきたときの警戒音なんですね。この3種類の警戒音をプレイバック実験すると、それぞれの警戒音の指示対象に対して実に適切な防衛行動をとります。鷲用警戒音だと空を仰ぎ見たり、藪の中に飛び込んだりする。それから豹用警戒音だと、豹は最初から樹上にいるんじゃなくて地上を接近してくる場合ですが、そのときには樹上に走り上って、豹の体重を支えきれないような小枝のところまでいくと。それから蛇用警戒音を聞くとパッと2本足で立ち上がって草むらを見るというような形。つまりこれらの音声を聞いてこれらの指示対象をこのサルの心の中に表象しているのではないかという風に考えられています。

それからもう一つすごいのは、この地域に住んでいるムクドリも鷲を見ると警戒音をあげるんですが、このサルはムクドリ音の警戒音を理解していて、ムクドリが警戒音をあげるとパッと上空を見上げるということもわかっています。これだけすごい表象能力を持ったサルなのですが、実に研究者をガッカリさせることには、こういった実験をこの研究者達はしているんですね。つまり豹の獲物はいわゆるレイヨウ類ですから、その中のトムソンガゼルの剥製をいかにも豹が殺して食い残したのを木の上に掛けてあるみたいな状況を作って、そこへベルベットモンキー達がきたときに何をするかというのを観察すると、全然普段通りにしている。つまり「豹が近くにいるぞ」キョロキョロなどということは全然しないでのんきに暮らしているんですよね。つまりこういったことから彼らは危険を推論しない。つまりこのサルたちの知性の限界だという風に考えられてきました。だけど、もっと違う考え方をできるんじゃないかというのが私の立場で、つまり彼らの世界のあり方には、ガゼル→殺す→豹といったような表象の連結が存在しない。これは私はミッシェル・フーコーというフランスの哲学者の言葉を借りて「表象の脈網(みゃくもう)」、まぁネットワークですね。表象の脈網と呼びたいんですが、そういったもののない世界に住んでいるのではないか。「それは推論能力のあるなしのことだろう」といわれるとそれまでなんですが、推論能力というよりももっと世界に生きる存在のあり方が違うのではないか。

ブッシュマンの例ですが、ブッシュマンには実に「印」という言葉があります。印というのは「ツェウ」というんですが、具体的にいいますと草を結ぶんです。子どものとき原っぱで草を結んで、ほかの子が足を引っかけて転ぶのを見て喜ぶというような牧歌的な遊びをした方はこの部屋にはあまりいらっしゃらないかもしれませんが、草を結ぶ。この結ばれた草というのは、まさに自然とは違っているということにおいて印なんですね。どういうことかというと、どんなに風が吹いてもどんなに雨が降っても、自然に草が結ばれるということはあり得ないということが重要でありまして、わざわざ草を結んだ他者の意図というのをそこに感じざるをえないわけです。だけど、ただ草が結ばれているだけだったらそれは単なるいたずらかもしれないんだけれど、実は草が結ばれているという文脈というのは実に特異な文脈でありまして、ダチョウの卵の場合ハンターがダチョウの卵を見つけます。ところがハンターはそれを取ろうとしません。なぜならこの資源は寝かせておけばおくほどいいからですね。[223'26]ダチョウというのは雌が一つの巣に集団産卵することをブッシュマンはよく知ってますから、ここで寝かせておけばどんどんどんどん集団産卵されて最後には10個20個になりかねない。そのとき取った方がずっといいわけです。で、ここで印を付けるということは「これは俺が見つけたダチョウの卵だから取るな」というメッセージであります。気のむろにミツバチが巣を作っていますが、これはなんで印を付けるかというと、そのとき斧を持っていなかったんですね。斧を持ってないから木をたたき割れないので、この次斧を持ってくるまで「ほかのヤツ取るんじゃねーぞ」というメッセージであります。

ここで何が起こっているかを詳しく考えてみますと、この「ミーン」といっている飛んでいるこの虫。この虫を知覚したとたん彼らの頭の中には「ギネ」という言葉が思い浮かぶわけですが、それはあるミツバチという種を表象しているわけだし、しかもギネという概念は蜂の巣とか甘い蜜とかを表象しております。しかも、もしこの印を無視してとったヤツの足跡というのがここに残っているとしたら、足跡というのは記号論でいう自然的な指標、つまり意味されるものが意味するもの、つまり記号表現ですね。記号表現と隣接しているもの。デスマスクとかね。黒い雲が雨を意味するとか、あるいは煙が火を意味するとか、そういう風に隣接している記号を指標というわけなんですが、実はこの足跡というのは、ブッシュマンの人達は足跡からその人の顔をありありと思い浮かべることができるといわれていますから、パッと足跡を見たとたんそいつを盗んだヤツの顔が表象されるかもしれない。しかもこのことは彼らの「ツァー」という言葉、「盗み」という概念ですね。あるいは盗みという概念の背景になっているなにかを所有しているといった概念まで表象しているかもしれない。というわけで、この表象のネットワークというのは、人間的世界においては無限に近く張り巡らされているところが人間とサルとを隔てるもっとも大きな特質ではないかということであります。えぇ、もうこんな時間?[226'10]

で、この表象の繭というのは縮減することが可能かというと、この軟弱な私には絶対それが不可能であります。私がなぜカラハリ砂漠での長い生活を耐えられるかというと、それは私が、たとえば半年間の調査をするときには10冊の文庫本を持っていきます。最近は1ヶ月半ぐらいしかできませんから、できるだけ厚い小説を最低5冊持っていく。「俺も暇だなぁ」と思いながら、カラハリで延々と愛読した全ての文庫本を書き出してみようと思ったのですが、まったく記憶に空白があって半分ぐらいしか書き出せておりません。それでも膨大なものですね。1992年以降はいったいどれをどの年に読んだのかさえもわからなくなっていますが、それでもこれだけ膨大な、活字となった表象をほとんど栄養のように摂取しながら生きてきた。さっき塚本さんのご発表にずいぶん口汚いコメントを付けてからこういう話をするのも実に面目がないんですが、私のもう一つの矛盾というのは、私の仕事自体が、これからお話しする表象の物質かということに大きく依存しているということであります。

あれ? 順番からいうとどうなるのかな。ちょっと順番がごちゃごちゃするかもしれませんが、表象というのはさっきいったように、公的表象になりますよね。それを外在化というとすると、外在化には2つのやり方があって、1つが身体それ自体で外在化する。私が今音声言語を喋っているような形。これはリアルタイムのもので、この瞬間が終えたらもう消えてしまいますよね。ところが物質化というのは、たとえば写真であるとかビデオとかに定着する。私は実はこのホームビデオカメラ創生期にある科研費[228'43]に連座しまして、そのお金で当時売り出されたばかりのソニーのホームビデオカメラと、恐怖のβですが、βのカメラとデッキを買うことができました。そして日本人の自己接触行動を分析するというまことに奇妙な研究をしました。参考までに申し上げますと、そのころのビデオカメラというのはどんなものだったかというと、8ミリビデオではなかったんですね。つまりソニーのβという、VHSよりほんの少し小さいテープをそのままガチャンとでっかいポータブルのデッキに入れて、そのデッキをカメラに、それもずいぶんでかいカメラ。今日入っていたカメラほどは大きくありませんが。このでかいテープを入れるデッキというのが絶望的に重いんですね。で、その2つを携えて調査に行く。

私が当時所属していた北海道大学の学生達の調査実習の合宿とかをカモにして、これは喫茶店のシーンですが、こういった奇妙な研究を始めたわけです。たとえば女の子2人が喋っていて、1 人がもう1人が喋っている話を乗っ取ったりすると頻繁に自己接触が生じるとか。これはあとでお見せしますが、うんこの話で異常に盛り上がったときに自己接触が同調するとか。あるいは、こっちの学生さんは私が指導していた学生で、まさに分析をテーマに卒論を書こうと思って、自分の友人のめがねを掛けた学生を喫茶店に呼び出したら、彼女がなんとボーイフレンドも一緒に連れてきちゃったので、なにかここでちょっとした盛り上がりが生じているといったときの同調ですね、これ。これは完全同調と呼んでいますが、自己接触の始まりと開始がまったく同時で、ビデオでいうと、1秒間に36コマ入りますよね。その1コマの中に収まっているという、1/36秒のレベルで同調している。なんか時間がどんどんなくなってきますが、すみません、ビデオをちょっとお見せしたいんですが。本当にばかばかしい例で恐縮なんですが。[231'30][間][232'06][ビデオ設定中?]このプロジェクタから音声出てるんですかね、これ?

[野島] 出ているんですが。

[菅原] うちのプロジェクタ、もっとでかい音出るんだけど。あぁ、それでやった方がいい。[間][設定中][233'06][ビデオ始まる?]画像が出てこないな。[間][設定中][234'12][ビデオ始まる][234'51]で、ここへ私が登場します。[ビデオ再生中]今のはセクハラ。[ビデオ再生中][235'48]あ、ここが問題なんですが。今いわばお祭り騒ぎが終わったわけです。そのお祭り騒ぎが終わったあとの空白部分で非常に見事な自己接触の同調が起きている。あ、ここでストップしてください。[236'02]

そういったことに注目したわけですが、今日の発表に引き寄せて申し上げたいのは、私自身このビデオの映像というのを見て、これこそ悪夢のような世界ではないかと思ったんですね。それは、そのころ私はボブ・ショーという人のサンリオSF文庫の、そこに書いてありますが、「去りにし日々、今ひとたびの幻」というSFマニアだったら知っている有名な小説を読んで非常に感動しました。この小説のアイディアというのは実に奇妙だけど単純で、通過する光の速度を圧倒的に遅くしてしまうガラスというのが発明された世界で何が起こるかという話であります。そのガラスの、こっち側からこっち側まで光が通過するのにたとえば1年間かかったとすると、そのガラス窓をはめた家で今見えていることは1年前に起きたことかもしれないんですね。それどころかこの話がどんどんエスカレートすると、ここでベトナム戦争が出てくるんですが、ベトナム戦争でベトコンをたくさん殺したアメリカの兵士に、手術してそのスローグラスをそっくりそのままレンズ体として目に埋め込んじゃうわけですね。そうしたらアメリカ人がベトコンを虐殺しているシーンはいくら目を閉じても見ざるをえないという悪夢のような世界というのが描かれているんですね。これは時間の凍結ということなんですが、私達が過ぎ去ると思っていた出来事。たとえばさっきのばかばかしいうんこの話。あそこに登場してセクハラまがいの発言をしている私とかいうのは、物質化されると未来永劫保存されてしまうということの恐ろしさに、まず私はうたれました。それを恐ろしいと思いながら、どんどんそういう技術に依存した形で私自身が研究をしていったわけですが、特に会話分析というようなジャンルというのは、この表象の物質化ということがなければ不可能だったわけですね。なぜなら人間の日常会話というのは、日常会話に私達は巻き込まれているわけで、それを日常会話に巻き込まれながら局外から観察するということはできないし、更にいえば、日常会話は私達観察者の分析速度よりもずっと速く進行するので、それは端的に言うと録音機という発明がなかったら不可能であったと。なので私の研究というのはこういった表象の物質化というのに依存した形で進行せざるをえなかったし、それと同時にシンプル・ライフに憧れるという、根本的に矛盾した[聞き取れない][239'32]であったということをいいたかったわけです。

次に記憶という問題で、これもSFから借りますと、私がもっとも震撼した記憶のお話というのはこういうお話なんですが、まず最初にこの、こっちだな。黄緑の方なんですが、これが普通の。ただここで波線になっているのを今実線だと思ってほしいが、これ1日目2日目3日目4日目という風に見ていきます。そうするとこれが今日だとすると、明日には今日の記憶が1日分保存されていて、明後日には明日の記憶が1日分保存されているという感じで順々に、順調に記憶というのは積み上がっていく。だからこの平行四辺形を1日と思ってください。だからたとえば対角線で動かすと、朝起きました、そして夜寝ますという感じですね。ところがこの「ハイペリオン」(ダン・シモンズ)という、これ私が読んだ全てのSFの中でもっとも傑作だと思っていますが、皆さんにも読むことをおすすめしますが、別に早川書房から宣伝費をもらっているわけではありませんが、ここに登場するある女性大学院生はある惑星で遺跡を調査していて負のエントロピー波というのを浴びてしまったがために一日一日身体も脳も若返っていっちゃうんですね。そうすると、これが今日だとしますね。そうすると今日目が覚めて、寝て、そして明日目覚めたときにはこうなるわけですね。すなわちこの今日の記憶は全てイレイズされていて、ここから出発する。次の日もここから出発するという感じで、この恐ろしさはたとえばこの日にお母さんが死んで嘆き悲しんでも、次の日にはお母さんが生きていたという記憶しかないので「あれ?お母さん、どこ行ったんだろう」という感じになる。実はこの大学院生は一番最初の頃、自分がこういう病気になったということを知って、「明日のあなたへ。私達大変なことになってるのよ」という感じでビデオカメラでメッセージを送るんですね。それを順々に順々にやっていくと、私はつまり思い出の保存というのはこの罠に落ち込むんじゃないかと思うんだけど、明日のあなたへ明日のあなたへっていうメッセージを送り続けていると、ある日になったらその過去のメッセージ全てを見ることに1日が費やされてしまう。つまり記憶というのは物質化するとそれをあとで見るときに現実の時間を失うという、このことをどうするのかというアポリアがあると思うんですが、結局この大学院生はそれに絶望して、あるときから明日のあなたへメッセージを送るのをやめてしまってどんどんどんどん若返っていくという悲劇であります。[242'50]

ここでかなり難しい問題に私達は直面するんですが、つまり記憶というのは一種の表象だと。それは疑いえないことのようなんですが、ではそういったときに、表象ってなんだろうって、実はこのことを最初すっ飛ばしていっちゃったんですが、表象とはとりあえず知覚されていないものである。だから私が今見ている佐藤さんの顔が表象だというのはいかにも妙な話で、だけど私がこのみんぱくに入ってきたとき会った守衛さんの顔はどうかというと、それはもう表象になっているのか。だけど私が今ふっとこっちを向いて南さんの顔を見て、ふっとこっちを向いたら、今佐藤さんの顔を見ている私にとって南さんの顔はもう表象になっているのか。という風に考えていくと、実はこれは皆さん時間というものを考えたときにいつもぞっとされると思うんですが、まず現在というのは成立不可能でどんどんどんどん微分化していったらどこが現在かわからない。と同じように、どこまでが知覚でどこからが表象か。つまり言い換えれば、どこまでが知覚でどこからが記憶かということも区別できなくなってしまう。このことを、あれ?私入れたつもりでいれてない。このことをものすごくラディカルな形で述べたのが、東京大学に長く君臨していた哲学者大森荘蔵さんであります。私はお目もじしたことはありませんが、大森の表象主義批判というのはあまりにもラディカルでほとんど誰も支持していないと思うんですが、でもいっていることにはやはりすごいところがあって、たとえば私のオフィスは大文字山がよく見えますので、大文字山の縁から今満月が上っていくと。それを今私は見ている。だけど、この現在の知覚にはもっと上った満月、そして上りかけの満月、そういった未来とか過去とが同時に思い込められているという風に大森さんはいいます。ですから現在のこの一瞬の近くといっても、それは常に未来と過去に開かれているという形でどんどんどんどん突き進んでいくと、私達は結局現在も未来も過去もない世界。そして今知覚していることと、今私は京都の賀茂川を知覚していませんが、今知覚していることと私が表象していることとは同一の視覚で同一の身分で私に立ち現れているという奇想天外な世界になってしまう。私はこの世界像というのはやっぱり嘘。とても面白いけどやっぱり嘘じゃないかと思っていて、それはやはり身体的な連続性ということがあまりにも無視されていて、記憶というのを頭の中の表象それ自体に還元してしまうから、こういう突拍子もない話になるんじゃないか。というのでブッシュマンにおいて記憶とはどんなものかというのをちょっと駆け足でお話ししたいんです。

この話、最初にお断りしておきたいのは、この題自体が「図像と映像で追うカラハリの記憶」ってなんとなくもう全部終わっちゃったことみたいでちょっと寂しい感じがするよねぇというのは故のないことではなくて、実は私達がずっと調査を続けていた定住地「カデ」というのはここにあるんですが、この巨大の動物保護区から住民全てを追い出すという政策が強行されて、1997年に移住してしまい、今はこのニューカデという非常に殺風景なところに今暮らしていると。いうので、いわゆる伝統的な生活というのは致命的な形で失われてしまったということに対する痛みが若干センチメンタルな題名になっています。[247'31]

ブッシュマンとは誰か?とかいう教科書的な説明があるんですが大幅に省いて、一つ重要なことはクリック言語という音韻論的には世界で2番目に複雑な言語を話すということですね。それから伝統的な生活というのは狩猟採集であったと。これ植物色の、重要な植物性食物[247'59]の写真ですが、一番重要なのがスイカのようなというか、スイカの原種だといわれていますね。それから狩猟の方ですが、伝統的には毒矢猟をしていました。それから小動物を取るのに欠かせないのは、この羽罠ですね。それからもう一つは、この長い竿使ってトビウサギを引っかけるトビウサギ猟です。ちょっとこの男性に注目してほしいんですが、この人を撮影したとき1983年、82年から83年にかけてで、当時17歳の少年。青年になりかけ。私のもっとも信頼する調査助手にその後はなりました。

ここでせっかくビデオを編集してきたので、またざっとビデオをお見せしたいんですが、ちょっと申し訳ないけど5時半ぐらいまでかかるかなぁ。このビデオなんですが、これは今回私研究会に招いていただいて遊んだおかげでとってもよかったと思うんですが、実は一番最初に普通の8ミリですね。普通の8ミリって皆さんわかりますか?つまり映画のフィルムのようなテープ、いわゆる16ミリシネカメラって有名ですが、8ミリシネカメラです。それで写したものを、当時、それを徹底的に編集したんですが、それを北大の図書館でそれをβに写し直してくれるというサービスがあったので、それをβに写したヤツを持っていて、それを十何年ぶりに今度初めて見て、あ、これが私が最初に使っていた恐るべき古いテープですね。[250'07][ビデオ始まる]

で、私達が毎日食べているトウモロコシのおかゆカレーみたいなものですね。それからあの人、真ん中の人、この人の頭はどうなってるの?と思うかもしれませんが、これはこの80年代にはまったく珍しくなかったしらくもですね。しらくも。筒井康隆の小説ぐらいにしか出てこないような疥癬しらくもの類ですね。

[塚本] なんですか?全然わからないんですが。

[菅原] しらくもって頭にある種の真菌類が生えて、ああやって禿げて白くなる。あ、ここからちょっと長く、騎馬猟に。これ最初の定住地なんですが、定住化して毒矢猟ができなくなったので、政府がその見返りとして馬で狩猟することを許して、これから騎馬猟に出発する前のシーンがちょっと続きます。次に出てくるのが、さっき私がいったまだ17歳当時のタブウカです。これじゃなくてこのあとですね。あ、これです。まだ実に若々しいですが。これどういう文脈かわかりませんが「俺自身も無能だ」といっていますね。「俺自身も能なしだ」といって、それをもう一人の人がまた復唱している。ちょっと格好いいカメラワークでしょ。自画自賛してもしょうがないですが。

[不明] 犬が結構いるんですね。

[菅原] あぁ犬はたくさんいます。犬は家畜と言っていいのかわからないけど、人間とつきあう歴史の一番長い動物ですね。彼らいろんな動物を食べますが、犬は絶対に食べません。それから馬も食べない。それからロバを食べたという話は一度あった。これがレイヨウ類で一番大きなエランド。本当に馬ぐらいもある巨大な動物。これからこのエランドの解体シーンが始まりますので、残酷なことがお嫌いな人は目を背けてください。ここで使っているナイフは、いわゆる軟鉄でただ鉄を叩いただけのものなんですが、こうやってみると結構よく切れますよね。

[安村?] これしとめたのはどうやってしとめたんですか?

[菅原] これは騎馬猟でしとめたんですね。だからさっきどれぐらい太ってるかな?みたいに、胴体をグイグイってやっていた人がいましたね。あの人が騎馬猟の達人で、あ、今一番左にいた赤いシャツを着た人ですね。今ナイフをふるっている人です。彼は騎馬猟の達人で、で、

ここから何をお見せするかというと、これは1989年。私の会話分析が一番脂を乗り切っていた、日常会話の分析で。で、もう89年になると、あの初々しい少年だったタブウカはもうずいぶん、24歳だ。彼はこの年に結婚をしています。ああやってテープレコーダーからいちいち1センテンスごとりプレイしながらタブウカ青年に復唱する。そしてこれがなんと2000年の8月。これをお見せしたかったのは、あんなに黒いひげだった私がなんという白ひげじいさんになってしまったのかということと、同じように目の前に座っているタブウカが、もういくつになったんだ、彼は当時17、プラス、22だから39歳のおっちゃんになっちゃったんですね。[255'02]その感慨を皆さんと共有したかったというか。

[安村] 撮影もDVですか、これは?

[菅原] だからまぁ画質がどんどんよくなっているのがおわかりだと思いますが、これはもちろんDVですが、89年のはいわゆる8ミリビデオカメラですね。Hi8。Hi8で撮影したものをまたデジタル化したものです。ちょっとここのシーン長くて恐縮なんですが。で、ここで説明しているあの真ん中のカアカという青年、彼はタブウカより5歳ぐらい若いんですが、彼は言語能力が非常に発達した人で、このカアカの説明の身振りを見てほしいんです。身振りとか顔の表情ですね。あれ、最後「見る」という単語ですが、目をむいて「アマモウ」彼を見るといっていますね。あそこら辺すごい面白い。

で、この今のシーンというのは実はこの語りを彼らが説明してくれていたんです。これおばあさん二人の語りですが、テーマは今から半世紀以上も前に大流行した天然痘、スモール・ポックスですね。天然痘で人がどれだけたくさん死んだかというのがテーマです。ですから、ああいう風にやっているのは、天然痘の発疹のこと。「今でも残っているでしょう」といっているんですね。天然痘にかかると、横向きしか眠れないというんですね。なぜなら仰向けに寝ると、これ本当かどうかは知りませんよ。目の中に発疹ができて、それを目をさして目が見えなくなってしまうので、どんなにしんどくても横向きで寝ていた。それからそのあと非常に独特な身振りが始まるんですが、それは砂を押さえる。あぁ、ああいう感じですね。これは水疱瘡とかになってもそうだと思うんですが、それからひどいじんましんになったときもそうですね。出てきた発疹がどんどんどんどんつながっていっちゃって皮膚一面が発疹になるというのは、砂を押さえてやっていて。そしてそれがまたポツポツポツになったら、こういう身振りをしましたが、「治った」。生き延びたと。だけど発疹が全部つながった状態で、それがボツボツににならなかったらもう死ぬというような、非常に凄惨な語りで、なんかカラハリのギラギラした日光の下で疫病の話をされるとある種のミスマッチがあって非常に印象的でした。

で、図像ということですが、私は、これは何年のだろう?1987年頃から子ども達に、息子2人に一生懸命絵本を描いて送っていたんですね。これは街で画用紙と色鉛筆を買ってきて、色鉛筆でせっせと色も塗るので大変な時間がかかって、途中で何度もしんどくなったんですが、これぐらいしてやらないと長い不在の間とうちゃんは忘れられてしまうのではないかというような恐怖で、せっせせっせと、もしみんながブッシュマンだったらというお話というのを書き送りました。これがそのまま「もしみんながブッシュマンだったら」という本の題名になったんですね。これは本には全然載せなかったんですが、一生懸命書いた作品の最後の方ですね。要するにうちの息子2人を思わせる少年、兄弟が猟に出て道に迷って夜焚き火を焚いて寝るんだけれど、周りにはうようよと猛獣が出てきて、やせこけたアバ君という、アバというのはグイ語で[259'46]「犬」という意味なんです。アバ君が頑張って守ってくれたという。で、雨期になって雨が降ってめでたしめでたしというような絵です。

これは面白いことにカラハリには「ウサギとカメ」によく似た「リカオンとカメ」っていう話があるんですね。あれはもともとはイソップ童話なのかな。「ウサギとカメ」では天狗になるとダメだよという教訓ですが、この話ではいかにもブッシュマン的で、なんでのろいカメさんがあの足の速いリカオンに勝ったかというと、実はカメさんはこの競争の前日に広い地域にいる親族達と打合せをして、そしてリカオンの行く先々にいる親族達が「僕はここだよ」といってリカオンをだましたという。私はこういう話を絵本にしたりすることにかなり熱中して、だから今こういう図像が残っているわけですが、これははっきり言ってこの図像を作るということは私の子どもを喜ばせるという非常にはっきりした目標があったんですね。実はこの物質化された表象というのは、そのころの私と私のまだそれほど大きくなかった息子達との関わりという、そういう感情生活の中に埋め込まれているわけで、こういう物質化された表象に注目するときにいつも抜け落ちてしまうのが、それが埋め込まれていた感情生活の流れみたいなものが失われてしまう。それはつまり記憶を表象に還元することによって、身体的な現実というのを忘れてしまうのでは、そこに罠があるのではないか。

レジュメに唐突に初恋の人の記憶を書きましたが、たとえばこれもこんな場だから初めてお話しするという話ですが、私は中学3年の時に2学年下の女の子に強烈な初恋をしたんですが、それの凝縮されたシーンというのは、ある冬の朝急な坂道を下るときに前に女の子がいた。もちろん中学校の制服を着てね。通り過ぎようとしたら向こうがくるっと振り向いて、それが生物部の2年下の後輩の女の子で、彼女が「おはよう」といって私は全身を電気が[笑]走り抜けてどっと恋に落ちたわけですが、こういうのは私の中に一つの表象としてくっきり残っているかのように感じられるんですが、でもその表象をフェティシズム的に物心化したときにやはり失われる多量のものがある。それはたとえば中学3年生で受験を間際に控えていた私の不安であるとか、あるいはそれよりもっとずっと前に性に目覚めていたとしても、オナニーを覚え始めていつもそのことに罪悪感を感じていた感情生活の流れとか、そういうものが実はそのどっと恋に落ちるという経験をおそらく非常に複雑に取り巻いていたのであろうけれど、今私がその初恋の話というのを今いったような表象に還元していったときに、後者のようなことはそぎ落とされるという、この罠に注意を払わなければならないということ。

あとはもう駆け足で。[263'59]それではグイの人達。つまり自らの身体以外に記憶を外在化する手段を持たないという風に規定します。ここの社会においては図像表現というのもいっさいありませんでしたから、もっというと記憶を物質化する手段をまったく持たない人達がどうやって身体だけで記憶を外在化したかという問いかけになります。一つが個人名であります。彼らは新生児が産まれた頃の印象的な出来事にちなんで個人名を付けます。主に父親が付けます。すると、そしてこれは身体的な行為として常に人は人を呼ぶわけですが、その人を呼ぶということの中に過去の出来事が刻印され喚起されるという仕掛けになっている。

その逸話の累計を分類したのがこの表なんですが、面白いことに、この黄色で示した、「ザーク」というのは彼らの社会に非常に広範に張り巡らされている婚外の性関係です。日本では不倫というような変な言葉がありますが、その婚外性関係にまつわる葛藤が圧倒的に多いんですね。夫婦の争い、その他の社会的葛藤、経済的紛争まで合わせると40%以上になる。つまり争いにまつわる個人名がすごく多くて、それ故私達が理想とするような、個人名というのはめでたい意味であるとか、肯定的な意味であるとかいうことのまったく逆が起きるわけです。たとえばこれが私のとても親しい家族の個人名を日本語に訳したものなんですが、ご覧のように殺伐とした名前ばかりですね。まぁ2つだけいいますと、この「山羊」という人。山羊さんというのは、なんで山羊という名前が付いているかというと、この人は今もう最年長者ですが、もう80を超えていますが、彼のお父さんが昔バンツー[?][266'22]系農牧民が飼っていた山羊を盗んで喰っちまったというそういう逸話です。まぁ大同小異です、エピソードは。

この「ナイフを研いである」のを説明しますと、この山羊の奥さんが「罠の呪薬」というんですが、この罠の呪薬さんは非常にいってみると性悪女で、性悪なって言葉があるんですが、性悪女で少なくともこれぐらいの婚外性関係で、しかもそこから何人もの子供を産んでいるわけですね。だから山羊さんは罠の呪薬さんと結婚してから自分の子をまったく持たなかったという風に人々はいっています。そして、たとえば1961年生まれのこの人ですが、この愛人が、山羊が家に帰ってきたらちゃっかり小屋の中にいたんですね。で、山羊はムッとしてこれ見よがしに小屋の外で石でナイフをじょりじょり研ぎながら「おまえ早く帰れよな」と、「早く帰らないとこのナイフでおまえのお腹を裂いちゃうからね」といって脅かしたという逸話にちなみます。それから「隠して寝取る」。これは、隠して寝取るの種となったこの男「殴り襲う」という名前の男ですが、彼は非常に長い間関係を結んで2人の女の子を産ませたんですね。一番最初のときに彼の奥さんが「あんたはあの女を寝取りながら、それを私に隠してるでしょ?なんであんたはそういうことを隠すのよ」といってなじったという話がこの界隈で評判になって、つまりけだし名言というのが名前になるわけですね。でありますから、しかもここで恐ろしいことに、彼らは既婚者に対しては比較的丁寧な言い方として「誰々のお母さん」とか「誰々のお父さん」という、いわゆる人類学用語でテクノニミーというんですが、それを使いますから、いったん長男に「ナイフを研いでやる」と名前を夫が付けちゃったら、その奥さんつまり母親は一生の間周りから「ナイフを研いでやるのお母さん」と呼ばれ続けるわけですね。ここには夫婦の歴史も反映していて、実は山羊さんはそれより前に死別した先妻がいます。その先妻の娘が「コヌシ[?][269'03]が見あたらない」なので、山羊さんをテクノニミーで呼ぶと「コヌシが見あたらないのお父さん」。で、ここでその夫婦の歴史というのが見事に個人名の中に織り込まれるというわけです。ちなみに私の長男は「豊」なので、私は「豊ムコウベ[?][269'21]」豊のお父さんという風に呼ばれています。

それからもちろんもう一つの記憶装置。記憶の外在化は延々と過去のエピソードを語るということなんですが、それを支える非常に精密な言語学的な装置の話をいたします。それは人称代名詞であります。人称代名詞というのはこういう風に4つの次元を持っているわけですが、詳しいことは省きますが、日本語や英語ではこの人称代名詞の4つの次元というのは実に不完全にしか実現されていなくて、たとえば彼らといったらその「彼ら」とは何人かわかりませんよね。「彼女ら」といっても何人かわからないし、それから「あなた達」といったってその性別がどれくらいなのか人数とか全然わかりません。ところがブイ語の場合はそれがほとんど完璧にわかるようになっていて、まず数は単数と2人だけと複数と3種類あります。そしてたとえば一人称複数の「我々」というのは聞き手を排除するか、話者を排除するかというような区別があって、しかも性が全部違うので、この「アッカ」というのは聞き手も含む「俺たち男3人以上」ですね。「アッキャ」が聞き手も含む「我々男女3人以上」。たとえば「アツェビ」は聞き手も含む「俺たち男2人だけ」とかね。まぁこんなこといちいちいっていてもピンとこないので漫画をお見せしますと、これが二人称総数と複数ですね。青で描いたのが総数。つまり2人だけですね。男2人の君達が「イツァオ」で、女2人のあなた達が「イサオ」で、男女一対のあなた達が「イカオ」。女3人以上が「イザオ」で、男3人以上が「イッカウ」、全部含めると「イッキョ」という風に、あなた達という二人称はこれだけの種類がある。

もっとすごいのは一人称総数と複数における聞き手の包含と排除というヤツで、ここで赤で描いたのは聞き手それ自身も含んでいる。「アケビ」といえば僕と君男女2人だけという意味になります。これを日本の飲み屋で使えると「ねぇねぇ僕と君の男女2人だけでどこかに消えちゃおうよ」とかいうのが実にお茶の子さいさいなんですね。日本語にこういう人称代名詞がないというのは実に不便なことでありまして、これも全然プランなしに描いていたらだんだん紙が足りなくなって最後の方女性ばっかりのがずいぶん小さくなっていますが、別にこれは私が男性中心主義者だというわけではなくて偶然なことです。こういったきわめて精密な言語学的装置というのが彼らの過去語りの解像度というのを大きくあげることに貢献していると思われます。しかもこれは三人称というのがそのまま接尾辞として利用できますのでこういうことになります。あれ、なんで三人称単数って書いてあるんだろう。単数に限らず、三人称単数総数複数の語尾が性と数を表す接尾辞になりますので、雄ライオン1匹だと「ハンビ」で、「ハムコラ」といえば雄雌1頭ずつのライオンですね。それから「ハンジ」といえば雌だけ3頭以上のライオン。「ハムプ」といえば雄だけ3頭以上といったようになります。

ちょっとここから先はもう私の中公新書に書いちゃったことだし、もう時間もないのでほとんどとばす形にしますが、あぁ、そうか。どういうことかというと、ある悲惨な出来事ですね。それを彼らが今語るときに何に着目するかというと、そのとき彼らが、この夫婦がこういう姿勢で座っていたんだよというようなことに非常に着目するわけですね。[274'26]つまりライオンが小屋からのぞき込んだんだけど、この奥さんの方はこういう姿勢でいたのでライオンに気づかなかった。夫の方はとても愚か者で、なんとライオンが小屋からのぞき込んだのにそれを犬と見間違えたというような信じがたい失策をして、しかもライオンが飛び込んできて奥さんの肩にかじりついたのを別に大声を上げもせず、必死になって引き離そうとしてぐるぐる小屋の中を回るばかりであたら時間を空費したと。奥さんは結局のところ出血多量で死んでしまうんですが。といったきわめて不条理としか言えないような事件。これはずいぶん昔に起きた事件なんですが、それを語るときにその語り手が、まさにこの座り方に着目した語りを行ったということから、私は身体配列という概念をたてて、その身体配列を認識することが彼らの出来事の理解とか説明のコアをなしているのではないかという議論をしたんですね。しかも私にその語りを聞き起こしを手伝ってくれていた2人の調査助手が期せずしてまた同じような身体配列を再現すると。こういったことから、私はこの身体配列という概念を拡張していったときに、もう一つの悲惨な、語り手「ムエクピュエおじさん」のお父さんが雌ライオンに殺されたときの語りというのを分析したら、そこに別の形の身体配列を見いだしたという話なんですが、ちょっと最後にもう一つのファイルをお見せします。[276'42][ビデオが始まっている様子]この中央の人が語り手なんですが、語り手が演じたことの様子なんですが。で、左側が調査助手カアカなんです。まずああいう身振りで、尻と尻をくっつけるというような実演をし始めて、そこへタブウカがわざわざああやって砂の上に横たわり、そして語り手もこういう感じで延々と再現するという。この場面に私は非常に感動しまして。

次に、これが次の話。このムエクピュエ氏のお父さんが、彼がまだ青年時代にライオンに殺されたという話なんですが、これを私はたまたま1994年と96年2度彼が同じ出来事について語るのを収録できました。これが94年バージョンですね。時間がないので急ぎますが。これと、あれ?おかしいな。今の語りが表象しているのと同じ場面をいっているのが?あれ?もうこうなっちゃうのかな。変だな。それがこっちか。なんか変だな。まぁいいや。で、実は2つのバージョンを比較すると、同じ出来事を語っているということは直感的には明らかなんだけど、実はセンテンス単位で1対1対応させていくと似ても似つかないということが発見されました。つまり文章、発話分それ自体は大きく変わっているんです。ところが2つのバージョンを比較してほとんど変わっていないところがあった。それはお父さんを探しに行ったら2人の男、つまり語り手ともう一人とが雌ライオンに襲われて必死になって逃げるんですが、語り手がずーっと先を逃げて、もう一人の男が「俺を待ってくれー」という風に叫ぶというシーン。これ英語で発表したものなので。「俺を待て」。バージョン1は「俺を待て。おまえは俺を捨てるのか。俺を待て。俺を。俺を待て。」ですね。バージョン2は翻訳すると「俺を、俺を待て。おまえは俺を捨てるのか。おまえは俺を捨てるのか。おまえは俺を捨てるのか。」ですね。3回いってますね。違う違う違う。「おまえは俺を捨てるのか。俺を捨てるな。俺を捨てるな。そして俺に耳を傾けろ。」ですね。ちょっと原音を出してみますと。[280'14][ビデオ原音]で、バージョン2ですが。[280'24][ビデオ原音]こういう感じです。

ここで強調したいことは、彼らの社会では過去の出来事というのはこんな風に、人類学者に対してだけでなく、彼らの間で繰り返し繰り返し反復されていると思います。その反復されているものの中で一番変化しにくいもの、今の場合は直接話法による「俺を待ってくれー」という再現でありましたが、そういった変化しにくい部分というようなものの、いったい出来事のコアになる身体配列というのはなんなのかということを探る手がかりになるのではないかというようなことで。うわぁ、ごめんなさい。ディスカッションの時間がどんどん。これでスライドは終わりなので。

あまりにも散漫なまま終わるのもなんなので、最後に一言だけまとめをしておきます。最後はどこなんだろう。4ページ目にかなりごちゃごちゃした議論があるんですが、今日の研究会に合わせていうと、最初に夢の話をしましたが、私が強調したいことは過去の思い出とか記憶とかなんでもいいんですが、それを人に対して語るという行為それ自体についてなんです。それは、夢について考えれば一番わかりやすいと思うんですが、今日は私は敢えて夢の話をしましたが、たとえば私が大学に行って朝一番の講義で学生達に「いや、今日こんな変な夢見たよ」とかべらべらべらべらその夢の話を15分もしたら「あの先生頭おかしいんじゃない」っていわれかねませんよね。つまり夢語りというのは彼らにとって私がそんな夢を見たということはなんら関連性を持たない。意味がないということですよね。ところが同じ夢語りが精神分析医のオフィスに行ったら「今日どういう夢を見たかちゃんと話してくださいよ」という形で精神分析医からはとにかく見た夢を言え言えとけしかけられる。ということは私の頭の中にしかない表象について語るという行為それ自体が一つの制度的支配のもとにあるということが非常に重要だと思われます。記憶とか思い出とかいうこともまさにそうであって、私が記憶や思い出を語ることができるのは、それを聞くもの達にとって意味のある文脈においてであるということですね。すなわち社会人類学的に考えたら、記憶とか思い出というのは私の頭の中に固定的なテキストとしてあるのではなくて、ある相手に対して意味あるものとしてそれを語るという行為それ自体に置き換えて考えなければならないというのが最終的に主張したいことなんです。そのときに決定的な分かれ目が、私が語る出来事というのが、その極北[?][284'49]が夢ですが、私の単独経験なのか、それとも複数の人と共に経験した共同経験なのかというところに大きな分かれ目があります。おそらく単独経験を語るということに対する制度的制約の方がずっときついと思います。複数の経験であったら複数の経験であることによってそれ自体社会的な意味を持ちうるからですね。だけどそこで問題になるのは、いったい私とほかの人達、何人でもいいんですが、私とあと5人の人達がある出来事を経験したとしますよね。だけど私達がみんなそれぞれバラバラのパースペクティブを持っていて、バラバラの利害関心を持っていて出来事を経験するんだから、いわゆる今では英語にもなっている羅生門エフェクトというのが働いて、それが本当の出来事だったのかなんてどうしてわかるの?という懐疑論というのはいつまでもつきまとうと思うんです。

そういう懐疑論を突破する一つのコアが、私が呼ぶところの身体配列ではないかと。実はブッシュマンの人達はこの身体配列を把握する能力にとても長けた人達だと思うんだけれども、実はこの能力というのは人類に普遍的に分け持たれていたもので、ただ私達の近代が非常におかしなことをしたのではないか。つまりそれは身体配列に基づいて出来事を理解するというこの能力を、セクシャリティという領域にのみ切りつめるという制度化を私達の近代はいつの間にか行ったのではないだろうかと。私のやや啓蒙的な主張は、身体配列に基づいて出来事を理解するというこの能力をありとあらゆる出来事の理解、その極北としての、私達の世代はすぐきな臭い話にしてしまうのですが、極北としての強制収容所とか、革命動乱といったものも身体配列にさかのぼって理解する能力を回復すべきであるという主張であります。なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、最後に一言だけ。

私が数年前に山登りをしようと思っていたのに、つい麓の温泉でNHKのテレビを見てそれがあまりにも強烈で眠れなくなって翌朝すごく消耗して、山に登ったときは消耗して大変だったという話なんですが、それは何を見たかというと、広島の記憶を、そのとき生き残った人が広島で何を見たかというのを絵にして残そうという運動というのを見たんです。私はその絵の稚拙なだけに、その絵が持っているあまりのすさまじさというのに圧倒されて夜眠れなくなっちゃったという記憶が、今のようなちょっと妄想的なことをいう背景にはあります。ほかにもクロード・ランズマン監督の「ショアー」の床屋の話とかあるんですが、時間もありませんのでこれで切り上げます。すみません。長くなって。[288'29]




討論3

[佐藤浩司] ありがとうございます。時間がないか。ほかでは滅多に聞けないような。画像も初めて見るようなものが。時間があまりないのですが。遅くとも6時15分ぐらいにはここを出たいんです。15分ぐらいしか。もうちょっとありますか。

[菅原] 25分ぐらい。

[佐藤浩司] 25分ぐらいしかディスカッションの時間ありませんが、いろいろ聞きたいこと等あると思いますので考えておいてください。ちょっと私からこのあと[聞き取れない][289'09]実は記憶と思い出は違うのではないかという議論は、この研究会の初めの回からありました。いくら記憶していても、それを想起の対象にする、あるいは将来に結びつけることがないのであれば、それは意味のある思い出にはならないのではないかという確かにそういう議論がありました。前回きていただいた美崎薫さんという変人がいらっしゃるんですが、自分の持ち物を全てスキャナで取り込んで、それが50万枚でしたっけ?それを毎日朝起きてから夜寝るまで、8秒間に1回でしたっけか?

[野島] 2秒間に1回。

[佐藤浩司] 2秒に。見ている。50万枚見終わるのに大体1ヶ月ぐらい今かかるんだそうです。毎日毎日それは追加されていくので、それは次々と増えていく。そうすると彼の対象は完全に自分自身ですよね。ところが自分自身かというとそうではなくて、その対象とされている自分自身の中に彼は世界を取り込んでいるから、というか世界を信じているから、実は彼は自分自身を対象にしているようでそこから広がっていく世界を対象にしている。他者を対象にしているんですね。そういうやり方、そういうことも可能なのかなと思ったんですけど。

今現実に我々が見たり聞いたりすることは2テラバイトのハードディスクがあると全部記録できるんだそうです。そうなったときにじゃぁ果たしてそれを意味のある思い出にできるかという議論が一方でありますが、私自身はそうなった時に果たして記憶とか思い出とかいうことそのもの、あるいは社会そのものがやはり何か変質していくのではないか。それをどういうふうに理解するかということが興味があります。それから今日のお話に関係していいますと、自分の夢というのは他者にとってはほとんど意味のないものである、確かに。[291'02]だけど自分の夢を語ることは自分にとって面白いというのがある。今現実にこの世の中で自分自身のことを語るということが流行になっている。[ 聞き取れず]がなされている[291'14]。そのことをどう理解していくか。どう肯定的にとらえていくか。自分自身にとって楽しいということを、それを否定する理由はどこにあるかということですね。それをどう生産的な将来に結びつけていくかということは、この研究会そのものが抱えている初めのテーマ、想い出という本当の個人を対象とすることをどう意味づけていくかに関わるんだと思います。と思っています。今コメントいただければ。

[菅原] あぁ、はいはい。

[佐藤浩司] とりあえずほかの方の、

[菅原] 自分のこと。自分自身という話ですね。やっぱり私今すごい流行は「自分探し」とか「本当の自分」とかというテーマだと思うんです。それは端的に言うと実に浅はかだというのが答えだと思うんですが、それはいわゆる認知科学の中の身体化された心の理論、"Embodied Mind"という本が日本語にも訳されていますが、あれなんかが主張しているように、自分というのは私達が自分だと思っている自分というのは、巨大な身体化された心の本の氷山の一角で、実は私達の存在を支えているのは膨大ないわゆる認知的無意識というやつで、その認知的な無意識の流れを、なんだろう。自分の実践の中でそこと巡り会うことが重要であって、小さい自分のことにくどくどこだわってもしょうがないんじゃないのというのが彼らの主張だと思うんです。私はその主張に深く共鳴するのですが、ただ実際にそういう身体化された心を取り戻すために、私達の実践の中に取り戻すために何をやれというと、彼らはそこで神秘主義に走っちゃうんですね。つまり禅の瞑想こそがという話になって、そこで私はとても失望して。だから禅の瞑想が、身体化された心を取り戻す一番の手段だとしたら、もう仏教が発明されてから何千年もたつんだから人類はずっともっと昔からマシになっていていいはずなのに実はそうじゃないというのは、やっぱりそういう宗教的瞑想とかいう話にどんどん落ち込んでいくところに私はある種のプチブル的限界があるんじゃないかと思う。だからもっとありきたりの世俗の実践ですね。労働であるとか。そういったものの中で身体化された心を取り戻すということの方を考えなくちゃいけないんじゃないかと。

それからもう一つ。夢の話で言い忘れたことがありますが、実は私はあの夢日誌を一人で孤独につけていたわけではなくて、私の親友、彼も人類学者になっていますが、というのは私以上の途方もない夢想家でして、私はノートにつけていないと覚えていられないんだけど、彼はくっきりと覚えているという特技を持っていて、しょっちゅう熊野寮から私の住んでいる遠くの一乗寺下り松の下宿までのそのそ歩いてきては「こんな夢見たよー」とかいって喋るのを聞くのが私にはこよない楽しみだったんですね。でありますから、夢のことをいつも喋れないというのではなくて、夢を喋るのが好きなやつと独特な友人関係であるというようなことが私達の社会性の一つの可能性の幅としてあるわけ。そういったことがおそらく私達の人生を生きるに値するものにしている一つの、まぁそれは普通に友情といわれるものだけど、もちろんそういう可能性はある。ただ一方で、今日はずいぶんいろんなことを言ってしまいそうなんだけど、何年か前に私が完璧に振られたある女性が、私の長い語りにげんなりして通告したことがあるんですね。それは「私は自分の尊敬する高校の先生がいったことを今でも覚えているけど、自分のことを自分の言葉で語り続ける人間は卑怯である」といわれて、私は頭から全ての血が引いたような感じがして、それ以来かなり真剣に自分のことを自分の言葉で語る資格を私達は持っているのだろうかということについて考え続けて入るんですが、でも怖い言葉ですね。[296'33]

[野島] 自分探しの話というので、神秘主義にいっちゃうのは浅はかだって、でもたとえば僕なんかも「野島さんはいいわね。好きな研究しててね。好きな話していて、お金もらってハッピーですよね」って話ですよね。それは先生もある意味で言うと自分探しをして、それでアフリカに行って、本を書いて、みんなが「面白い本ですね」といってくれる。だからそれはある種の、自分探しが社会のある意味でのエスタブリッシュメント的な価値観に上手くマッチした希有な例ですよね、そういう意味でいうと。そうすると、浅はかな話っていうのはいろいろあると思うんですけど、たとえば一生懸命自分磨きっていってステップアップっていって結局は上手く使う・使われたみたいなことになっているということがある。でもそうするとそういう新しい場面での自分探しが浅はかに陥らないで、ある意味でいうと友情というのかもしれないけれども、でも友情ってお互い同士で「うん、君のいっていることわかる」「あなたいっていることわかる」っていっていてもそれは全然外には開かれていかない話ですよね。とするとそこのところで今のごく普通の名もない主婦であるとかは、名もない普通の働いている人達というのが、それが正しく、正しくというか、自分探しをするような価値観の体系とか、それを裏書きするものというのはどこにあるのかとか、そういう話というのは文化人類学とかそちらの方からは何か出てくるんですか?

[菅原] はいはい。発表でどこかでエクスキューズしたように、私の立場というのはとても矛盾に満ちていて、いい気なことをほざきやがってとおっしゃる人も多いと思うし、私自分の書いたものを教科書に指定してレポート書かせたりすると、元気のいい学生はすごく口汚くその欺瞞性を摘発したりするので、それに対してまっとうな答えはないといえばないんですが、でもやはり私は試金石としての我がグイ・ブッシュマンのことをつい思ってしまうんですが、それは子供を作ることができない今の日本と比べてという話で考えると分かりやすいと思うんですが、具体的に私達の社会が落ち込んでいる一番の問題はやっぱり核家族への閉塞ということだと思うんですね。しかもその核家族に閉塞していることと、他者から自分を差異化することによって生み出される商品価値ということとがジョイントしているから、その競争に敗北した人はもう救いを求める回路は全部遮断されていて、引きこもったりなんやらかんやらということがあると思うんですね。だけど、いわゆる私達が伝統社会と過小規模社会とか呼んでいたものには、たとえば子供を別に核家族だけで育てるわけではないというような、たとえば女性親族同士の強固なつながりであるとか、あるいは弓矢猟の達人だからといって決していばらないというような、簡単に言うと権力の無化ですね。権力の集中を常に脱臼させるようなさまざまな文化的仕掛けだとか、そういった形で人間が普通に生きることの偉大さというのが別に口で言わなくても最初からわかっているというところは私達の社会の中でもたぶんある形では回復させられることだと私は思うんですけど。

それともう一つなんだっけな。そうだ。さっき安村先生の質問に答えることができなかったのでついでに今申しますと、ただ私は一方で昔はサルをやっていたので人類進化というのをかなり長いスパンで考えるという癖もあるんです。そうすると人類の進化というのは決定的な限界を持っていて、それはSFめきますが、私の意識が一応私の頭蓋骨の中に閉ざされているということだと思って、だから人類進化論SFっていうのはいくつもあると思いますが、どのSFも人類進化の次の段階としてねらっているのは意識の融合ですね。Aの意識とBの意識が融合するという。これは普通の形での霊長類の進化ではもう決してありえないことなのです。だから自己他者関係あるいは自己と他者をどう差異化するか、どう独自な自己を見つけるかとかいった問題全てがやはりホモサピエンスの根本的限界の中でしか解決されないことだというのが肝に銘じておかなければならないことだと思うんです。[303'03]

[安村] すみません。先生のスタンスはすごくよく分かるというか、非常に明快なので切り込みたくても切り込めないという理由もあるんですけれども。だからもうブッシュマンのスタンスが、近代でいうといろいろぼろぼろなところがいっぱい見えてるわけですね。でもたとえば逆の見方からすると、先生もチーム[?]、たとえばDVカメラを使われたり、そもそもスケッチして描くという、もう道具をお持ちなわけですよね。彼らがそれがないだけにピュアにそういう身体動作が伝わっちゃうんだけれども、我々はもう近代の道具が周りにあって否応でもなく使ってしまうときに、そのことによって人間の意識とかが変わってくるんじゃないか。だから先ほどの表象化手段でいうと、たとえば今インターネットで日記を書く、ブログとかそういうのも出てきていますから、そうすると従来日記は自分しか見ない、まぁせいぜい死後とか限定された人しか見ないのが、日記を書くという行為を通じて、身の回りには理解者は誰もいないんだけれども、インターネット上では「あいつ変わったやつだなぁ」というだけではなくいろんなコメントが返ってくると、その中で自分と他者というか、あと新しい関係が生み出されているような気がするんですけれども。そういうことに関してはどういう感じで思われるんでしょうか?

[菅原] どうなんでしょうねぇ。そうか。さっきお答えしようと思ってお答えしなかったことをまずいっておいた方がいいのかな。今私は結局のところ、異なる意識が融合するということがない限り人類進化というのはやはり、まぁいってみれば最終的に大きな上限を背負って、そこで自己他者関係というのを考えるしかないといったんですが、それとちょっと違うイメージがいわゆるサイバーパンクだと思うんですね。イメージ的にいったらここにソケットつけて、サイバースペースと融合し合う。そうすると自己の境界というのがものすごい拡大しますよね。そこで私は面白いと思うのは、たとえば「JM」という映画では、そのサイバースペースを読む時にまさに身体動作でそれをやるんですね。そのサイバースペースを開くこととか、それが全部身体化されたものとして表現されているのにとても愉快さを感じたというのが一つ。それから先ほどの塚本さんの発表をお聞きしていて「あ、あれやん」と思ったのは、最近の映画で「マイノリティ・リポート」というので、まさにこうやって操作していましたよね。だからそういう原理的にはここにソケットを付けてサイバースペースと融合するということはおそらく可能だと思うので、そういう意味での意識の拡大、そういう意味での考えもしなかった社交の可能性といったようなことは、もちろんそれほど空想的ではなく考えることはできるんですけど。

[安村] ものすごくブッシュマンとは違うタイプ[聞き取れず][306'28]、サイボーグってありますよね。もうチップを埋め込んでしまう。だからレアルの先はもうサイボーグだといわれているんですけど、もう実験でそれをやっている学者もいるんですけども、でも一番ウェルカムで歓迎しているのは実は障害者なんですよね。障害者ってどうしようもなくコントロール効かない時はそういうことをやってでもいいから、自分の身体機能を回復したい、あるいは記憶をよみがえらせたい[?][306'50]ということだと思うんですね。だからそういう人達がいるってことはやっぱり心の片隅に残しておかなくちゃいけないかなぁと思うんです。

[菅原] はいはい。だから別に私、何を持ってこられても驚かないという感じはあるんだけど、だからロマンチックに「この生身の身体」とか「この私の血」とか、そんなことをそれほど大事に思っているわけではなくて、だから私「スキンシップ」という言葉がすごく気持ち悪くて嫌いなんですけど、だから人体部品をどんどんどんどん取り替えていくという可能性というのは想像の範囲なんですが、それに身体障害者の方々がそういうのをどんどん利用するというのはまことにけっこうなことだと思うんですが、ただ最終的にそのシナリオというのは人間の不死性ということに行き着くと思うんですよね。そこでは私はもっとペシミスティックでね。だからいろんな技術を動員すれば、近い将来ある種の不死性が獲得されるであろうと。特に、これもSFですが、臓器移植ですね。あれで、臓器移植とクローンを組み合わせれば自分のクローン人間達をどこかにたくさん飼っておいて、で、自分の臓器がだめになっていったら1つ一つその飼っているクローン達からとっていけば、理論的には何百年も生きることができますね。その不死とか不滅とかいうことは人間の一番の欲望だと思うんだけれども、その壁を踏み越えることに私はやはり直感的に非倫理的なものを感じます。

直感的に非倫理的というか、つまり昔どこかで読んですごく深く印象づけられた言葉で、誰がいったのか覚えていないんですが、「もし私達に死ということがなかったら私達は徹底的に堕落するしかないだろう」って書いてあって、それを私は直感的に正しいと思うんですね。不死であるがために徹底的に堕落している存在の象徴がドラキュラだと思うんですね。ので、サイボーグ化というのは必要だったらどんどんやればいいんだけど、それが不死性へと結びつくということにはどうしても納得のできないものを感じる。もちろん死はものすごく誰だって怖いんだけど。それともう一つ、学問に関していうと、学問業績を残すということを自分の不死性とか不滅性と錯覚するということも私は大変な堕落だと思います。それは芸術家にしても誰にしても。本当に優れた芸術家は、ゴッホにしたって誰にしたって、自分の不死性なんてことは考えずにやみくもに描いただけなので。近代批判をし始めるとどんどんどんどん極端になっていって自分でも収拾がつかないんですが、まず死におびえることをやめようといったら、人間ドッグになんか行くなとかね。愛煙家を弾圧するなとかね。どんどんどんどん過激な話になりそうなんですが。すみません。

[佐藤浩司] えーと、いいですか?[311'09]山本さん、また。

[山本貴] いいです、いいです。

[野島] 塚本さん。

[塚本] ブッシュマンのところへ先生行かれていろいろ字で記録されていますよね。それを見て彼らが字を使おうとするということはないんですか?

[菅原] どんどんどんどん文化変容が進んでいますから、私が友人である世代は全くのいわゆる文盲ですが、それより下の世代は小学校に行って、このボツワナという国は妙な国でそうやってブッシュマンを強制移住させたりひどいこともするんだけど、一方ですごく福祉国家なんです。それはダイアモンド鉱山があるからけっこう国はお金持ちなんですね。奨学金制度がめちゃくちゃ完備しているから、私達の定住地で小学校で優秀な成績を収めたものは街の中学に行き、さらにどんどんステップアップして大学にまで行って、私の昔からの知り合いは今隣国の大学で音楽活動をしながら音楽芸術の勉強をしちゃったりしていて。その一方でちゃっかり「私はブッシュマンだ」っていってふんどし付けて、それらしいブッシュマンらしい歌を歌って金を荒稼ぎしたり。そういうちゃっかりしたやつはどんどんいて。だから今の若い世代は文字、英語とか、もう一つの国民語のツワナ語とか読み書きができる人がとても多いです。

[塚本] 私が伺いたいのは、私の発表のときに先生がおっしゃった、科学技術というのはどこまで人間を変えていく。変えていくということに対して権利というんですか?そういうものがあるのかどうかというところにつながる部分なんですけれども、字を見た彼らは字を選ばないという選択はできるんですか? ということとか、人類というのは、たとえば火を発見した時に火を使わないという選択はできるんですか?というようなこと。それと同じように、これから新しい科学技術、インターネットとかいうものが目の前にある時にそれを使わないという選択をできる部族とか、人間はそもそも目の前に便利だとか、今の場合はビジネスですよね。そういうものがある時にそれを選ばないという選択が本当にできるものなのかということに関して何か。

[菅原] そうですね。なんて答えたらいいのかなぁ。少なくとも私の実践は、私は一生携帯は持つまいと思っているんですが。[314'04]この中に携帯持っていない人って他にいらっしゃるかなぁ。あぁ。すごい。私は私一人だと思っていたのでびっくりした。これは不便だ不便だとみんなにいわれますけれども、かなりの快適さを持った選択だと思うんですけどね。ただ、そういう個人的な選択じゃなくて、塚本さんのその疑問に対して答えるためにはやはりそれを観念論的に考えてはいけないといわざるを得ないと思うんですね。観念論的に考えるというのは、ここに私がいて、ここに火があって、使うか使わないか。ではなくて、人類史というのは集団同士の殺し合いでやってきた、スパルタとアテネの例をとるまでもなくね。人類史の大きな特徴というのは、ほかの動物が全然やらなかった集団皆殺しですね。ジェノサイトというのを昔からずっとやってきたわけですよね。だから、どかんとあるポピュレーションを滅ぼしてしまうということそれ自体が人類の、さっきからいっているミクロエボルーションをものすごく早めたという説さえあるぐらいです。そうすると技術というのは、ここで集団同士の競合の問題に置き換わるわけですね。一方の集団がAという技術を持っていて、他方の集団が持っていなかったら、他方の集団は滅ぼされる。何のことはない軍拡競争の理論です。だから私が最終的には国家廃絶しかないといっているのは、技術とそういう互いに殺し合う集団の分節化というのが結合した状況で人類史が続く限り、それは果てしない軍拡競争というのをストップできなくてどこかで滅びるだろうというシナリオです。

これは男と女に関して同じことがいえますよね。ある人類学者が断言しているけど、私達大学で教育している人間は骨身にしみて知ってますけど、男と女の間に知能差なんてあるわけないですよね。むしろ最近は女子学生の方が元気で、男子学生の方が屈折しているせいか、成績優秀者のかなりの部分は女子学生ですよね。だけどなんで人類史の中でほとんどの社会が男が政治権力を握る社会であったかというと、これも集団の競争で説明できるんですね。だからA集団が兵士が男で、B集団が兵士が女で白兵戦をしたら、アマゾネスなんて実際いないんだから絶対A集団の方が勝っちゃう。だから軍事というのはとにかく男がしなくちゃいけない。つまりそれはホモサピエンスの身体形質としてそうなっているんだから、筋力が男の方が強いんだから、という形で男性支配という、人類史に非常に古くからある構造を生み出したのも集団化の競争だというのが私はかなり説得力のある議論だと思う。だから技術の話もそれと同じで、これを集団間の競争という、この私達にとっての宿命と技術との結合というのを私は決して人類にとって祝福すべきことだとは思えない。それと私の骨の髄まで活字文化とか映画好きだとかいうことが染みついているということとは、やはり矛盾としてしか私にはいえないですね。つまりこの自分を、それって昔全共闘時代にいわれた「自己否定しろ、おまえ」って。自己否定なんてできるわけないんだからさという、だから自己否定をしないけれど自己肯定もしないという曖昧なところで、最近私が好きな言葉を使えば、この世界とねばり強く交渉を重ねていくしかないんじゃないかなと思っています。お答えになりました?なんかずるい答えのような気もする。

[塚本] なんか。前のが。

[佐藤浩司] 歯切れが悪いですね。

[菅原] 歯切れが悪い。うん。

[塚本] 繭は小さいのがいいんですか?彼らにとって?

[菅原] 小さいことにあこがれる。え?彼らにとってですか?いい。私は、

[塚本] 先生の気持ちはいいという感じに感じますが。

[菅原] 端的にいうと、彼らをとっても格好いいと思いますね。それから死に方がとても潔い。昨日まで普通に暮らしていた人がぽっくりいっちゃったりすることね。そこには私達が死へ向かうさまざまのうじゃうじゃしたことがないところが。まぁそれはつまり平均寿命が短いということじゃないかといわれるとそれまでなんですが。でも幼少年期の危機を乗り切るとかなり長生きしているんですかね。けっこう長生きしておじいさん、昨日まで普通に働いていた人が「あ、なんか気分悪いな」といって翌日にはもう冷たくなっているとかね。生のあり方、彼らにとっていいかというよりも、私にとって格好いい。潔いとつい感じてしまうということが問題なんですよね。それからさっき言いかけたことで事実として彼らにとってはっきりとした不幸は、小学校で文字を覚えて英語を多少喋れるようになっても、それを活かせる職業というのはほとんどないですよね。そうするとなまじ外の世界のことを知ってしまって欲望だけがかき立てられるということはとても不幸ですね。そうするとあと待っているのはアル中人生一直線という感じ。だからなまじ中途半端に高等教育を受けたブッシュマンの若い世代にアルコール依存者はとても多いですね。そういうことは私ははっきりと不幸なことだと思わざるを得ない。

[佐藤浩司] だいたい今の民族社会は民族学者の期待を裏切っているんですよね。ほとんどが。[321'33]期待か希望か。菅原さんの問いかけに従うならば、民族社会がそのような理想に向かってはいない。

[菅原] うん。だからやっぱり私はグローバリゼーションというのはかなり恐ろしいものだと思うんですね。もし私が野心的な政治家で、私が政権を取ったらもちろん根本的に日本のあり方を変えようとは思いますけれど、そんなこといくら妄想でいってもしょうがないし。かつてのそのプログラムは失敗したから。

[佐藤浩司] そろそろ時間なんですけど、山本さん何か一言ありますか?ほかどなたかいらっしゃいますか?質問のある人。なければ懇親会がありますのでそれでこんこんと議論をいたしましょう。

[菅原] あんまりいじめないでください。

[野島] どうもありがとうございました。

[佐藤浩司] どうもありがとうございました。

[菅原] どうもなんか。

[一同] [拍手][322'46]




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