思い出はどこへ行くのか? ― 2006.03.13 ―

[みんぱく共同研究会第10回]
[国立民族学博物館2階第6セミナー室 2006年3月13日 13:00-]
[参加]
武井秀夫 黒川由紀子 内田直子 大谷裕子 加藤ゆうこ 國頭吾郎 黒石いずみ 佐藤浩司 佐藤優香 清水郁郎 長浜宏和 野島久雄 南保輔 安村通晃 山本貴代 平川智章

全記録

記憶と創作


1.北西アマゾンのトゥユカについて

 それでは始めさせていただきます。

 まず最初に、きょうはアマゾンの話をベースにする予定なので、アマゾンは多分あまり知られていないと思うので、少しどういうところか、その辺の説明から入りたいと思います。

 まずこれです。私が調査したのはこのあたりです。実際に年間降雨量が3,000から3,500㎜、多いときには4,000㎜を超える、そういう地域です。それで4,000㎜を超えたりしますと、いろいろ崖崩れというか、地崩れが起こって、結構地形が変わってしまったりするのですけれども、そういうところです。

 それで、ここの、手で指します。この辺の一帯、これは川がないのであれなんですけれども、アマゾン川の本流より北で、ちょうどその本流の真ん中あたり、マナウスのあたりからほぼ北西に向かってネグロ川、黒い川という意味ですけれども、リオネグロというのが走っていて、そのリオネグロを中心としたあたりが北西アマゾンと言われている地域です。北西アマゾンと言われているところは、地質学的にはガイアナ楯状地と呼ばれる中世代の地質のところでありまして、「ロスト・ワールド」の舞台にもなった有名なテーブルマウンテンがたくさんあるロライマ高地とか、あの辺に連なる地質です。そのせいもあって、北西アマゾンではロライマは3,000m級ですけれども、それほど高くなくても千五、六百mから2,000m級の結構高いテーブルマウンテンが周囲にたくさんあります。

 もう一つ特徴は、そういうところから、それがいわゆるアマゾン盆地の縁の部分をなしていまして、私が住んでいたあたりが標高200mぐらいです。200mからアマゾン川の河口までは2,000㎞から3,000㎞あると思うのですけれども、非常に低い標高差のところを多量の水が流れて、平均流速が世界一というのがアマゾン川ですから、そういう地域です。ただ、標高差200mとは言っても、その主要な部分の標高差はこの北西アマゾンのあたりでどんどんどんとおりていくわけでして、勢いカチュエラと呼ばれる岩礁帯というか、急流というか、あるいは小さな滝だったりしますけれども、そういうものが多くなります。

 それがこういうところです。これはブラジル側のサンガブリエル・カショエイラというところのカチュエラですけれども、白波が立っているところの下には大概大きな岩があって、ここは直線で1㎞以上あるところですけれども、船が通れるところは水路が1本しかありません。非常に細い小さな水路です。

 これも同じサンガブリエル・カショエイラの南に見える山ですけれども、こういうある種、気泡というか、奇怪な形をした岩泡があります。これもテーブル状にはなっていませんけれども、同じ地質でできています。

 こういう山は非常に目立ちますので、この辺に住んでいる先住民にとっては神話的なモチーフとしてさまざまに語られている山です。ちなみに私が調査したトゥユカという人たちにとっては、この山は「ワリログ」という名前がついていて、・・・的な出来事がいろいろ起こっています。

 あとは自然をモチーフとして少しだけお見せすると、これはコンゴウインコです。コンゴウインコのこの辺の赤い羽根とか、黄色い羽根、これは儀礼のための羽毛の冠をつくるのですけれども、そのときには非常に重要な色です。それからここの朱色の尾羽、これも羽根飾りには欠かせないものです。

 ついでに申し上げますと、これは野生のワカマヤですから、なぜこんなに近くで撮れるのか。実はこれはつい3日ほど前まではジャングルの中を飛び回っていたワカマヤですが、3日前にシャーマンがつかまえてきて、その場で耳元でゴショゴショと呪文を唱えるわけです。それでパッと離すと、もうジャングルには帰っていかないのです。これはとても不思議なんですけれども、とにかくそういうたぐいのいわばドメスティケートされた野生の生き物というのは結構インディオの集落の中には存在したりします。

 人々が食べるものとして、例えば魚、黒い水というのは葉っぱが枯れずにそのまま自己融解して、タンニンの非常に酸性の強い、大体pHにして5前後の黒い水になって川をなしているわけですけれども、動物プランクトンが結構多いせいか、魚は非常に豊富です。ここに写っているのは非常に小型の魚ばかりですけれども、こういう小型の魚は危険度が少ない。危険度が少ないといっても別に腐るとか何とかではなくて、霊的な意味ですけれども、危険度が少ないので、子どもたちにも普通に食べさせることができる種類の魚です。

 こういうところにどういう人たちが住んでいるか、まず住居をお見せします。

 これはマロカというふうに書いてありますが、屋根を椰子の葉でふいて、周り、ここのあたりは今、応急手当で椰子でふいてあるのですけれども、というのはこの写真を撮る2日ほど前に、マロカのこっち側、3分の1ぐらいが火事で焼けてしまいまして、同じ村のほかの住民の家から椰子の葉を編んだものを急遽集めて形を取り戻したばかりなんです。これは10月12日のコロンブスが新大陸を発見されたとされている日、現在では民族の日、「D_a de la Raza」といいますけれども、そういうお祝いといいますか、国民の祝日になっていますけれども、それをインディオたちがインディオの集落で祝うというか、記念する。それで上院議員とか、何人かの政治家を招いて、自分たちの生活の窮状を訴えるためのフェスタを開いて、たまたま僕もそこに行ったというときに撮ったものです。

 かつてはこういう大きな集住家屋に一つのコミュニティー全員が住んでいました。大きいものでは200人以上、二百五、六人住んでいたマロカの写真がありますが、現在でもここに写っているマロカですと、やはり百五、六十人は楽に住める。ただ、こういう大規模なマロカはほとんど残っていません。現在ではカトリックに教化されていますので、カトリックの神父さんがお勧めする、こういう核家族用の小さな家を建てて、それぞれが住んでいます。

 実はこの家は最近、村の全体の人たちとの間でもめごとを起こして、出て行ってしまった人の家です。それで壁などがつくりかけで、枠組だけが残っています。この人の場合は、村長をしていたときに、村長として物の配り方が悪かったのか、だからそれが不公平だとか何とか言われて、本人は公平にしたつもりだったのだけれども、いろんなといってもそんなに大した量ではないのですけれども、外から補助として物が入ってきたりするので、そういう物を村のチーフはみんなに分配しなければいけないのですけれども、ここはランク社会なものですから、ランクに基づいてある程度考慮しながら物を分けていくわけです。だから完全な平等ではないのです。だけどそれはそれでいろんなもめごとの原因になって、それで嫌気がさして辞めてしまったらしいです。

 例えばこれは復活祭のときのプロセッションです。毎年、神父さんが来てやるわけではないのですけれども、2年に1回ぐらいは、例えばこの集落の場合はこの地域で人口的には一番大きくて、ステイタスから言うと2番目のコミュニティーなので、2年に1回ぐらいは神父さんが来て、きちんとしたミサをやります。

 これは同じ村の学校です。これがヘルスポストです。ちなみにこのトタン屋根がチャペルです。チャペルに付随したキッチン、この椰子の葉でふいた小屋がキッチンになっています。こういう格好で集落の中心部にこういう3つの公共的な建物があります。このトタン屋根は個人の家です。通りを挟んで向こう側に建っているのですけれども、さっき普通の平均的な家といって写したのは、ここから3軒写したのですけれども、こういう家があとはずっとこちら側に続いています。あとはこの屋根の影になっているというか、こちら側にあるのですけれども、そこにチーフの家として、さっきのような、あれほど大きくはないのですが、マロカが建っています。これはほとんど中南米特有のプラサから大通りが1本伸びて、その両側に家があるというようなつくりのコミュニティーになっています。

 広場はこのチャペルの向こう側、この椰子の木の生えているところとの間にプラサがあります。この椰子の木のところを向こう側におりていくと、船着場です。

 どういう人たちが住んでいるか、ちょっと恥ずかしいのですけれども、これは当時の私です。見ていただきたいのは体格の違いです。私は当時175㎝で、体重が70㎏前後でした。例えばこの青年は21歳です。彼がこの中で一番大きいですけれども、160㎝ぐらいです。だからいかに小柄かわかります。ただし、森の中で木を切ったりとか、そういう仕事をさせると、とんでもなく強いです。彼らが10分か15分で切ってしまう木、かなり大きい木ですけれども、私が切ると大体30分以上かかりましたから、斧の扱いも全然レベルが違うのですけれども。

 これは子どもたちが水浴をしているところです。子どもたちの場合には、恐らく以前は子どもたちにはほとんど服を着せていなかったのではないかと思いますけれども、今ではTシャツとか、ショートパンツを買い与えています。でも彼らは現金収入はほとんどないですので、しばしばお兄ちゃん、お姉ちゃんのお下がりということが多いです。もちろん持っていない子もいます。例えばこの子は何歳ぐらいに見えますか。実はこの子は7歳です。この子が5歳です。この子が3歳です。この子たちは見ると髪の毛は結構黒々しているように見えるので、それほど栄養状態は悪くはないのかなというふうに思われるかもしれないけれども、大体この地域では子ども時代に強烈な栄養失調状態になります。ちょっとわかりにくいかもしれないのですが、この子の髪を見てください。非常に茶色っぽいです。これは日曜日のミサの後なので盛装していますからわかりませんが、実はお腹はポンポコリンです。明らかに蛋白質の欠乏した栄養失調状態にあることがわかります。お姉さんのほうは髪が大分黒さを取り戻してはきたのですが、まだやはり茶色くて、彼女も栄養失調状態にあったことがわかります。

 水浴の後などはある程度の年齢になると、家事を手伝っていまして、これは頭の上に水くみで、大きな鍋に水をくんできて、上がってきたところです。

 先ほど神父さんの絵を見せましたけれども、もう一方で先住民としての儀礼はきちんと残っていまして、これは儀礼の前に儀礼用の装飾を顔に施しているところです。これは顔ですが、もう一方で足にこういう筋目が入っている。これがまだ塗ったばかりではっきりした色が出ていないので、ただ泥をなすりつけたように見えているのですが、これがいずれはブルーブラックの非常に鮮明な色に染まってきます。特にくるぶしから下は全部染めますので、真っ青になります。それから手も手首から先は全部ブルーブラックのインクで染めたみたいに真っ青になります。これが取れるのに大体1週間から10日かかります。まさに1週間から10日というのが儀礼の後のさまざまなあの世というか、他界との関係でいろいろ気をつけなければならない時期というのは、そういう色素が体についている時期です。

 この後ちょっと紹介しておくと、これはエビをとるためのざる網を編んでいるところで、これはお父さんから息子がかごの編み方を習っているところです。

 もう一つ、儀礼の準備として、例えばこういう活動もあります。これはサトウキビを搾っているのですけれども、顔の表情はちょっとしかわかりませんけれども、彼はとてもうれしそうですよね。この人にしても、ここでやっている子もすごくうれしそうです。サトウキビを搾れば、「ワラポ」と彼らは呼んでいる、かなり強いどぶろくが必ずできますので、その楽しみのために一生懸命労働をしているわけです。

 儀礼でダンスをしていたりとか、そういう写真もあるのですけれども、実はきょうのお話で一番大事なのはこういう場面です。これはこちら側に並んでいる人たち、この真ん中の人がチーフダンサーです。儀礼のいわばメインの踊り手です。この人の息子がこの人です。この2人でチーフダンサーを務めます。この人が3人目、こちら側に並んでいるのは、今、どぶろくを飲んでいる人がチーフの弟です。その脇にチーフが座っていて、その脇にこの儀礼を取り仕切るシャーマンが座っています。この人はシャーマンの息子ですけれども、ここではたまたまどぶろくを配っている。それでここへ2例に並んでいるのは、実はこちらの踊り手たちというのは、ある意味では儀礼の中ではあの世の精霊たちを代表している役割です。こちら側はいわばコミュニティーの人間たちを代表する人たちです。この両者の間で食物の交換ということが行われるのが儀礼の表向きの最大の目的です。こういう対面したセッションでは、祝詞のようなというか、呪文のようなというか、神話が祝詞のような形で唱えられるのですけれども、それが彼らの知識の伝承の仕方というか、プロトタイプといってもいいようなものです。これは後で詳しく説明します。

 これはシャーマンの座るいすです。これが砂時計型に組んだスタンドで、その上にトゥトゥモというひょうたんの一種ですけれども、それでつくったお椀が置いてあります。ここではちょっとしか見えていませんが、通常はここにコカの葉を乾燥させてつきつぶして非常に細かい微粉末にしたものが中に入れられています。

 これはヤヘと呼ばれるつる植物からつくる幻覚性の飲料を入れるつぼです。

 これは彼らがユクベスグと呼ぶ鳴槍です。これは何かの出来事の始めや終わりを告げ知らせるために、肩のところにパーンと打ちつけて鳴らす槍です。これがある意味で彼らにとっての世界をあらわしている。というのもシャーマンのいすですけれども、これは実はマロカであると同時に彼らの世界でもあるのです。というのは彼らの世界は円盤状をなしていて、周囲を全部山に取り囲まれていて、そして東西南北の4カ所に出入り口があるというふうに考えられているわけです。ちょうどこれも東西南北、4方向から出入り口があるようなデザインになっていて、しかもマロカも全く同じデザインです。いわば大地の上にどっかとシャーマンが座って、しかもこのセットは実は人間のモデルです。つまり骨が命のワンを支えている。女性に見立てた場合は、これは子宮でもあるわけで、この中で命が育まれる。この中に入っている粉末にしたコカの葉というのは、実は象徴的には月経血をあらわしていて、そこにシャーマンが吸うたばこの煙を吹きかける。つまりたばこの白い煙は精液を象徴していますので、ホウジョウ化の行為、直接的な性行為を意味しているわけですけれども、そういうものとしてあります。もう一つここにあるヤヘというのも、実はもともとはヤヘというのは女性が変化したものでして、つまりその肉から取った液体ということで、これもいわば象徴的には月経血をあらわしている。

 それからもう一つ言っておきますと、骨というのは男性の精液からつくられるというふうに言われています。つまり男性的な要素がこのスタンドの骨とたばこの煙、それから女性的な要素がコカとヤヘという形で、多層的に混ざり合ってホウジョウ性というものを生み出す。しかも世界そのものはシャーマンがこの上に座って目を光らせて、悪い者が入ってこないようにしている。ここにシャーマンが座った絵柄もあるのですけれども、きょうは見つからなかったのでこれだけにしておきます。

 とりあえず持ってきた写真はこれだけです。写真はこれで終わりです。

 シャーマンは写真を撮っても大丈夫です。これは呪文なども一言一句ディクテーションしてもらって、彼らは白人といっても黒人まで全部含むのですけれども、ブランコたちは確かに強い薬も持っているけれども、自分たちのような精霊が関係するような病気になったときは治し方を全然知らない。人間がなぜ病気になるかということについて、本当のところは何も知らないので、だからそういう人たちにちゃんと教えてやらないといけない。日本人はそういうことに対して権威を持っているようだから、「ぜひおまえがこれを世界中の人に教えろ」と言われて、僕はを教わってきたのです。

 さて、きょうお話しする内容の一番重要な部分というのは、神話がどんどんどんどん改変されていく。神話というのは私たちというか、西洋文明ないしは印刷、その他の永続的な記録装置を持った人たちにとっては、古い昔の迷信というか、あるいはファンタジックな妄想から生まれた物語というか、そういうものとして見えているわけですけれども、実はアマゾンで生きている人たちにとって神話というのは決して絵空事ではないわけです。それは目に見える物事の裏側にある真理を教えてくれる知識なわけです。

彼らの生きている世界というのは、基本的には見えるものと見えないもの、あるいは見せかけとその裏で作用している本質的なもの、そういう対立関係の中でとらえられています。しかもそれは有限のコスモスで、ある集団がふえる、あるいは得をすると、必ず誰か別の集団が損をする、あるいは減ってしまう。いわゆるそういうゼロサムゲームで成り立っている世界です。ですからそこでのバランスを保っていくということが一つ重要なファクターとして存在します。しかもゼロサムゲームに参加している集団が人間だけではなくて、環境そのものがそういう要因になっているということが、1960年代に初めて「デサナ」というグループについての民俗史が書かれたときに、非常に注目された点です。

 それで、彼らにとっては生命のあるものだけとは限りませんけれども、とにかく人間の集団以外に、動物、木、魚、星、カエル、アリ、シロアリ、そういうさまざまなものがみんな基本的には人間と同じ、彼らの言葉では「マサ」といいますけれども、英語に訳するとすると「ピープル」「人々」とでも訳さざるを得ないような、そういうものとして考えられています。

 人間にとっては食料になるものはすべてマサですから、ということは人間が普通に植物を収穫して、植物の実とか、そういうものを収穫して食べる、あるいは魚を釣って食べる、けものを殺して食べる。全部、見かけはそういうけものや魚を食べているのですけれども、本質的なレベルでは食人行為になってしまう。食人行為をすれば当然報復を受ける。その報復を避けるためにどうするか、そこのところがシャーマニズムの手続きで回避される。ないしは取り引きという形で、例えば今、ご紹介した儀礼というのは、たまたまあの写真に写っていた儀礼自体は「魚の踊り」と呼ばれる儀礼ですけれども、魚が遡上してくる季節に行われて、魚の精霊たちとの間でいわば取り引きを決める、そういう儀礼なわけです。そうすると、お互いにいわば儀礼のときにはこの世とあの世の境界がなくなりますから、そしてああいう代表者同士の間で取り引きが行われる。そこでお互いにどれだけ食べてもいいかということが話し合いわれるわけです。

 魚はそれぞれ個性を持っていて、あの地域で有毒の魚というのはないですけれども、非常に油っこくて、食べると大人でも結構消化に手間取るようなもの、子どもが食べると結構お腹をこわしたりとか、気分が悪くなったりとかする、そういう魚もあります。そうすると、そういう魚は必ずその説明を持っていて、その説明自体は我々からすれば非常に非論理的というか、物語的、神話的な理由なんですけれども、とにかくそれを子どもに食べさせるのは危険だということは十分説明するようになっている。そういう形で彼らの神話は、彼らがジャングルの中での生活を生き抜くための重要な知識の源泉になっているわけです。

 もう一つ重要なことは、現在起こること、あるいは未来に起こること、すべてのことは神話の時代に一度起こっている。彼らの神話、「神話」という言葉がなくて、「ケッティ」という言葉があります。「ケッティ」というのは、神話と、それから実際に地上に生まれ出た人間としての活動の歴史と両方を含んでいます。特に「ケッティ」といってもいろいろな場所で起こった出来事とか、それについての「ケッティ」もありますけれども、彼らがいかにして現在ここに住んでいるのかという、生まれてからこの方の歴史を語る部分の「ケッティ」では、ここまではご先祖様の物語で、ここからは今、生きている我々に直接つながってくる物語なんだよという形で、神話の時代と歴史の時代というのは分けられています。分けられて意識はされているけれども、だけどそれはつながっていないのかというと、そうではなくてきちんとつながっているのです。歴史の時代というのはどういうことかというと、シャーマン以外の人には物事の本質が見えなくなった時代、それ以前はすべての人が、あるいはすべての動物が人の形をしたり、動物の形をとったりということが誰にでも明らかだった時代というのが神話の時代です。

 そういう神話の時代に起こったこと以外のことが現在、あるいは未来に起こるはずがない。つまり神話の時代にはすべての物事、出来事の原型が既に存在していたんだというのが彼らの考え方の一番の基本です。そうしますと、例えば白人がやってきた。そして自分たちが知らない物を持っている。そういうことはなぜ起こったのか。神話の時代には起こっていたはずだ。ところが自分たちが伝え聞いている神話の中にはそれについての知識がない。なぜか。それは忘れられてしまったに違いないというふうになるわけです。

 そこで、その知識が補われなければいけない。つまり新しい状況に対して新しい知識が必要なんですけれども、彼らにとってそれは新しい知識ではなくて、既にあったけれども、一旦失われた知識という形で、それが知識として神話の中に組み込まれることになります。そして起こってくるのが、新しい神話のバージョンの誕生です。

2.トゥユカにおける情報伝達の方法

ここで神話の新バージョンの話にいく前に、トゥユカでの情報伝達の基本的なやり方というのをまず説明しておきます。

それは例えば旅の報告や村人の誰かに起こったその日の出来事をみんなで聞くときに、どういう聞き方をするか、そういう話です。話者と聞き手の間で常に反復が行われます。例えば僕が話手として「きのう、民博へ行ったんだけどさ」というふうに言うと、聞き手は「うん、民博に行ったんだな」と、こういうふうにオウム返しに同じことを言うわけです。「そしたら佐藤さんという人がいてさ」「うん、佐藤という奴がいたんだな」と、こういうふうに話が進んでいくわけです。だから物語は決して我々がよくやるように、話し手がワーッとしゃべってしまうなんてことは絶対に起こらないのです。必ず一定の長さで区切られていって、必ずそれに対して確認の反復があり、そして次々に出来事が語られていくわけです。

それで、ほとんどDNAの転写みたいなことが会話で行われているわけなんですけれども、似たような形が実は、しかしもう既に儀礼的に知っている話なので、決して一方の話が終わってから繰り返すという形ではないけれども、同じように繰り返されるパターンというのが儀礼の中にあります。それがさっき写真でお見せしたチャンティングセッションの中で起こるわけです。

チーフチャンターはこちらの右手のほうの真ん中に座っていた人ですけれども、彼が「昔々どこそこにこういう家があった」とかいうようなことを言い始める。それをダラーッと非常に特徴のある節をつけて言うのです。そうすると、彼がワンフレーズ、ツーフレイズ、言い終えたときに、全部で10ぐらいフレーズがあるとすると、ツーフレーズぐらい終わったところで、すぐほかの人たちが追いかけてワーッと輪唱のように同じことを唱える。それがどんどんどんどん繰り返されて、彼らの歴史が語られていく。そしてその歴史が語られるだけではなくて、歴史というのは必ず一定のときと空間で起こりますから、特に彼らの場合には大地の端の地下のある家で生まれて、そこから神というか、彼らの創造主の力によって地面まで持ち上げられ、かつ大地を取り巻く岩山を貫通して、円盤状の大地の中に入り、さらに大河を遡行して現在地に至っているわけです。そういう旅のすべてが語られる。語られるときに、同時に語られる道順というのは、すべての創造的なエネルギー、クリエイティブなエネルギーが宿っている大地の下にあるマロカから、現在、彼らが生きているマロカまで、いわばエネルギーの道を開く。つまり道を清める祝詞でもあるわけです。

そういう意味で、そこにある死の汚れ、あるいは死の悲哀、そういったものを全部取り去る。そういうふうにいわば大地と通り道をスキャンするような形で、空間のスキャンを行いながら歴史が語られる。逆に言えば「時間を語ると空間になる」と言ってもいいですけれども、そういう形で同時に死の汚れが取り払われて、彼らが生まれた始原のマロカと、現在のマロカが一つのエネルギーの通路といいますか、パイプでつながれるというのがその儀礼の最初のチャンティングセッションで行われる。

儀礼そのものについての説明をしていると長くなりますから、もう一度オウム返しの話し方に戻りますと、儀礼の中でのチャンティングでは、そこには創造性が発揮される余地というのはほとんどないわけです。というのは語られる内容は全員に共有されている。少なくともそのとき参加するチャンターたちには、全員に共有されている知識として、あるフレーズが出てきたらこのフレーズだとわかって、それを後から追いかけるという格好になっています。ところが、出来事の語りの場合には、必ずしもそうではなくて、常に創作的な側面があります。それはオリジナルを語った人との対話の中で、そのオリジナルの語り手がどういうふうに語ったかということの観察に基づいていたり、あるいは後でオリジナルの語り手が語っていた対象である別の人と直接話をして得た情報とか、あるいは自分自身が似たような経験をしたときの情報とか、そういったものをうまく組み込んで脚色していく。例えば形容詞一つ、あるいは何かをあらわす身振り一つにしても、非常にうまい人とそうではない人がいる。そういうことによって常にうまい語り手というものが存在するし、そこにそういう物語ることの創造性みたいなものは常にあるわけです。

3.神話の新バージョン

ところが、神話の新しいバージョンができるということになると、これはそういう単純な創造力、イマジネーションという意味での創造力だけでは神聖な神話であるというふうには認められないわけで、神話を神聖なものであると認めてもらうためには、それなりの仕掛けが必要になってくるわけです。

神話の新しいバージョンを生み出すのは、当然のことながらシャーマンたちです。シャーマンというのはかつての人類学が規範の守り手、あるいは伝統の守り手として、非常に保守的な像というものを築き上げてきたわけですけれども、私の知る限りのシャーマンは逆にそうではなくて、集団随一の文化革新者であり、特に病気の治療だけではなくてさまざまな面で実験精神が旺盛です。

アマゾンで私が見聞きした例では、文化的な革新はほとんどの場合、物の導入ということを除いては、ほとんどの場合、シャーマンが起点になっています。なぜならば、彼らは新しい知識が妥当なもの、あるいはこれが失われていた知識なんだということを正当化するためのさまざまな仕掛けを彼ら自身が持っているからです。

祖先の夢を見るのは彼らだけの特権ではありません。けれどもシャーマンのイニシエーション、シャーマンになっていく訓練の中で、非常に強い幻覚剤を何度も何度も飲まされて、幻覚的なビジョンを見る訓練を厳しくされる。しかもシャーマンのいわば卒業試験みたいなところでは、彼が見ている幻覚に対して、マスターシャーマン、先生であるシャーマンが介入をして、そこにいろいろな撹乱を起こすわけです。幻覚にそういう介入をするなんていうことは、どういうふうに可能なのかということはさておきまして、とりあえずここでは「可能です」としか僕は言わないことにします。そういう撹乱された幻覚に対して、後で目覚めたときに、そのシャーマン候補生は「あなたはこういう場面で、こういう形で、私をだまそうとしただろ」ということを言い当てなくてはいけない。言い当てて初めて彼はシャーマンとして一人前になったということが認められるわけです。

そういうふうにしていわば幻覚のマスター、あるいはビジョンを見るマスターとしてのシャーマンというものは、普通の人間が世界を見ているときには、いわば見せかけ、見かけ、うわべだけ、表面しか見えない。つまりそこに木が立っていればそれは木にしか見えないわけです。ところがシャーマンが見れば、そこにはちゃんと木の場合は「ユクマサ」、木の人々という言い方をしますが、木の人が見えるわけです。だからシャーマンが見れば木が何か悪意を持っているとか、そういったことまで見えてしまうんだと言います。僕自身はまだ木が人に見えたことはないので、そこは彼らがそう言っているとしか言えないわけですけれども、そういうふうにして目覚めていてもそういうビジョンを見ることができる、それがシャーマンなわけです。

そうしますと、例えば白人の出現のような非常に大きな出来事が起こる。その白人についてさまざまな夢を見る人が出てくる。シャーマンは夢だけではなくてビジョンとか、そういったものでもいろいろな情報を得てくる。しかし、一人のシャーマンが「あれはこうなんだ」と言ったところで、それだけでは必ずしも決定版になっていかない。しばしば有力なシャーマンが集まって、実は私はこういうビジョンを見た、こういう夢を見たということで話し合っているうちに、次第に一つのまとまりが出てきたり、あるいは古い神話の枝葉だったような物語に新しい意味が付与されて、それが幹の一部に組み込まれたりとか、そういう形で恐らく神話の革新ということが起こっていく。

ちなみに白人の出現というほど大きな出来事ではないのですが、武井秀夫の出現というのが一時期、私の集落では大問題になりました。それであるとき、チーフの住んでいるマロカというか、当時は僕もそこに居候をしていたのですけれども、水浴びか何かをして帰ってきたら、チーフとシャーマンとチーフの弟と、それからもう一人、別の部族なんですけれども、チーフの奥さんのお兄さんだったか、やはりシャーマンなんですけれども、この4人が何かけんけんがくがく議論をしているのです。すごい早口でしゃべっているので何が何だかわからないのですけれども、ときどき「ヒデオ」とかいう名前が聞こえてくるわけです。これは俺のことを言っているな、なんだこれは、この熱気を帯びた雰囲気は何だろうと思った。それからすぐに僕も輪に加わって、「あんたら何を話しているんだ」と聞いたら、説明してくれたことによると、つまり僕は何人かというか、僕はどこから来たのかと、それが問題になっているわけです。

さっきもお話しましたけれども、彼らは地面の下で生まれています。そして地面の下から大地へはい上がってきて、そしてアマゾン川を遡上して現在地にたどり着いた。そういう歴史を持っている。彼らがその歴史を語ってくれたときに、「日本人はどうなんだ」と聞くわけです。僕は「高天原神話には一応こういうのがあるよ」という話をしたわけです。我々日本人は天上から降りてきていますから、彼らとは明らかに系統が違うというのが最初に話したときの認識です。

ところが、彼らは人類学者というのを知らないわけです。人類学者がどういうふうにものを考えて、どういうふうに彼らの神話を分析して、その隠された意味を探り出すのかということについては、彼らは何も知らない。しかもおもしろいことに、彼らは僕に神話を語るときに、彼らが彼らの子どもたちに神話のいわば深い意味を教えるのと同じ手法を取ったのです。つまりまず物語を聞かせる。聞かせておいて、私が疑問を持って質問に行ったりとか、あるいはどうもこの物語は表面上はこうなんだけれども、本当はこういうことを言っているのだろうと、その裏の意味を彼らに質問しに行って、初めて物語を理解したというふうにみなすわけです。僕はそうではなくて、非常にオーソドックスな人類学者のスタイルで、そういう分析的なレベルでこうではないか、ああではないかというふうに、そういう問いはできるだけ禁欲的にして、この物語はどういうふうに続いていくのかと、そういうできるだけ向こうが自発的に話してくれることを資料として集めようという態度で最初はやっていたわけです。

そうすると、神話の最初の部分というか、最初の半分ぐらいを聞かせてくれてから、1週間経っても2週間経っても何の音沙汰もない。僕のほうは手伝ってもらって、翻訳も終えて、象徴的な意味構造も大体全部分析していて、さあ次はどうなるのだろうと思っているのに全然何の音沙汰もない。それでチーフの弟が僕の仕事を手伝ってくれていたので、チーフの弟に「おい、これはどうなっているんだ」と聞いたら、「だってお前は何も聞かないじゃないか。長老たちはお前は何もわかっていないと思っているぞ」と言うから、「では、だったら今すぐにでも長老たちのところに行こう」と言って、チーフとシャーマンを何人か前にして、「実はこの間、聞いた話は、俺はこういうふうに考えて、こういうふうに分析して、こういう話だというふうにわかったが、それでいいのか」と言ったら、彼らはびっくりするわけです。「何だ、それだけわかっているのだったら、もっと早く言いにこいよ」と。

そういうことがあって、今度は次に聞いた話は、その晩のうちにチーフの弟に手伝ってもらって、翻訳をして、翌日、朝会ったときに、シャーマンに「きのうの話はこういう話だろ」と言ったら、もうとんでもない話になるわけです。ある程度、頭のいい子どもたちでもやはり1週間、10日、普通だったらそこまで深く理解するには1カ月ぐらいかかるわけです。ところが一晩でやってきたわけでしょ。あいつは何者だというふうになるのです。しかも、話す話、話す話、次から次へそうやっていくわけでしょ。彼らにとってはだんだんだんだん武井秀夫という男がわからなくなってくるわけです。天からおりてきた自分たちとは全然関係ない奴だと思っていたら、何かおかしい。なぜあいつはこんなにすぐに自分たちの話を理解できるのか、絶対どこかでつながっているはずだというのが彼らの探求の始まりです。

そして、彼らのトゥユカというグループの中の一つのグループで「突然あらわれた人たち」と呼ばれているグループがあるのを思い出すわけです。それはいわば彼らの創造主であった、最初に生まれた兄弟たちの長男ですけれども、創造主でもあるその長男が、弟たちというか、人間たちを全部大地に送り届けた後、自分はまたその地下のマロカへ戻るわけです。ところがしばらくしてから、地上に送り届けた奴らは元気にしているかなと、心配になって、後から送り出した一隊がいて、それが道を間違えたか何かで、とにかく太陽かカヌーでのぼる道を行ってしまったがために、上からおりてこざるを得なかった。そのためにある日突然あらわれた。そういうことを主張するグループがいるわけです。でもとにかく同じトゥユカ語をちゃんと話すし、それでどうしようもなくて、あらわれた人たちというのは、一応名目上は最上位のランクの者という形で受け入れられるわけです。あいつらがいるじゃないかと、もしあいつらの一派の誰かがどこかで別れて日本という土地へ渡ったのだとしたら、だとしたら秀夫の言っている天上からおりてきたという話はわかる。実はそういうことをけんけんがくがくやっていたのだそうです。

実はそれは僕が90年に日本に帰ってくる直前の話だったので、その後、コロンビアはゲリラなどの問題で行けてないので、結果がわかりません。わかりませんけれども、その部分で彼らの神話にもう一つ、改変というか、新しいバージョンがつけ加わった可能性は非常に大きいです。

それも結局は話し合っていたうちの一人が、夢で天上から来た人たちの話を思い出したというところから彼らの議論は始まっているのです。つまり夢でそういうものを思い出したということは、それは彼らにとっては先祖が夢に出てきて教えてくれたということなんです。そういう正当化の手順を経て、神話というのは新しいバージョンがだんだんできていくわけです。

だから資料に添付した白人起源神話は、読んでいただければわかると思うのですけれども、これは資料の下のほうの「北西アマゾン先住民と白人との接触の歴史」というところを見ていただくとわかるのですが、ティキエ川というのは「1750年ごろ、サンガブリエルに砦」と書いてありますが、このサンガブリエルの少し上流で分枝する川です。ところがこっち側のティキエ川のほうは結構急流というか、さっきのカチュエラが多くて、しかも川としては本流ではないというか、1750年当時はまだあの辺はいわば領土争いの渦中にありました。19世紀になると、今度はカシキアレ川といってオリノコ水系とアマゾン水系をつなぐ川が発見されます。それによってこの地域はさらに重要性を増していくのです。テリトリアル・・・ところが、オリノコ水系につながるカシキアレ川というのは、リオネグロ、ネグロ川は上流ではバウペス川という名前を変えますが、その本流から分かれていく枝にあるのです。ティキエ川というのは、カシキアレ川の北側にあるとすると、南側に分かれる川なので、そういう意味で地政学的な重要性が全くない川だったのです。その結果として、裏を見ていただくとわかりますが、バウペス川の本流には例えばミトゥというところに1880年ごろにミッションのポストができたことがある。これは常時あったわけではなくて、できたりなくなったり、できたりなくなったりを繰り返しています。ただ、1880年ごろからミッションの活動は活発化するのです。それに対抗して本流部分では1900年代、20世紀の初頭にはいわばmessianic indian movementsと書いてありますけれども、いわばそれに対する抵抗運動が起きます。ところがこれが頻発するのは、バウペス川、イサナ川、オリノコ川、その辺の流域、つまり軍隊もミッションも力を入れて活動していた流域で起こっているのであって、それ以外の流域ではほとんど接触がないのです。それで実際に接触が活発化するのは、1929年にヤワラテというところです。それから1940年にパリカショエラ、これはブラジル側ですが、パリカショエラはティキエ川の上流部です。私が調査していたところから100㎞ぐらいのところです。そこにミッションのポストができて、やっとティキエ川の布教活動というのは大きく軌道に乗っていくといいますか、より恒常的なコンタクトが始まったのはそのぐらいからということになります。

つまりそういうことからすると、ほんの数十年の間で白人の神話というのが形成されたというふうに考えられるわけです。つまりこれは新しいバージョンができたということが決して伝承の正確さとかそういうものによるのではなくて、白人を理解する必要があったがために急速に形成された新しい知識であるということ、つまり神話が知識であることによって、そういう創作、ないしは新バージョンの形成ということが起こっているのだということを何よりもよく示しているように思います。彼らにとっての神話は知識ですから、当然革新されなければ有効性を失ってしまいますし、革新されることによって有効性を持ち、生き残ることができたのだというふうに言うことができます。

そこで、逆に言えば伝承の正確さ、印刷とか永続性のある記録の出現というものは、神話的な活動、神話の伝承がもともと持っていたような創造性というのは恐らく抹殺していくものではないか。それは知識の正確性、特に科学的な知識の正確な伝達とか、そういったものにはこういう永続的なメディアというのは欠かせないわけですけれども、もう一方で人間の生活というのは科学で全部割り切れるかというと、決してそうではないわけで、そういうところに恐らく神話的な創造性の余地を残しておくというような配慮ないしは知恵が我々にも必要なのではないかなというふうに思うわけです。

4.思い出語りと過去、記録

ここから後は神話から離れて、神話的なクリエイティビティーと思い出というものを軸に話をしたいと思います。

今まで述べたように、物語るというのは、実は単に出来事を語るというよりも、知識を生成しているという側面があります。だから思い出語りというのは決して記憶の再生、リプレイではない。たまたまスペイン語で2つの言い方があるのでそこに書いてみました。「もう一度」というのに、otra vesというのとde nuevoという、英語のアゲインに当たるものが、otra vesとde nuevoという2つの言い方があります。otra vesというのはつまり何か言われた言葉を聞き逃したりして、例えば先生が生徒の言った答が聞こえなくて、「もう一回言ってごらん」というときにotra vesとかいうふうに言います。だからこれは完全にリプレイなんです。だけど例えば私たちが誰かを訪問して「また会えたね」と言うときの「また会えた」というのは、otra vesというような言い方も可能かもしれませんが、ほとんどotra vesというのは使わないのです。de nuevoとか、ヌイバメンテというような言い方をします。つまりそれは再び同じことが起こっているのではなくて、どこか新しさがある。そういう繰り返しとしてやはりとらえている。そういう区別がどこかにあるのではないかというふうに思うわけです。

同じ思い出でも語られる状況によって必ず変化しますし、そういう意味で思い出語りというのは過去における出来事をただ語るのではなくて、その出来事や関係性や意味といったものを現在において生き直す、あるいは更生し直す、意味をつくり直す、そういうものとしてあるのだろうと。だから出来事を語るだけが思い出であるとすれば、それは客観的なさまざまなメディアによる記録のほうがすぐれているわけですけれども、どんなにそういう記録を重ねたとしても意味を語ることはできないのです。恐らくそういう意味で思い出語りというのが非常に人間的な行為であることのゆえんは、恐らくその意味を語る、あるいは意味をつくり直す、しかもそれは単純に過去のために意味をつくり直すのではなくて、恐らく我々は過去の意味をつくり直すときに、常に未来を志向して意味をつくり直している。

あるいは現在と未来、両方と言ったらいいですか、そういうものとして思い出語りというのはあるのではないか。だから思い出語りだけではないですけれども、思い出語りの中において、過去と現在と未来というのは常に一つの全体としてあって、それを統合しているものは語り手の志向性だと思うのです。

 それで、過去というものはある意味で決して確定しないものではないか。つまり何度も何度も語り直すことによってさまざまな形につくり変えることができる。そういうものとして過去は存在している。けれども、そういう不確定な過去が存在するということは、逆に言えば生成しつつある現在と未来との自由度ないしはゆらぎというものも大きくなるわけで、そこに志向性が絡んでくると、逆に過去をある程度、一時的にでも確定することによってその志向性を明確にするというようなこともできるのではないか。つまり一時的に過去を確定することによって、過去から現在、未来という流れをつくることができる。そういう意味で記録は素材としてはとても大切なものですけれども、思い出語り自体はやはり記録には収まり切れないだろう。これが映画の「トゥルーマン・ショー」のようなあれほどの規模で記録がつくられたときにどうなのか、それは僕もよくわかりません。でも恐らくそれでも思い出語りが記録に収まり切れるかというと、やはり「?」をつけたいと思っています。

5.現代人と神話

 現代人はテクノロジーのコスモスを生きていると言ってもいいと思いますが、先ほどもちょっと言いましたけれども、テクノロジーのコスモスを生きていることによって、科学技術に対して過剰な期待を持っていますし、科学技術に対してこんなことはできないか、あんなことはできないかと、過剰な負荷をかけているような気もします。だけれども、やはり科学にできないことというのがあって、それはやはり意味の問題だと思います。科学的にどんなに測定しても、意味は測定の中にはあらわれてこないと思います。それはある意味ではリアリティと事実、あるいは出来事の問題だと思うわけです。

もしすべてを記録することができるというふうに考えるとすれば、それはリアリティは事実に従属し得るということだと思うのですけれども、恐らく記録されたものとしての事実とは別に、常に語られざるを得ないことが恐らく残る。だからアマゾンの人たちにとっては、「語ること」はある意味で一部「神話を生成すること」と言い換えてもいいわけで、日本のようなテクノロジー社会に住んでいると、語ることが神話の生成なんだというのは、ちょっとギャップがあるようにも感じるかもしれませんが、僕は語ることというのは、現代社会においてもある意味で神話を生成することなのではないかというふうに考えています。それは人間が生きている現実についての科学や客観的記録などとは異なる種類の知識を生成することで、恐らく人間しか持っていないような固有の創造性なんだと思います。

 以上できょうのお話は大体終わりでして、最後に一つ、皆さんがどうお考えになるのか聞いてみたいなと思ったことがあります。それは死者の記録はどこまで残すのが適切なんだろうか、どこまで利用するのが適切なんだろうかという話です。というのは、アマゾンにいたときに、写真は主にスライドで撮りました。いわゆる紙の写真がほしいときはスライドからネガを取って、さらに焼くという形で、この写真がほしいと言われると先住民にあげていたりしていたのですけれども、あるとき、その中に写っている人、若者が殺されたのですけれども、その人が写っているスライドを見せようとしたときに、「見せないでくれ」と、すごく強く拒否されました。「写真はいいのか」と言ったら、「本当は写真も見たくない。でもスライドはもっと悪い」と言うのです。だから、そうなのかと思って、アマゾンには約2年半、日本にいた時期も含めると、86年から90年までの間、ここの・・・ましたので、そうするとその間には亡くなる人も出てくる。そうすると、そういう人たちの写っている絵は一般的に「写真を見せろ」とは言うのだけれども、そういうものは彼らはパッとよけて見ないです。

これは霊魂観とか、死生観、他界観、いろいろなものがかかわってくる問題で、一概に言えることではないのですけれども、例えば歴史的な記録で、かつ人間の歴史的な愚行を繰り返してはいけないという意味で、ユダヤ人の虐殺の記録とか、ああいうものは常に我々の利用できるところにあるし、そういう記録フィルムを利用してさまざまな映画とかドキュメンタリーがつくられたりするわけです。でもあのときにああいう映像を見ていると、そのアマゾンの人たちのやりとりを考えながら、私自身はすごく複雑な気持ちになるのです、

私にも全然何の結論もないのですけれども、そんなことも思い出の一つの側面として考えていただけたらいいかなと思って、ちょっとメモを書きました。

 以上です。




討論

●安村  非常におもしろくて、ありがとうございました。

2つあるのですけれども、1つは単純な話で言うと、先ほどの神話は実は知識を与えているのだというのはわかりやすかったのですけれども、日本の神話の場合も同じことが言えるかというのが1つで、2番目は、私なりに神話を考えたとき、物語性とか、ストーリーがあることが、私は、ユーザーインタレストというか、わかりやすさとか、使いやすさを研究している立場から言うと、神話のほうがやはり単に知識の断片が並べられているよりも、ずっとストーリーがあるためにわかりやすくなっているのではないかというふうに勝手に解釈したのですけれども、そういう解釈の仕方でいいのかどうかということ、その2つをお聞きしたいのですけれども。

●武井  まず一つ、知識かどうかということに関していうと、日本人にとって日本の神話が知識でなくなってしまったのは、知識としては死んだからだと思います。更新されなかったから。恐らく更新されていれば、我々はもっと違う神話を持っていたのではないかと思います。その当時はやはりいろいろな意味で知識だったと思います。

 きょうは白人の起源神話だけちょっと資料としてお渡ししましたけれども、例えばいろいろな動物についての逸話がたくさんあって、そうするとなぜこの動物はこういう振る舞いをするのかとか、なぜこの鳥はこういう振る舞いをするのかとか、どうしてこの鳥はこういうふうに鳴くのかとか、そういったことが神話的に全部説明されているのです。それ自体は科学的な意味はないかもしれない。だけれども、その動物をつかまえたりとか、あるいはそういう実践的な行動には極めて役に立つ知識が含まれているわけです。

 日本の神話、僕らが知っている古事記とか、そういったものに知識がどれだけあるんだと言われると、僕もちょっと困るのですけれども、ただ、あれはあくまでああいう記録にまとめられてしまったというのは、天皇家の正当性とか、そういったものとの関連でまとめられてしまって・・・・・当時なりの知識を持っていたのではないかなと思います。

●安村  2つ目は神話が物語的だとか、ストーリーがあることによってわかりやすさとか、覚えやすさみたいなものが随分あるのではないか。つまりただ単に断片的に教えられて正確に言われるよりはおもしろいわけです。わかりやすかったり、覚えられたりするのではないかと思ったのですけれども。

●武井  神話とか、物語としてのおもしろさというのは、多分僕は2つの役割があると思います。一つは覚えやすい、だから伝承されやすい。だけどもう一つは逆におもしろいことによって、ある種のエソテリックな側面は隠すことができる。だからそのエソテリックな部分というのは、秘密にシャーマンからその弟子のシャーマンへというような形、あるいはアマゾンの場合ですと、ランクが高いのは長男の系列なので、父から長子へという形で伝承される。そういう部分というのもあると思います。

●黒川  先ほど神話の創造性を残す配慮や知恵が必要というふうにおっしゃったのですけれども、具体的には例えばどういうことがあるのかというのが一つです。

 第2点は、テクノロジーの限界があるということはそのとおりだと思うのですけれども、テクノロジーの発展している世界があり、この人たちももしそういうものの恩恵を受ける可能性が将来でも今でもあるとしたら、それを使おうと思うのか、思わないのか。別の言葉で言えば、テクノロジーの世界と神話の世界、こちらにこういういい面があって、こちらにはこういういい面と影があるということは、そうなんだと思うのですけれども、私も今、ケニアに行ったり、マサイの長老の話を聞いたりしてきて、何だかものすごい大きな矛盾とか葛藤というのか、心の中では一方では覚えている。若い人たちはやはり腕時計もしてみたいとか、カメラがあるならデジカメで写真を自分で撮ってみたいからそのカメラがほしいとか、言うわけです。ですからそのあたりのところ、お考えをお聞かせいただけたらと思います。

●武井  例えば写真を撮ったとしますね。1枚の写真にもいろいろな物語がありますよね。つまり例えばそれをどう語るのか。写真を見ただけで終わってしまうのか、終わらないのか。あるいは写真を見ることによって、例えば若いころの写真を見る。友達のところを訪ねていって写真集を見せられたりする。そこで友達がいろいろ語る。それが例えば次に行ったときに、「また写真が少しふえているか見るかい」みたいな話で、もし神話的なものがなくなってしまうとすると、恐らく新しい写真しか見ないということになりますね。例えば僕などは見せられたらどうするかというと、また最初から見ます。最初から見て、「これは確かこの前なかった」とかいうような話はするけれども、最初から見たりしながら、「あれ、この写真、何だったんだっけ」とか言って聞いたりとかする。

おもしろいのはそういう1枚の写真という非常に限定されたものについて話すときでも、話は変わってくるということです。つまりそれは写真の中には含まれていない語るべきことがたくさんあるんだということを本人たちが意識しているからです。そういう意識を持ち続けることが一つはすごく大事だと。一見そんなことは当然ではないかと思うかもしれないけれども、若い人たちの間で一緒に旅行に行った後、写真をただ回して、ワーッとみんなで見て、あまりワイワイ話にならないような光景も見たことがあるので、あれというのは何か変なんじゃないかなというふうに思ったのです。これが1つ目のほうです。

 それから、2つ目のことに関して言うと、欲望というレベルでは新しいテクノロジーを彼らはみんなほしがります。それはもうどうにもならないというか、どうにかしようとするほうが多分おかしいので、それはもうそういう方向へ流れていくだろうと思います。

 だけれども、例えばそういうものを持った彼らが、例えばそれをつくっている日本のような社会に住みたいかというと、多分住みたがらないですね。

きょう来ると言って来なかったけれども、ラオスに調査に行っている院生がいるのですけれども、彼は田舎のラオス人と接触しているわけですけれども、田舎だけではなくて、ラオス人はとてもある種安穏な生活を好んでいるらしくて、テクノロジーとか、そういったものが発展すること自体はいいと思っているのだけれども、例えばバンコクとか、そういう方向に発展した街を見たときに、「あんなところには住みたくない」と言うそうです。「東京なんていうのはあまりにも遠いのでよくわからない。だから日本はいいところなんだろ?」と聞くけれども、でも恐らく現実の東京を見せたら、多分「あんなところには住みたくない」と言うだろうと、彼は言っていました。

 同じことは、例えば私があの村に住んでいたときにも、街へ職を求めて働きに行って、何年か働いていたのだけれども、もう街はいやだといって帰ってきた若者、20歳、二十二、三の若者です。3人ほどいて、それで「どうして? 街に行ってああいう生活をしたかったのではないの?」と聞いたら、「あれは生活ではない。もう俺はここで一生暮らすんだ」と言っていた若者たちがいた。テクノロジーの物を求めるという部分と、そうではなくて生活に何を求めるかというのは大分違うことだと思います。

●黒川  「東京に住みたくない」と言う人が大部分かもしれないけれども、今、例えば東京の人はこうであるとかいうふうに言えないのと同じように、多分そこに住んでいる人の中には、私は東京に住んでいるのですけれども、例えば東京という街の持っているテクノロジーの背後にある魔術的な、何か混沌としたものを本能的に感じて、やはり「住みたい」と言う人もいるんじゃないかなという気もする。

●武井  別に東京を否定しているわけではなくて、もちろんそういう人たちはいますよね。だけど今、ああいうところに来ている人たちが、連れてきてすぐになじむかというと、まず絶対なじまないです。

●黒川  プロセスの中で例えば日本、神話的な世界から移行してきたように、ゆっくりかもしれないし、少人数からかもしれないけれども、そういう方向に向かっていくベクトルがないというふうには言い切れないような気がするというのと、それから私はマサイマラに通ううちに、私に「土地をあげる」と言った人がいて、現実には土地をもらっても私はそれこそ生活はできないと思うのだけれども、「東京に来たいか?」と聞いたら、「ぜひ行ってみたい」と。それで来たからといって暮らせるかどうかはわからないのだけれども、でも徐々に、例えば病気になったときに、シャーマン的な医療というのか、アフリカンドクターみたいな、そういう医療に今までそれを信じてやってきたけれども、でもやはりナイロビに行けば近代的な病院があるということが徐々にわかってきて、そうするとお祈りとか、儀礼も意味があるとは思ってきたけれども、やはりそれよりも腫瘍を取るには西洋医学のほうがいいかなといって、お金持ちのマサイは街に親の病気の治療という理由で行ってみたら、案外住み着いたりとか、とてもとてもいられないといって戻ったりしている。何かそのあたりがどうなのかなと、自分の中で悶々としているので。

 どうもありがとうございました。

●武井  もう一言言うと、都会というのは霊的な問題とか、もう少しスピリチュアルなレベルからいくと、かなりスピリチュアルな感受性をかなり消さないと生きていけない世界です。それが人類というふうに考えたときに、そういう感受性をなくしたほうがいいのかどうかという観点から考えると、都市に住むことがいいのかは僕なりに疑問を持っているのです。だから僕も東京にトータルで20年ぐらい住んでいますから、東京の便利さはよくわかっていますけれども、ただ逆に東京にいると、絶対失われていくものみたいなものをすごく感じますということです。

●南  今のことに関係があると思うのですけれども、5のところでお書きになったリアリティと事実という切り分けですけれども、当事者の中でも神話的なものが事実とは違うという認識は、多分シャーマンの人とか、いろいろな温度差があると思うのですけれども、この辺どうなんでしょうか。事実というとかなりテクノロジカルなハードファクトみたいなことを想定されているのでしょうけれども、神話的世界というものが事実ではないという明確な認識みたいなものはどうでしょうか。

●武井  アマゾンの場合だと、逆にこの関係は逆転していると言ったほうがいいのかもしれません。つまり神話的現実が事実であって、我々の目に見えているものが普通の人にしか見えないリアリティ、そういう対応関係です。だからシャーマンだけが本当の意味での事実を見ることができる人です。

●佐藤(浩)  先ほどの黒川さんの話にも関係していると思いますし、日本神話の話にも関係していると思うのですけれども、黒川さんの発表のときに、武井さんが「アイデンティティ」という言葉を出されていたので、ああと思ったのですけれども、要は民族としてのアイデンティティというのが一方であって、民族としてのアイデンティティが果たして個人のアイデンティティの維持に役に立つかとか、救うかとか、多分そういう話になるような気がするのです。

 それで、武井さんの話と黒川さんの話は、黒川さんは「彼、彼女」と言ってましたし、武井さんは「彼ら、彼女ら」と複数形の立場でずっと話されていたのですけれども、話している内容が僕にはパラレルに聞こえていて、武井さんに特に聞きたいのは、、、、というか記録を幾ら積み重ねてもそれに意味を与える契機がなければ、その記録自体が無意味だと。その意味ということに対して集団とか他者ということの役割がどの程度あるのか。その話で都市の話と農村の話は違ってくると思うのです。たとえば、トゥユカの中で個人のことを語る、個人の記憶の意味というのを求めるようなことがないのかなと。集団のことを幾ら記録しても、お互いに言い合いして共有していっても、それでは満たされない個人の記憶の価値を個人が求める。それがないと自分が自分でないと思えないというような、そういう話はないのかなということが聞きたい。すべてその集団に回収されてしまうようなことで納得して、それで自分は生きていくと実感できるのか。

●武井  そんなことはないですね。おもしろいのは、彼らの名前のつけ方です。男性のほうは確か9つ、女性が7つ、固有の名前があるのです。逆に言うと、男性は9種類の名前のうちの1つ、必ず自分についているわけです。だから20人ぐらい人がいたら自分と同じ名前の人が必ずもう1人か2人いるのです。これはある意味でコスモロジカルに言えばある種、霊的なエネルギーのリサイクルというか、霊的な役割のリサイクルみたいな、あるいはコミュニティーが常に同じメンバーで再生産されているという、そういうことにつながっていくわけなんだけれども、ではそれであなたたちは同じ魂を持っているのかというようなことの話をしたときに、それは当然違うと。もちろんこれはあくまでも1980年代後半に僕が出会ったトゥユカの話ということになるわけだけれども、既に彼らの中では個人という意識はかなり強かったし、持ち物は個人所有だし、それから例えばシャーマンなどを中心にして、やはり9つの固有名だけではなくて、プラス何かのあだ名といいますか、そのあだ名をつけることによって個人を識別する、あるいは個人の昔こういう人がいてとかいう形で話に出る。そういう形での個人の意識というのはかなりはっきりしていて、だから自分自身が誰の息子か、じいさんは誰かというようなことで、アラウの人ほど深度は深くないのですけれども、それなりのそういう血筋を意識するような形での個の固有性みたいな、アイデンティティみたいな部分の意識というのは結構強いです。

 だからといって個人が何か偉業をなし遂げるとか、そういうようなチャンスだとか何だとかというのは、日常生活ではそうそうあるわけではないわけだから、そういう意味で特別に自分を覚えていてほしいとかというようなことを表明する人がたくさんいるわけではないけれども、だけど集団の中では常に自分の存在というものをどこかで発言とか、そういう格好で見せるような行動をとる人たちはふえてはいるのではないか。ただ、それが昔からかどうかはわかりませんが、ただ、ランクはあるとはいっても、ランクに従った例えば敬語のたぐいとか、そういったものはないのです。全部一人称、二人称、三人称、はっきりまさに認証そのものでしか使わないから。だから話の仕方というのは、どんなに偉いランクの人とでも対等の話し方をするしかない。

 個人としての記憶を求めるとかというときに、何を佐藤さんが、どういう説明をしたら一番いいのかわからないのだけれども、とにかくそういうアイデンティティを構成する要件に関してはそれなりの意識を持っているということは確かです。

●佐藤  逆に言うと、現代社会で、我々の社会で幾ら日本神話の世界を語っても、そんなものを信じても、それでは自分が自分であることの理由を見つけ出せないとか、アイデンティティが得られないと思っているわけでしょう。そのときに、ではどこに個人のアイデンティティを求めたかというのがベースにある私の疑問でした。(民族レベルの認知症!)

●武井  もう一つ、決定的な要因があります。彼らは人口が700人なんです。ということは、同じトゥユカの中ではほとんどの人は知っているわけです。だからフェース・ツー・フェースでまさに個人なんです。我々のような匿名性を帯びることはないのです。おまけに彼らは言語が一つのアイデンティティの徴憑になりますから、トゥユカ語をしゃべっているというだけでやはり一つのアイデンティティ、非常に強烈なアイデンティティがあります。彼らの神話の中でどういう名前を持った人がどういう役割の人かということも全部説かれているから、その名前を持った自分という形のそういう部族的なアイデンティティは神話を通じてきちんと与えられて、しかもその部族の中で個人としてどんな集落に行っても、どこそこの誰と言えばそれでわかるという、そういうことになっているので、我々の社会のアイデンティティの不明さ、不確かさみたいなものはそもそも経験としてないのです。

●佐藤(優)  今の続きでちょっとだけお聞きしようと思ったのですけれども、何となく700人しかいないということで少し納得がいってしまったのですが、シャーマンが神話をつくるということは、先ほどの佐藤さんのコメントからもちょっと思ったのですけれども、一人ひとりの私は意味のつくり手にはなれないということなのかなと思ったのです。シャーマンだけが物語化をできる人であり、意味をつくれる人だけれども、私という一人ひとりは意味のつくり手になれないならば、神話というヒストリーから消えていくのかなと、ふと思って、アイデンティティの問題と絡めたときに、私みたいなすごく個人的な者の中には全然織り込まれないというか、その民族の中に残す価値のないものであり、シャーマンが知り得たことだけが意味化されるものなのかみたいなふうに思ったのです。そのことと、神話化されることと、個人がすごく当たり前、個人にとって意味があることというのがどう融合されていくのかなというのをお話の中からふと思ったのですが、700人しかいないと、今、先生がおっしゃったので、日常の中でたわいもないことがシャーマンの耳に入り、普通の出来事も神話の中に盛り込まれていくのかなというふうに自分の中で今、解釈をしようとしていたのですが。

●武井  まさにそのとおりというか、それに近いことが起こりますね。だから妙な夢を見たりすると、シャーマンのところに行って相談したりします。だから夢を通じた祖先のお告げみたいなものは、決してシャーマン一人の情報として、シャーマンが見た夢だからOKで、ほかの人が見た夢だから違うというのではないのです。もちろんそれがある程度全体に共有されるような正当な知識になっていくプロセスでは、シャーマンの権威とか、そういったものが後ろ盾としてそういう支える仕組みになっていくわけですけれども、もともとの情報というレベルから言えば、もちろんシャーマン自身が見れば、それはよりほかのものよりもうちょっと強力な情報ということにはなるのだけれども、ほかの人の見た夢とか、そういったものも全部そういう情報としては取り込まれていく。だから何か例えばカヌーで旅をしているときに、「川で何か変なことが起こっているよ」というような情報が後でシャーマンに旅から帰って言うと、「ああ、そうか」と言うので、シャーマンがちょっと警戒体制をとったりとかいう・・・・・・・・・・・・・

●國頭  今回お話をいただいたところが割に新たに神話が加わるところというお話が多かったかと思うのですけれども、神話が知識だということは、シャーマンが世代が渡っていったり、時代が進むにつれて、例えばシャーマンの中に街に出て大学で学んで帰ってくるような人があらわれたりするということもありなのかなというふうに思うのですけれども、そうしてくると、過去の知識というものに誤りがあったと、そういうことも起こり得るのではないかと思うのです。

 今回は新たなものがあらわれるという感覚に関しては加わっていけばいいというのは、情報の管理としては非常に楽なことで、アップデートしていくというのはすごく難しいことになると思うのですけれども、そういったアップデートというのは果たしてあるのでしょうか。彼らはどうしているのでしょうかというのが素朴な興味です。

●武井 まず現実的なシチュエーションとして、僕が最後に彼らと会ってから既に15年です。15年過ぎて何が起こっているのかなと考えたときに、恐らくまだ彼らの中では大学を卒業した人はいない。だからそういう意味でそういうシチュエーションは多分起こっていない。

 それから、キリスト教系のセミナリスト、要は神父さんとか、あるいはミッションスクールで教えるための教師というか、そういうものの養成学校みたいなところに行く人たちはいるわけです。ではそれがどのぐらい神話に対する知的な対抗勢力になっているかというと、これも現状はちょっとわからないのですけれども、僕がいたときにどういうことだったかというと、ミサに行って神父さんの話を聞いてということはやっています。だけど例えばマリアの処女懐胎の話などをしたときに、「あれはやっぱりうそだよな」と言うわけです。つまり彼らの世界観の中では性行為抜きに生命が誕生するということはあり得ないので、だから聖母マリアの処女懐胎というのは、彼らにとってはそう言っているだけだと、実際には性行為があったのだというふうに彼らは解釈しています。そういう形で逆に神学を超越したような論理というか、神学のほうが逆に超越的な論理を使っているから、そうではない世俗の論理が勝っているという言い方でもいいのかもしれない。そういう形で信仰などの面では随分聖書と違う解釈をしている人というのは結構いました。

 もう一つ、仮に大学のそういうのが入ってきたとしても、それはある意味で目に見える世界の話なわけです。例えばこういう逸話はどうでしょうか。1978年ぐらいから84年ぐらいまでの間に非常に結核が蔓延したのです。蔓延して蔓延が収まったかどうかわからない状況のところへ僕がたまたまその地域に乗り込んでいって、そうしたらそこの保健所の末端の保健サービス局が、「実は結核が蔓延している地域があって、彼らの文化的な習慣とのかかわりがあるのではないかと思っているのだけれども、調べてくれないか」と言うわけです。

それで僕はそこを最終的にフィールドに選ぶことになったのだけれども、実際に行ってみると、実は蔓延はほぼ収束していて、なぜ流行が収束したのかという問題を調べていくうちに、どうも栄養の問題があったんだということがわかっていったのです。だけどそのプロセスで外からの介入で、結核をとにかく治さなければいけない。それで結核菌はこれなんだと、これが今の君たちをたくさん殺している結核菌なんだといって、結核菌を見せるわけです。喀痰を染色してね。ところが彼らはどういうふうに応じたかというと、彼らの考えでは病原というのは霊的なもので、絶対目に見えないものなんです。だから結核菌を見せても、これも確かにこの結核の症状の何かに関係があるのだろうと、でもこれは本当の原因ではないというふうに彼らは考えるわけです。だから「もしこれが症状が長引く原因の一つであるならば、あんたたちが勧める薬は飲んでもいいよ。だけど本当の原因はもっと別のところにあるのだから、シャーマンの治療はシャーマンの治療でちゃんとやるよ」と、そういうことです。

●國頭  話が2つ、ごちゃごちゃになってしまいました。聞き方が悪かったです。科学技術が入ると、シャーマンの考えというのがあったときに、彼らはシャーマンの教えを信じるので、ある別の面から見ると、科学技術でもそういうふうに見えるよねという、そういう理解の仕方をしているというのは、それはそうなんでしょうという理解はできました。

 それで、シャーマンの中では、過去のシャーマンの話をつなぎ合わせて知識体験でいくと、矛盾とかは生じないのかなというのがそもそもの疑問で、そうすると、いろいろ積み重ねていく。だんだん普通考えると、ある断片的知識をつくっていって、こっちでつくっていくと、どこかで矛盾したりということはよく起こることだと思うのですけれども、そうなったときに、彼らは矛盾しているものは矛盾しててもいいんだという理解になるのか、まずそこで矛盾を解きほぐして折り合いをつけるようなことを知識体験の中で考えていくのか。もしそこで何か折り合いを考えていかなくてはいけなくなると、修正というのが入るので、アップデートというのはすごく難しいと思いますし、彼らが仮に科学技術に触れる機会がなかったとしても、徐々に知識がふえていくスピードというのは早くなってくると思うのです。そうするとシャーマンのアップデートした情報というのは、末端に伝わらないうちにさらに知識がふえていくということで、グループの中がたとえ700人とはいえ、情報が一貫性が保てなくなってくるようなのが数十年の間にできてしまうのではないかと。つまりアップデートは彼らはどうしているんだろうというのが、矛盾が起こったとき、彼らはどうするのかなというのと、アップデートということはあるんだろうかという2つです。

●武井  そういう論理の一貫性とか、矛盾とかいうことを考えるのが実は西洋的な考え方、西洋的な論理です。だから彼らの論理とは全然違う構造を持っているのです。例えば全く同じような問いは、エバンス・プリチャードがヌア族とか、アザンデとかやっている時代、つまり1910年代から20年代の本ですね。アザンデは30年代です。要するにそのころの研究者が同じように、こんなに矛盾しているのにということを書いているわけです。それで彼はどうしてアザンデは矛盾しているのに気づかないのだろうというふうに言っているのだけれども、それは違うのです。それを矛盾だと感じるのがエバンス・プリチャードを含めた西ヨーロッパ的な論理の伝統です。それに対して例えばある側面にがフォーカスが当たったときに、それはそこの論理で対処する。でも別の部分にフォーカスが当たったときには別の論理が働く。それで全体としてうまくいっていればいいというのが多分ローカルな論理ではよくあることです。そういう意味から言うと、先生のおっしゃられたような矛盾に悩むということは、ここ当面は起こらないと思います。彼らが子どもたちを全部学校に差し出して、西ヨーロッパ的な論理の伝統に全部洗脳されていかない限りは、そういう矛盾は彼らの間では生じないと思います。

●野島  今のお話ですけれども、最近の臨床心理学の研究では、西洋近代人ですら・・・・。そういう意味ではほとんど・・・です。確かに今の時代は・・・です。

●加藤  先生のお話の中で、皆さんに聞いてみたいとおっしゃった話が、何もできないまま終わるのは残念だなと思いました。それでその死者の記録はどこまで適切かというお話なんですけれども、それに私は答えることはなかなかできないのですが、私自身の関心で、きょうの黒川さんのお話も高齢者の方のお話が多かったので、とてもおもしろかったですが、長く生きてきた人がいろいろな物とか、思い出に執着するという、ちょっとフェチシズムみたいなものと、残された家族がその物を形見分けとか、処分したりするという、物の扱い方、高齢者が所有していた物の扱い方にすごく関心があって、それで少しこの死者の記録というのにもかかわるかなと思ってお聞きしていたのです。

私は人類学とか、専攻は特にちゃんとしていないので、もうひとつほかの地域のことがよくわからないのですが、例えばここのトゥユカの方たちは、写真も本当は見たくないけれども、写真はまあまあ見るとしてスライドはだめだと、抵抗感があるというふうにおっしゃったということなんですけれども、何に違いがあるのか、私にはもうひとつよくわからなかったので、先生の推測、なぜそこに違いがあると思われるのかというのを教えていただければと思ったのです。

それと同時に、例えばここに動画とか、ビデオとか、書いてあるのですが、動画は当時、持っていってないのだと思うので、もし動画が彼らの前にあらわれて、死んだ人が動いたりしていたら、彼らはそれをどう解釈すると思われるかということとか、あとはもしかしたら音声はテープレコーダーとか、当時80年代だったら持っていかれたのかなと思いますけれども、死んだ人の声が再現されていて、あれは彼の声なんじゃないかというのがみんながわかった場合に、それはある種のスライドのように忌むべきものとして扱われるのか、それとも一つはやはり好奇心としてはおもしろいというか、もっと何回でもいいから聞かせてくれというふうな好奇心のほうが先に立つのかとか、そのあたりのトゥユカの場合はどうなのかというのを、彼らはどう解釈しようとするのだろうかというのを教えていただけたらと思います。

●武井  まず、スライドに関しては、やはり写真というのはこんなに小さいでしょ。スライドは大きいじゃないですか。そうすると、やはり大きさといい、それから色彩の生き生きとしていることといい、やはり生きているように見えるわけです。だからだめだと言っていました。

 音声に関しては、あまりはっきり言えないのです。はっきり言えないというのは、それはあまり実験的に考えて聞かせたりということを繰り返さなかったので、スライドについては結構複数の人からいきなり強い反発があったので、その場で聞けたのです。スライドと同じ理由で動画は絶対だめですね。

●加藤  小さくてもだめですか。

●武井  だめだと思います。ビデオとか映画になったらもうだめですね。

●加藤  大きさはリアルと事実という話もあったのですけれども、現実の・・・。

●武井  動画もこんな小さいあれがありますね。いわゆるリアルプレーヤーみたいな。あれぐらいだったらいいかもしれないけれども、例えば画面全部ぐらいの動画になったら絶対だめです。

●内田  それは・・・になったらもっと危ないですよね。

●武井  それは危ないでしょうね。

●内田  そのときにシャーマンの方にどうしましょうとか相談する、、

●武井  それが下手な形に夢に出てきたら、それは呼んでいるということですからね。あのような……。

●内田  と解釈すると。その気になってしまうと。病は気からではないですけれども、出てきているから自分も呼ばれるのだというふうに解釈するんですか?

●武井  だから夢というのは基本的にあの世で起こっている出来事なんです。私の霊があの世に遊びに行って、経験していることが夢なんです。もちろんあの世といってもこの場がそのままあの世になり得るわけです。1枚皮をひっぺがしただけで。だから僕らの目には見えないけれども、ここにいろいろ精霊さんたちがいるかもしれない。そういう世界で彼らは生きているので、だから夜眠ると、いわば霊魂だけが一人立ち上がって、いわば周りの精霊たちも見える状態になる。そうすると、そこで何が起こるか、それが夢として記憶に残るわけで、そうするとそこで死んだ人から呼ばれる。一緒に遊ぼうとかということになったら、これはもう完璧にそこを切断するような、関係を切るような処置を講じないとまずいと。

●内田  処置を講じなかったら、自分はもう心がずっともやもやしたままということですよね。

●武井  そうですね。もしそれを黙っていて何もしなければ、確実に病気になる。

●黒石  私もちょっと質問ですけれども、これは武井先生だけではなくて、黒川先生に対しても同じレベルでの質問ですけれども、お二人のきょうの発表を聞いていて、すごい共通点がある。それは何かというと、勝手な理解ですけれども、黒川先生の場合は、Tさんの例のときに、その人の人格の非常に大事な部分を構成する思い出というか、そういう物語が残っているというか、それが大事だったというような、そのことがあったと思うのです。それから、今、武井先生のお話を聞いていると、どうも神話というのは語りの中で形成されて残ってきている。

つまり両方とも語りというものの意味、力みたいなものを語っているというのは理解できた。ということはつまり思い出、例えば「ソウルスタイル」などの場合も、物だけを記述したのでは、つまり物の映像とか、物の寸法や姿だけを記述したのではなくて、それに佐藤さんの語りというか、所有者の語りがついているから、それは思い出の意味というものがそこに派生してくるということ、つまり物それだけでは神話にもならないし、意味も持たないということを改めて感じたのですけれども、ではそれだけなのかという感じがもう一つあって、例えば地方などどこに行ってもそうですけれども、物はそれだけでパワーを持っているということがあるわけじゃないですか。それを例えば黒川さんの研究の中ではどうなっているのかと。それから武井先生の場合も、神話というときに、語りの話が多いけれども、では残ってきた物については神話とどう絡めて考えているのか。それをちょっと聞きたいなと思うのですけれども、そういうことにあまり関心はなかったのですか。

●武井  物というのは、一番最後のところに書きましたけれども、読まれる必要がある。物がどんなにパワーがあっても、パワーがあると感じるのは我々です。

 それから僕が物について語るときにも、僕自身がどういうパワーを感じたのかを語るわけです。だからそこには読みというものが介在していて、だからそのときに僕自身が直接的にそういう物の間でどういう経験をしたのかと。例えば関西だと僕は庭山というのはすごいところだなと思うのです。あそこをやはり山をのぼっていると、すごいいろいろなパワーを感じます。確かにあの山には御神体が住んでいると、感じさせてくれるパワーがあるわけです。だけどのぼらないで単純に遠くからただあの山を見ていると、それは多分語りとしてできない。だからつまり僕はあの山へ行って、パワーを感じて、それを語る。それが庭山の語りの一部を構成している。それが集積していけば庭山についての神話になり得ると思うのですけれども、例えば誰もあの山に近づいたりのぼったりしなければ、あの山のパワーについて、どんなにあの山がパワーを持っていたとしても誰も語らないでしょう。

●黒石  質問に対してちょっと違う気がするのですが、私が思うのは、もちろんいろいろな人がいろいろ語れるのです。いろいろな意味の発言というのはそこであるわけですよ。でも、じゃあ神話という特殊なものになりうるのか。

人間は、例えば土偶とか出土するじゃないですか、そうすると、それを何か知らないけれども、何か古いというだけではなくて、ある種の意味にかんして、    するというようなことが、もし本能的にそれを人間というものが行っているとしたならば、語りは必要ではなくなってくる。それに関しては、そういうことはあり得ないのかという質問だったのです。

●武井  語りが必要かどうかということと、必要でなくても語りたくなるという生き物であるということと、その2つの意味があるかなと思います。

●黒川  私はあくまでもTさんの場合にはこういうことがあったということを言っていたので、すべての場合にそうであるということではないです。

 それから、語りというのは全く語らずに生まれてから死ぬまで生きる人というのは、現実的にはいないと思います。けれどもあえて意図的なかかわりの中で語ってもらうということは必ずしも必要条件ではないと、私は思います。

物ということになりますと、物と心というのは、物か、心かみたいに言われるけれども、そうではないということに気がつかせてくれたのが「ソウルスタイル」なり、それらの物というものの背後にも物語がある。当たり前と言えば当たり前のことかもしれないけれども、しかもそれがすごいものではなくて、普通のもの、語りが必要か、必要ないかというと、常に必要であるとは思わないのです。語られない意味というのもあるし、語られる意味というのもあるし、「私は意味のある個人だ」と言っている人が本当は意味を感じているとは限らないし、「私のようなつまらない者が」と、それさえ言わない人がものすごく存在の意味を自分自身で深く感じながら生きている場合もあると思うので、物はもちろん大切だし、それから語りとか、意味というのは、私たちの仕事の中ではベーシックなある一部を構成するものではあるけれども、それが絶対ではない場合もあると思います。

●佐藤  「ソウルスタイル」のあれをやったのにはある前提があるのです。黒石さんが言われるけれども、物にもっとすごく大きな意味があって、シンボリックなみんなで共有するような意味がそこに発生しているのだったら、それをやればいいのです。それがないと思うからこそ、あんなばかげた一つひとつのつまらないものの意味を調べたので、例えばトゥユカの例だったら、武井さんがいろいろ書かれていますけれども、物が少なくて一つひとつの物が社会が共有するようなシンボリックな意味があって、人類学者はその意味を分析して社会が何か、という話を語ってきたのです。だからそういうことが可能だったら、「ソウルスタイル」はまず存在しなかったという話です。

●野島  ということで、先生たちはまだまだ言いたいことはあるでしょうけれども、一応終了いたします。




記憶と未来

 再び黒川です。よろしくお願いいたします。

先ほど武井先生が「べてるの家」の話をされましたけれども、私が一番最近したことは、その「べてるの家」を編集した編集者に「認知症と診断されたあなたへ」という当事者向けのものを、精神科のドクターやそのほか一緒に働いている仲間とつくったことです。それは学生の発案によって行われました。学生といっても博士課程の学生で、病院に出入りしている学生が患者さんに、「周りの人が読む本はものすごくたくさんあるのに私は一体何を読めばいいの? ないならあなたがつくってください」と言われました。「でも私はその本を一冊つくることは学生の立場でできない」と、最初のゼミのときに言われたので、では一緒にやりましょうといって、末期がんの精神科のドクターと一緒に編集をしたので、いつお亡くなりになるか文字通りわからないという状況の中で、そういった本をつい最近つくりました。「べてるの家」という話をされたので、それを思い出したところです。

きょうは、「記憶と未来」といっても、そんな大層なことでありませんで、私がただただやってきました回想法の実践から皆様にやったことをご紹介させていただいて、またご意見をいただければと思っています。

私は臨床心理士という仕事をしていまして、臨床ですから出会った人に導かれてどこへ行くかわからないというようなものです。何かこちらがこういう研究をするから動作をかけて何というよりは、私が今まで会ってきた患者さんとか、クライエントさんに導かれて今日に至っているということがあります。

ですので、きょうお話しすることも何かクリアな答があるとか、私にはこういう進むべき道を提言できるとかいうようなことは一切ありません。

回想法とは

最初に、回想法について、私の話を聞いてくださった方もいらっしゃいますけれども、初めてという方もいらっしゃると思いますので、概論をざっとご紹介させていただいて、それから実践的な活動についてご紹介したいと思います。

回想法というのは、REMINISCENCEとLIFE REVIEWの訳語です。アメリカの精神科医ロバート・バトラーという人によって創始された高齢者を対象とするセラピーです。高齢者の思い出、この研究会のキーワードの一つであります思い出、人生史を受容的、共感的に聞くということを基本にいたします。

バトラーさんは精神科医としていろいろな患者さんと出会う中で、おのずと自分の人生史を語り出す人が非常に多いという体験をされた。それに対して解釈をしたり、何か意味づけをしたり、助言をしたりせずに、じっと聞き入っていると、おのずとうつ状態とか、いろいろな精神症状が改善されるという体験から、それをセラピーとして生かそうとした、それが回想法の始まりです。

アクティビティーとしての回想法

しかしながら、その後、回想法はいろいろな方向に展開しておりまして、現在ではセラピーとしての回想法のほかに、アクティビティーとしての回想法、あるいはきょう、後ほどご紹介いたします世代間交流としての回想法等があります。これらはすべて目的も対象も行う人も場も違います。セラピーとしての回想法は、例えば抑うつとか、不安などの心理的な問題を持つ患者さんに対して精神科医、臨床心理士等の専門家が症状の軽減を目的に行うものです。行われる場としては病院、クリニック、一部福祉施設があります。

これに対してアクティビティーとしての回想法は、高齢者福祉施設などを中心に現在、行われていますけれども、高齢者が過去の楽しい思い出や大切な思い出を語ることで活気に満ちた創造的な時間を共有するなどを目的に、レクリエーションワーカーとか、施設の介護職員とか、ボランティアさんなどが中心になって行うものです。ですのでそこでは症状の改善とか、何か特定の問題の解決を目指すというよりは、レクリエーション的に楽しい時間を過ごすということが主目的になります。

世代間交流としての回想法

世代間交流の回想法というのは、私がこの一、二年行ってきたものですけれども、異世代間の伝承とか、交流を目的に、子ども、若年者、高齢者が集って体験を分かち合う。主な場としては地域の公民館、学校、高齢者施設、神社、お寺、公園とか、あらゆる場所を使って行う可能性があります。

今、このように申しましたけれども、実際にはセラピーとしての回想法をやっているつもりでも、全くセラピューティックではないどころか、患者さんを傷つけるばかりの営みもあれば、アクティビティーとしての回想法を行って、それほど大層なことを目的にしていなくても、結果としてはそこに集う方が心が慰められたり、ある種の症状が結果として改善する場合もありますし、世代間交流の回想法のように、特にこの目的という確かなものがない中でのさりげない交流で起こってくる変化というのも当然ありますので、一応セラピー、アクティビティー、世代間交流というのは、概念的には分けられるし、現実の社会の中ではお金が発生したりしなかったりとか、いろいろな違いがありますが、起こっていることを明確に分けられるかというと、当然そうではありません。あらゆる営みがそうであるように、誰がいかにそれをなすかによって、結果は全く異なってくるという側面があります。

回想法の方法

回想法の方法ですが、大きく分けて個人回想法、グループ回想法というのがあります。これはカウセリングやいわゆる心理療法と呼ばれるもの、あらゆる心理療法が一対一で行うものを基本とするのと並行しています。そのほかということですけれども、例えば夫婦回想法とか、認知症等で記憶に障害のある患者さんのグループの中に家族にも入っていただいて、合同家族回想法を行うというようなことがあります。

回想法の拠点

回想法はアメリカで始まったものですが、今はいろいろ拠点があります。イギリスのロンドンのブラックヒースというところにエイジエクスチェンジという場所がありまして、これは街の喫茶店といいますか、ティールームというのか、何というのか、そういうところを改造してつくられた場所です。

回想法センターとして回想法の実践者の教育研修や交流、出版などの活動を行っています。この主催者が最近代わったというふうに聞いているのですけれども、ドラマを専門とする方でしたので、奥深く建物の中を入っていきますと、小さな劇場のような空間がありまして、そこで年配者や若い人が混じって即興劇のような形で昔の思い出を再現するというような営みも行っています。それからプロの役者集団が、年を取るというのはどういうことか、認知症という体験がどういうものかというのを芝居にして、イギリス中、あるいはヨーロッパのほかの国々などに公演に出かけるということをサポートしたりしています。

それから、世界中とまではいかないと思いますけれども、ヨーロッパの年配の方が国を越えて集まって、いろいろな体験を分かち合うというイベントも行われているようです。そこでは年配の方が「思い出ボックス」というものを持ち寄って、「思い出ボックス」というのは箱の中に自分で自由に自分の思い出を再現するというようなものです。ある方は写真を入れるし、ある方はなつかしい思い出の品物を入れる。いろいろなプレゼンの仕方をお年寄なりに工夫して、みんなで持ち寄って、それを分かち合うというようなこともしているようです。

アメリカには「国際回想法学会」の本部がありまして、創始者のロバート・バトラーさんは今もご存命ですけれども、名誉会長か顧問か何かになられて、そして国際学会を開いています。来年だったか、再来年だったか、日本の愛知県で国際回想法学会が開催される予定です。ですので回想法、思い出、いろいろな角度から大抵の活動は私のようなものすごいアナログ人間、「マウントつきのスライドを持って行きます」と、2年前に野島さんに言ったら、「そのようなものを映す機械は研究所中探しても残念ながらない」と言われて、それでやむを得ずあのときはスティックだったか、CDRだったか忘れたのですが、それぐらい遅れていることをよくご存じなので、さっきから私のところに来てくださっては、自分ではできないであろう機械の操作のサポートをしていただいています。

それで、回想法はあまり工学系の方が今までかかわってはいらっしゃらなかった分野だと思うのですけれども、皆様の中でも国際回想法学会で発表をと思われる方がいらっしゃったら、新しい息吹を吹き込んでいただけるのではないかと期待をしています。

愛知県の師勝町には回想法センターが厚生労働省のバックアップを受けて設立されました。町の博物館、立派なものが飾ってある博物館というよりは、生活用具を中心とした博物館を活用して、地域で回想法の実践、研修を展開されています。

記憶障害を有する人への回想法

私は元気な方の回想法というのは、これまでほとんど行ったことがありませんでした。臨床心理士という仕事の性質上、病院やクリニックなどに勤務をして、そこにいらっしゃる患者さんに対してセラピーの中で回想法を応用するということで、記憶障害を持つ方に対する回想法というのは、私の仕事の中ではこれまで大きな位置を占めてきました。記憶に障害がある方への回想法というのは、言葉のかかわりだけでは難しいので、五感を刺激するなどの多面的な働きかけが意味を持つというふうに考えられています。

今、実は日本で一番盛んに行われているのは、認知症の患者さんに対する回想法です。認知症の方への回想法というのはそれほどやさしいものではありません。「子ども時代はどうやって遊んだの?」と聞いても、それが思い出せない病気、それから「あなたにとって一番輝かしい時代の記憶は何ですか?」とお聞きしても、答えられないから認知症、そういう方に対して回想法を導入する際には、障害のレベルに応じたかかわりの工夫を行う必要があります。それは私たちは日常の臨床場面では神経心理学的な検査を行ったり、それから記憶の詳細な検査を行って、どのような記憶が残っているか、どのような記憶が障害されているか、どの程度というようなことを把握してから行います。例えば視覚的な記憶は比較的残っているけれども、聴覚的な記憶は障害されているという方もありますし、その方その方によって記憶の障害のあり様、それから認知障害のあり様、言葉を変えて言えば認知機能の残っている部分を生かしていくというのがかかわりの基本になってくるように思います。

認知症に対する回想法を施行する上での留意点

非常におおざっぱに言いますと、初期の認知症の患者さんというのは、言葉のやり取りが十分にできます。これは早期に診断発見された場合ですので、最近は随分認知症という病気の存在が知られるようになってきたので、早く病院や専門機関を受診する方がふえてきて、「物忘れ外来」というような形でスクリーニングをする機会がふえているので、早期に医療機関等を訪れる方はふえてきました。そうしますと、昔はなったもの勝ちだというふうに考えられていて、どうせぼけてしまったら何もわからなくなってしまうんだから本人は楽で、周りの人だけが大変だということがまことしやかに言われていたのですけれども、決してそういうことはありません。

最初のうちは自分が確かな目的を持って電車に乗っているんだけれども、「どこへ行こうとしていたのかしら」と。私も危うくモノレールで何か思い込みで、終点かと思って、来たものに何でもいいから乗ればいいと一瞬思ってしまった。「はて、待てよ」と。ホームを見たら「空港行き」と書いてあって、反対側のホームを見たら、「万博記念公園」でしたか、書いてあったので、「あっ、いけない。何でも乗ってはいけないのだ」と、気がついたからよかったのですけれども、認知症の初期の方はまだ十分に話ができ、動ける。テニスもできる、水泳もできる、旅もできる。ただ、そのときにふっと物忘れがあるために、一見はたから見てはわからない種々の困難に遭遇するということになります。そういうのも恐らく工学的にサポートすることが私にはできませんけれども、できる可能性というのは実際のところ、相当あるのではないかと思います。

例えばバスに乗って私たちは「大体7つ目ぐらいで降りる」という見当をつけて、大体7つ目というと、大体何分ぐらいかかるかがわかって、そうすると5つ目ぐらいで少し注意を払って、「この停留所の次だ、もう一つ先だ」と思って正しい停留所で降りることができる。ところが認知症の方は、そういう時間に関する見当意識とか、記憶障害といってもいろいろで、見当意識障害が生じてくると、時間の感覚がわからないとか、大体5つ目とか、7つ目とかいうような感覚でバスに乗って、そろそろ注意しなければいけないということがおわかりにならない。そうしますとすごく不安になられて、聞けばいいと誰でも思うかもしれませんけれども、私も東京に住んでいますし、私どもの患者さんたちも東京近辺の方が多いのですが、みんなすごく忙しそうにしている。「何の停留所はどこですか」とか、「幾つ目ですか」とか、「大体何分ぐらいですか」とか、「おりるときに私に一声かけてください」ということはとても受け入れてくれそうもない人の集合体、インドとかアマゾンに行けば違うのかもしれませんが、そういうところにはバスも地下鉄もあまりないので、そもそも必要がないのかもしれません。

いずれにいたしましても、認知症への回想法はその方の障害のレベルをよく知った上で導入を工夫する。初期は言葉を中心としたかかわりができるけれども、中期になりますと、非言語的な媒体を用います。簡単な文字、例えば昔の小学校の教科書とか、あるいは簡単な文章でしたら読んで理解することができる。地図を用いたり、白黒写真を使ったりする。認知症が進めば進むほど抽象的な刺激というのは理解できませんので、より本物に近い媒体を用いるということが大事です。

例えば具体的な例を挙げますと、同じ西瓜というのを使うのでも、最初は「西瓜って好きですか? 西瓜って子どものころに食べましたか?」と聞けばいい。でもなかなかそれでは西瓜というものを思い起こすことができないので、例えば西瓜の写真を使ってみたりする。でもこの写真の使い方も実はいろいろ微妙に工夫をする必要がありまして、コントラストのはっきりした認知しやすい写真というのが有効です。例えば花の写真を使うときに、花がいっぱい入っているような、今はやりのアレンジメントのようなものは認知しにくいので、何だかわからない模様というふうに受け取られてしまいます。でもこれは私は経験的に知ってきたことですけれども、そういう写真よりは例えば背景が緑の生垣の中に真っ赤な椿が一輪というようなもののほうが写真と認知しやすい。

西瓜の話に戻りますと、西瓜の写真を使う。次には西瓜の写真でもそれが西瓜だとわかりにくくなるので、切った西瓜、本物の西瓜を準備して、それを味わってもらって、その味覚から記憶の回路がつながっていくというようなことがある。切り身でも西瓜という記憶がよみがえりにくくなった方には、西瓜を丸ごと準備して、その重さとか、質感とか、手の感触を味わっていただくということが有効になってきます。

認知症の心理療法

認知症の心理療法には回想法以外に音楽療法とか、その他いろいろ行われています。

認知症の心理療法の主な目的と期待される効果

認知症の心理療法の主な目的と期待される効果につきましては、そこに書いてあるとおりです。認知症そのものは非可逆的な疾患ということですので、診断が正しければ治るということはありません。診断が間違っていれば、ときに認知症というふうに思われていた方が元気に一人暮らしをされるという例もあります。

不安、抑うつ感の軽減とか、情動の安定。意味あるコミュニケーションの維持、促進。認知症の方同士が何人か集まっていらしても、自分たち同士では会話をすることができない。そこでつなぎ役としてのセラピストの役割というのが意味を持つようになってまいります。その人らしい尊厳の保持。心身の機能の低下を抑える。体の機能と同様、脳の機能を使わなければ衰えていく。どうせわからない人なのだから、おいしいものでも食べさせておいて、快適な部屋で衣食住さえ満ち足りていればそれでいいじゃないのと放置された方というのはどんどん機能が衰えていく。それを抑制するということがあります。それから心身の機能評価に応じた適切なケアの促進。

認知症の回想法

認知症の回想法は、もともと認知症を対象に行われたものではないのでということで、先ほど申し上げました。

ここから写真が何枚かありますが、例えばこういうような昔の川遊びの写真をお見せして、それを手がかりに昔、川で遊んだ思い出を思い出していただくということがあります。患者さんはこの川の写真を見て、ある人は「神田川だわ」と言い、「昔、神田川では染物をしていた」とか、おっしゃる方もありますし、信濃川の花火の話をする方や、この川はいろいろな川に変身します。

昔の生活用具というのは、こうしたセラピーでは非常に大事な手がかりとなります。これは昔のアイロンです。

先ほど西瓜と言いましたけれども、これは実際に老人病院で認知症の方に回想法を行ったときに使ったものです。冷やしておくということ、本物を準備するということ、この辺が大事です。

これは秋田県の福祉施設に私が出向いて、ある時期、定期的に回想法を職員の方と一緒にやっていたのですけれども、ほとんどの方が米をつくっていた経験があるということで、わらを持っていただくと、それまでほとんど言葉を発することのなかった方が、見事な手つきでわらを編み、そして言葉をぽつぽつと発するということもありました。

これは以前にもお見せしたかどうか忘れてしまったのですけれども、野島先生も何かの中に紹介してくださった平均年齢100歳の方の回想法の場面です。老人病院でこのときに参加してくださった患者さんは男性2人、99歳、99歳、女性3人、104歳、100歳、97歳という5名でした。100歳の方たちが本当の意味での同時代体験を分かち合う機会というのは極めて限られている。高齢者ケアというと、在宅がすごくいいというふうにおっしゃる方もあるのですけれども、家にいたのでは100歳の人同士が出会う機会も少ないということを考えると、何も家ばかりがよいわけではなくて、こういう病院だからこそ同年代の方が複数いらして、こういう会も可能になったのだなと思います。

手前で写真を持っていらっしゃる方が最年少の97歳の女性の方です。この持っていらっしゃる写真は、縁あって琵琶湖博物館で一時研究されていた吉良先生という方がくださった写真です。昔の写真といっても、今のようにどの家にもカメラがあるというわけではなかったです。たまたま吉良先生、いろいろな湖沼学とか、湖の研究などをされていた先生ですけれども、お父様が写真が趣味で、それでたくさん写真を持っていらっしゃった。それで「そういうことのためだったら黒川さん、使いなさい」と言ってくださって、それで何十枚か大切な写真を譲り受けて、そしてこうして実際のセラピー場面で使わせていただいています。

雪が降ったことがありまして、小さな雪だるまをにわかにつくって、そしてその雪に触れながら、一番右に写っている女性、この方は北海道で生まれ育った方なんですが、久しぶりに雪の冷たさというものを味わったということで、非常にいい笑顔を見せてくださっています。

ほとんど全員が難聴、それから何人かはアルツハイマーというとても困難な、会話が放っておいても進まないグループではあったのですけれども、ホワイトボードでキーワードを書いてみたり、それからこの方が一番強い難聴をお持ちの方で、すべての言葉を耳元で繰り返すというようなことをスタッフが行って、初めて成立したグループでした。

この方は北海道で生まれ育って、親が屯田兵のお医者さんをしていたという方です。ご本人の言葉を借りれば、屯田兵の医者、そして家族の方に言わせると軍医として北海道のフロンティアに派遣されて、そして家族で赴任して「ここの家に住むのだよ」と言われたときにまずしたことは、熊が中にいないのかということを念入りに点検したと。そして熊がいないということを確認してから恐る恐る扉を開けて、そこで暮らしたのだということを話してくださいました。「ある日、台所に熊が出てきて、おひつから御飯を食べていたというのをお母さんが見て、腰を抜かして驚いたんだ」と言われて、こちらも腰を抜かしそうになったのですが、話はまだまだ続きました。

自分の父親は屯田兵の医者で、このあたりは熊がたくさん出没するので、熊も人間に会えば必死になって戦うのですと。頭蓋骨に5本の爪をグサッとつき立てて、頭をブルンブルンブルンと振り回す。そしてけがをしてきた人が私の父の病院にやって来るのですと。そういう話を聞いた人たちはみんな笑うのです。でもこれは人が死ぬ場面、何かおかしさ、悲しさ、どういうふうに言葉を返していいのか、この場合の受容とか共感ということは何なのか、全くわからなくなって、「そうすると長生きは難しいでしょうね」とかいうようなことを言うと、「はい、長生きは難しゅうございます。せいぜいもって一晩か二晩」と言われるのです。昔は病院といっても家族と職員と患者さんが一緒になって生活しているような建物だったので、私は夜中中、そういう患者さんのうめき声を聞きながら寝ていたんだということを話してくださいました。

ここに写っているのは最年長の104歳の方が編物をしておられる手です。この方はアルツハイマー病だったのですけれども、手は最後まで編物ができた。手続き記憶といいますか、体に染み込んだ記憶がアルツハイマーになっても保たれるということは、そう珍しいことではありません。ただし、記憶のされ方、今の人でしたらコンピュータ等を使っての思い出をどう記録し、それを取り出していくかというトピックスなのでしょうけれども、この方の場合には編物という作業を、繰り返し繰り返し趣味ではなく生活に必要な営みとしてやっておられたというところが、もしかしたらキーなのかなと私は思っています。夫のパンツまで私は編んでいたと。物がない時代だったから、毎日手編みで家族の洋服を編んでいて、「ヨシエの編んでくれたパンツは本当に暖かいね」と、主人は言ってくれたんだという話をしてくれました。

この100歳の人たちは4日かけて学校に歩いて通っていたり、それから先生が不十分な時代だったので、その辺の神主さんに頼んで教えてもらったとか、机もないからみかん箱を寄せ集めて代用していたとか、そんな話をしてくれました。

アルツハイマー病の男性との回想法の事例

発症してからアルツハイマー病という診断をここから先はあるアルツハイマー病の患者さんとの回想法の事例ということで、一対一の個人回想法をどういうふうにするかについてご紹介したいと思います。

発症してからアルツハイマー病という診断を受けてから12年ぐらい、私が大学病院でかかわっていた方です。初期は大学病院で、精神科のドクターは診断はつけるのだけれども、さりとて何をするでもないといいますか、何ができるわけでもない。今はアリセプトという初期に比較的よく効く薬というのが開発されているのですが、当時はそういう薬もありませんでした。そこでドクターが私に回想法を応用した面接をしてくれないかというふうに言いまして、1時間の面接を約30回行いました。このときに回想法を常にしていたわけではありませんけれども、もちろん今の不安とか、現在の痛みや何かについてのお話も伺う、その合間に回想法的なかかわりをしました。

最初は大学病院でグループの回想法を立ち上げまして、一対一でずっとお会いをしていたのですけれども、その後、職場が変わりました。グループの回想法を大学病院、そしてクリニックで約8年間ほど継続して行っていました。最後のほうは外出なさることも難しくなりました。認知症というのは記憶とか、いわゆるぼけの症状が起こるだけではなくて、進行してまいりますと、体のほうの障害も進んできます。この方も12年間かかわる中では何回も入退院を繰り返しています。駅の階段で転んで骨折をして入院をされたり、肺炎を起こして、ある期間、別の病院に入院されたりしていたのですけれども、最後のほうには何回か自宅を訪問いたしました。奥様と一緒に家族同席の面接をしました。この患者さんは男性で、その奥様も途中からカウンセリングを受けたいとおっしゃって、ひと月に1回の割合で介護者のサポートということで、現在に至るまでカウンセリングを続けています。

Tとの回想法の経過

亡くなるまで、この患者さんTさんとの回想法の経過、初期。

最初のうちは過去の病とか、療養を余儀なくされたことですとか、兵役検査で丙種合格だったとか、そういう否定的な思い出が多く語られていました。過去の病というのは、療養を余儀なくされるほどの病で、これは大学生のときにそれで卒業を延期せざるを得なかった。やがて戦争になって兵役検査を受けたのだけれども、扁平胸で非常に貧弱な体をしていて、それが恥ずかしくて恥ずかしくて、丙種合格だったと。過去の出来事を借りて現在の不安とか、将来の漠たる不安を表現しているとも受け取れたように思います。

回想法といいますと、過去の思い出をただただ聞くというふうに思われがちなんですけれども、決してそうではなくて、過去は過去であって必ずしも過去ではなく、その過去のどのようなことをいかに語るかということは、まさにその方の現在の心模様を反映しているということがあります。

中期になりますと、子ども時代から現在までの豊かなエピソードが語られて、人格、人生のコアとしての幾つかの回想が繰り返し語られました。高校時代に卒業のときに満州へ旅をした思い出、それから東大に自分は学生として教官として、そして最後は患者として実に深い縁を得た。相当症状はいろいろ進んで、徘徊とか、失禁とか、そういうことも起こってくる中で、するどい指摘をされることもありました。テレビでイージス艦がどこかに派遣されたときには、ぽつりと「自衛隊はいつから他衛隊になったのか」とおっしゃって、奥様を驚かせたこともありました。情動的には安定され、穏やかな暮らし、いわゆる暴力とか暴言とか、何かそういう問題行動というふうに言われるようなものは最後までなかった。

後期になりますと、骨折、肺炎等により入退院を繰り返しました。自宅から外出することが困難となって、先ほど申しましたように訪問して家族同席面接を行いました。亡くなる直前まで、発病から十数年を経て、旅の思い出など幾つかの人生の中心的なエピソードをこの方は保持されていました。

奥様は「それは回想法のおかげだ。心から感謝している」というふうにおっしゃっていました。これは妻のかかわりも大きな意味があって、繰り返し繰り返し同じようなことを話されると、うるさいというか、ほかにすることがたくさんあって忙しい中、聞いていられないと思っていたけれども、繰り返し語られる話を聞くということに意味があるとわかってからは、この奥様はたとえ同じ話でも家庭の中で初めてかのように、何回も話を聞いておられたということも、Tさんにとって意味があったことだと思います。

Tの事例の考察

アルツハイマー病の初期から症状の変化に応じて心理的なかかわりの工夫が必要です。過去に託して現在を語る意味、聞き手は過去に含まれる現在、逆に言えば現在に含まれる過去というものを聞いて、未来に生かすことが求められます。在宅回想法というのも意味があるということを、このTさんは教えてくださったよう思います。

今、語らなければ喪失されてしまう記憶が、きょう語られることによってあしたにつながり、あした語られることによってあさってにつながっていたということの連続が、Tさんの中で自分にとって大切な幾つかの物語が残った、もしかしたら一つの要因だったのかもしれないと思っています。

重度認知症患者Nとの回想法の事

次に、重度の認知症の患者さんNさんとの回想法の事例を紹介したいと思います。

この方は老人病院に入院中の女性、94歳の方です。

診断は血管性の認知症、ご家族は子どもが3人、全員結婚されて、ご主人は50代で病死をされています。ご主人が亡くなったときのNさんは40代でした。夫が亡くなった後は学校の先生をしたりしながら家計を支えていたということでした。

病前性格は天衣無縫で、エネルギッシュ、正義感が強く、権威に立ち向かう傾向がある方だというふうに家族はおっしゃっていました。

現病歴・現在症

現病歴、現在症ですが、1994年に脳出血で倒れて、老人保健施設や自宅で治療・介護を受けておられました。暴言・暴力等のいわゆる問題行動が目立ち、病院、施設を転々とされていました。1997年に老人病院に入院し、現在に至っている方です。日常生活全般に介助が必要な方、衣食住すべてにわたって介助がないと生活できない方です。職員やほかの患者さんや家族への暴言が目立つ。

Nのヒストリーの概要

外地で6人兄弟の6番目の子どもとして生まれ、2歳で帰国、海辺の地方都市で育ちました。地元の女学校を卒業し、軍人だった夫と見合い結婚をして、3子をもうけていらっしゃいます。戦後、夫の収入がなくなって、教師として働き、40代で夫の死後、子ども、家族と暮らしていました。

回想法を応用した心理療法経過

回想法を応用した心理療法の経過ですが、場はベッドサイドで時間は1分から大体20分、非常に重症の方でしたのでほぼ寝たきり、様子を見ながら、寝ていらっしゃればすぐ帰るというときもしばしばありましたし、調子がよければ20分ぐらいお話をすることができました。

初期にはこちらをするどく観察し、容易には受け入れてもらえない。「あんたは全然だめ」と言われました。「あんたはちっとも助けてくれない」、それから「あんた変」というふうにも言われました。いろいろ言われて印象に残っていることは、「あんたは上半分が女で、下半分が男」と言われたことがすごく印象に残っていて、なかなかするどい指摘だなと、妙に納得してしまいました。

通っているうちに徐々に信頼関係が芽生えて、ある日「あんたどこに行ってたの?」と言われてびっくりしました。私が私であると認識できない。それから2回目に行っても、5回目に行っても、今まで来た人だと認識できないという方だったので、「どこへ行ってたの?」と言われたときに、「えっ、覚えていてくださったんですか」と言ったら、「何をおっしゃいます」と。乱暴な口調が突然淑女のような穏やかな口調に変わったその瞬間も印象的でした。

そして、調子のいい日は回想に話が及ぶこともありました。でも非常に困難を感じながらかかわっている中で、家族の方に写真を借りました。幸い写真が何枚かあって、それを1枚ずつ持っていきながら、恐る恐る写真を片手に話しをしていました。上の写真は先生だったころに、子どもたちを海岸に連れて行ったときの写真だそうです。当時の学校ではよいお歌しか歌ってはいけなくて、流行歌を歌ってはいけなかった。それでは子どもが窮屈でかわいそうだと思って、私は全員海岸に連れて行って、「思いっきり流行歌を歌いなさい」と言って、みんなで歌って記念写真を撮ったのがこの写真だということでした。右側が軍人だった夫の写真、左が結婚式のときの写真で、真ん中の下が子どもの写真、右が若かったころの子どもとご自分の写真です。

自作の俳句を味わいながら

俳句をつくる方で、俳句も家族の方が貸してくださったので、これもだめもとで、大きな紙に見えるようにと思って、一句一句プリントして持っていってみました。そしたら覚えていらっしゃったのです。俳句というのは私はつくらないのでよくわからないのですが、創作する過程の中で何回も何回も推敲し、それから出版されるような句集ではないですけれども、簡単な句集としてまとめておられたので、恐らくその後も何回も何回も読んでいらした。そういうことがあったのか、「時雨空の暗さを我も背負いて待つ」、「どういう意味ですか」と聞いたら、「あんたこんな意味もわかんないの」と、罵倒され、「これはこのままの意味よ」と言われたので、もう一度味わってみますと、いかがでょうか、皆さん。「時雨空の暗さを我も背負いて待つ」

次は「百千の杉黙したり秋白し」、「これはどこだったか」と言って、しばらく黙った後、「秩父、杉はまっすぐできれいでしょ」とおっしゃいました。

「秋深し孫温もりを残し去る」、これは孫が遊びに来てにぎやかで楽しかった、帰っていった後、シーンとなった自分の腕の中にさっき抱っこした孫の温かさが残っていたという、そういう句だそうです。

それで、いろいろ話を伺ったもの、これも極めて原始的な、借りた写真をカラーコピーして、それから聞いた話を打って、クリアファイルにはさんだだけのものなのですが、これをご本人、ご家族、それから病棟のスタッフに渡しましたところ、家族の方は「自分さえも初めて聞く話を、このぼろぞうきんのようになってしまった母親からよくぞ聞くことができた」と言ってくださって、その後、自分で自分とお母さんとの思い出を家族が思い出しながら記録をするということを始められて、それがほんの一部のものです。

事実がわかっていれば、事実に関する情報があれば、話の手がかりとして活用できるので、これは非常に助かりました。例えば犬を飼っていたというふうに聞きますね。普通はそれしか情報がないと、「どんな犬を飼っていたんですか」と聞かざるを得ない。でもその犬の名前が「タロウ」だったというふうにわかれば、「タロウという犬を飼っていたんですね」、それが例えば柴犬だとわかれば、その写真を用意して「タロウ」というふうに話しかければ、そこでただ何の情報もないままに思い出を聞き取るよりは、はるかに豊かなやり取りが可能になる。

回想法でこの方の場合にはこのような経過でした。

まとめ

それで輝いていた時代の記憶を聞くということばかりが意味を持つのでは全くないと思います。セラピーではむしろ傷ついた時代の記憶とか、それが変化していくプロセスが大事なのであって、輝いていた時代の記憶というのは、ある意味では誰でも聞けるものだと思います。むしろ丙種合格で屈辱的な思いをした、そのときの思いを今、どのように自分の中に腑に落ちるものとして統合していくかということが私たちに課せられた難しい課題になります。裏を見せ、表を見せて、散るもみじ、まさに年配の方が語られる思い出というのは、光あれば影があり、光ばかり聞いていれば光しか、光しか聞かないぞという姿勢でいけば、相手は光しかお見せにならないし、それからやたら影が好きな人には影ばかりを見せる。これは聞き手と話し手のそこで生じる関係性というものの影響は非常に大きいと感じています。

寺子屋回想法

ここからは話が変わりまして、寺子屋回想法、世代間交流の回想法についての話題になります。

寺子屋回想法は、世代間交流としての特に何か症状を治すとか、問題を解決するということではありません。私の知り合いのお坊さんがいて、昔からの友人のお坊さんが子どもの教育の現状を憂いて、自分の寺で寺小屋をやりたいというふうに、久しぶりに再会したときにおっしゃったので、「そこにはお年寄がいたほうがいいわよ」と、無理やり強引に言いまして、「なるほどそうかもしれない、じゃあ一緒にやりましょう」ということで、この寺子屋回想法開催の運びとなりました。決まったのは瞬時にして決まったのですが、準備には1年ぐらいかけて、どういうふうにしようか、どうやって呼びかけようか、中身はどうしようかと、相談しました。

これは寺子屋回想法をそのお寺で2回やったのですけれども、第2弾、小さい子どもから年配者まで集まって、粘土遊びをするような感じで、まずは和菓子をみんなでつくった。そこでお茶会をしたいというふうにお坊さんがおっしゃった。それは真言宗のお寺だったので、みんなの願いを護摩木に書いてもらって、それをお坊さんが焚いてくださった。護摩供養です。あそこで後ろのほうでは、その子どもたちや年配の方たちの後ろではお茶の先生が献茶をしているという絵です。お茶の世界も昔は多くの人がお茶を習っていたのに、このごろはお茶をやる人が減ってきているし、年配者、女性がふえてきていて、本来のお茶に立ち返って一緒にやりたいと賛同してくださった武者小路千家さんのチームの方が参加してくださいました。

お寺の部屋でもてなし、もてなされるということを基本にして、それぞれ自分のつくったお菓子を交換し、お茶を子どもがおとなに、お年寄が子どもにというふうにふるまい、ふるまわれるという具合でした。とても簡単なステップで、電子ジャーからお湯をザーッと注ぎ、シャーッと混ぜて飲む。それだけのステップです。ですからお茶をやったことがない人でも恐がらずに参加できるということで準備してくださいました。

何事もそうだと思うのですが、結果的にシンプルなしつらえにするためには、その準備たるや大変なもので、朝から武者小路千家さんのたくさんのボランティアさんたちが周到な準備をしてくれましたし、それから先ほど和菓子を粘土のようにつくればいいと言いましたけれども、そうはなかなかいきませんで、これについても和菓子職人が協力してくれまして、あたかも自分でいいお菓子がつくれたかのような体験ができるように、前もっていろいろだんごをつくってあったり、それにただ飾りをつければいいような部分が準備されていたりということで、このときは時間も限られていましたので、そのようにして行いました。

掛け軸をご覧ください。「ゆうゆう」と書いてあります。それだけなんですけれども、小さい子どももいるから、ひらがななら小さい子どもが読めるでしょうといって、そういう掛け軸を用意してくださいました。お茶の世界というと小難しいことがたくさんあって、何の茶せんより何の茶せんのほうが立派であるとか、何とかという、その世界は全く間違っていると、若宗匠も多分そう思っていると思うのです。千利休の時代のお茶というのはそんなものではないと。あまりよく知らないので、やめます。

切腹させられる世界、男の世界、それから新しいチャレンジの世界で驚かせる世界だったのだと思うのです。本当はワクワクしたり、ドキドキしたり、後ろには死があるというような、そんなことを意識して説明してやった茶会ではないのですけれども、でも本当はそういうものです。

お坊さんが写っています。これが武者小路千家の若宗匠です。最後まで残った人で集合写真を撮っています。

寺子屋マサイ回想法

寺子屋マサイ回想法です。これはケニアのマサイマラで行ったものです。私は上智大学で教える前は大正大学という大学で教えていたのですけれども、そのころケニアにはまっていたというほど頻回に行けたわけではないのですが、行った話を学生にしましたところ、大学院生が「行きたい、絶対連れて行ってください」と言うので、軽はずみにも「では行きましょうか」と言ったらしいのです。忘れてくれないかなと思いながら、私は文化人類学が専攻ではなくて、一応臨床心理学というのはいろいろ教えなくてはならないことがたくさんあって、ケニアに行っている場合ではないというのもあり、それからもし何かあったらどうしようと、ちょっと思ってしまったりしたら、ある日、夜のゼミの後、休憩時間に学生が私のところにやってきました。「先生、ケニアはどうなったのですか。私たちはバイトをして貯金をして、ケニアにどうしても行きたい」と言うので、学校の授業があるときに教官が学生を連れてそういうところに心理学で行ってどうかなと思い、講義が終わった春休み、卒業式と修士論文とかを出し終わったその狭間に、大学院生有志、ゼミ生有志とケニアに行きました。

これはマサイマラの小学校で私たちを歓迎する歌とダンスをしてくれたところです。ケニアではマサイ族の長老と寺子屋マサイ回想法というのを開催しました。といいましても、私はスワヒリ語も話せませんし、マサイの長老もスワヒリ語を話せません。マサイの長老はマサイ族の言葉しか話せないので、間に2人通訳が入ってくださったのです。私が例えば「こんにちは」と言うと、それをまず日本語からスワヒリ語にある人が直し、それからそれをさらにスワヒリ語からマサイ語にある人が直し、「ようこそ」とマサイの長老が言うと、それをまたその逆に間2人を通る。すると複雑な話になると、通訳を通っている間に自分たちで納得して訳してくれなくなってしまうので、「訳してください」と、何回も何回も言いながら、2人の通訳を介して行った会合でした。

マサイの長老は、片手に杖、片手にこん棒を持って会いに来てくれました。この片手に杖、片手にこん棒というのが私はすごく象徴的だなと思っているのですけれども、高齢者ケアにおいても、片手に杖を持ち、片手にこん棒を持つ年配者にどうなってもらうかというのが私たちの使命だと思っています。杖のことは全員が考えていると言っても過言ではない。どうやって支えるか、支える手段をどうつくるか。そうではなくて、このマサイの長老たちはよろよろする足取りで、片手に杖を持っているけれども、片手にしっかりマサイのこん棒を持っている。ここがポイントだと私は思っています。それでライオンがいつ出てきてもいいように自分の身は自分で守る。とても硬い材質でできた、頭を殴られたら死んでしまうような杖ですけれども、両方を持っているというところがすばらしいと思いました。

マサイの長老は今の私たちがあした報告書に書けるようなとか、あした何かの役に立つような話をしてくれなかったところが一番学生が感動したところで、子どものころは今よりもっと自由で、この一帯はのどかなすばらしいところでしたと。広い土地で悠々としていましたと。野生動物とマサイが共存して暮らしていたのです。当時、自分たちが子どものころに、中央政府のチーフが、まだ英国領だったときに、学校に行かせなければいけないということで学校に送ろうとしたときに、「子どものころ、長老が『学校なんかに行ったら大変なことになる』と言って、森の奥深くに自分たちを隠してくれたので、私たちは学校などというところに行かずにすんで、それはそれは自由でのびのびとした子ども時代を暮らしていた。どこででも自由に暮らすことができた。どこに住むのも自由だったので、数年間は川のそばで暮らしたかと思うと、数年間は山の上に行って暮らしていた。子どものころはもっとゆっくりゆっくり時間が流れていて、自分たちはゆっくりゆっくり大きくなりました」と言っていました。

これはもちろんマサイの子どもたちのことですけれども、「それに比べて今の子どもたちは早く大きくなってしまってかわいそうだ。どんどん成長させられてしまう。まるでトウモロコシのように」と言っていました。

老いや死についても聞いてみたのですけれども、「死にたい人は誰もいない」と言って笑っていました。でも神ではないので死ぬのは自然なこと、体と魂は土の中に、そして子どものところに行きます。人が死ぬと牛を殺して葬儀の儀式を行います。牛というものがものすごくマサイの生活の中で大切で、牛がすべて、牛を着て、牛を飲んで、牛を食べて、牛でつくった家に住む。牛の糞でつくった家に住んでいる。マサイは女が家を建てるわけですけれども、なので牛は人よりもいい土地に住んでもらっていた。川のそばの一番いいところは昔は牛を住まわせていて、人が住んでしまうと汚してしまうので、牛をそういうところに住まわせていた。

若い世代へのメッセージとしては、最近はマサイの村にもいろいろな外来の文化の影響がやってきて、トタンの屋根がふえてしまった。「どう思いますか」と聞くと、「私たちは伝統文化がいいと思っているけれども、でも将来のことは若い人が決めることだから、私たちが口出すものではない」と、きっぱり私たちが会ったマサイの長老は言っていました。

これから先の希望を聞くと、奥さんが5人ぐらいいる人や4人の人や3人の人がいたのですけれども、「妻はもういい。牛をもっとふやしたい」と言っていたのも印象的でした。年はわからないのです。時計もしていないし、カレンダーもないので。聞くと200歳と答えてくれるのですけれども、実際には200歳ではないと。それで子どもとか孫の様子から判断すると、多分70ぐらいかなという感じでした。

学生たちはそれぞれに感想を書いてくれたのですけれども、ちょっとだけご紹介すると、「マサイの人はとにかく牛を大切にしていて、ライオンはお腹がすいたら活動を始めて、動物は手ぶらで国境を越えていた。私は日本にいて、社会の仕組みや人間関係、お金のことも食べ物もとにかく複雑に思えて苦しくなることがあるけれども、マサイの長老が話してくれた生活には今まで感じたことのないシンプルさがあって、何だかすごく安心した。そこには必要な物、事だけがあるようだった。これから始まるピカピカした一日を約束しているような朝日と、キラキラしたあしたを約束しているような夕日を毎日ゆっくりとながめながら、私は大切なみんなのことを考えていた。働き過ぎのあの人、だらだら悩んでいるあの人、そしていつも動物の特番を見ている祖父を今すぐ連れてきたい。それは無理でもいつかは行くと思わせるように上手に話したいと思っていた。でも、実際マサイマラで見たすばらしい景色も、大切な長老の話も、初めて感じた大切な気持ちも、ありきたりで安っぽい言葉に聞こえてしまいそうで、ちゃんと話せていない。それほどに素敵すぎる場所マサイマラ。シンプルな心でまっすぐにいたい。そうしていれば誰に対しても、何があっても、堂々と生きていける気がした。マサイの長老様、本当にありがとうございました」、これは私のゼミの学生ではなくて、京都のほうの大学生です。何か話を聞きつけて行きたいというので、「どうぞ」と言って一緒に来た、心理が専攻ではなくて環境を専攻にしている学生ですが、それがマサイの回想法です。

これが集合写真で、真っ黒なのでよくわからないと思いますけれども、長老とその長老の息子さんが混じっています。後ろのほうにいるのがゼミ生で、手前の一番左が通訳をしてくださった方、右から2番目の男性と一番左の方が通訳で、現地に住んでいる人です。左から2番目は飛び入りで、ちらっと知っていた知人で、環境系のNPOをやっている人で、行きたいというので「どうぞ」と言って参加した人です。

寺子屋ネイチャー回想法

 これは八ヶ岳で、いろいろな人たちで集まってやったものです。このときには三浦ドルフィンズ、三浦豪太さんというモーグルのオリンピックの解説をこの間のトリノでもしていましたけれども、お父さんが70歳でエベレストに登った三浦雄一郎さんで、その息子さんの豪太君のチームと縁あって一緒にやろうということになって、八ヶ岳で一泊泊まりでやりました。いろいろな変わった人たちが地元にもいて、冷蔵庫に昆虫の幼虫をいっぱい培養しているというような虫博士とか、植物の生態に詳しい人とか、いろいろな人がごちゃごちゃやいのやいのと寄ってきてくれて開催したものです。みんなで山菜取りをしたり、ゲームをしたり、それから小グループで回想法的時間を持って、いろいろな体験や思いを分かち合ったり、また夜はあやしげなバイオリン弾きがやってきて演奏をしてくれました。この人は本当は弦楽器の製作者の方で、この人の楽器を何年も待っているプロがいるというふうに聞いているのですけれども、ご自分は趣味で演奏をしている方で、ご好意で集会場で演奏をしてくださいました。

 ちなみにこれはジョンソン&ジョンソン社会貢献委員会というところのスポンサーシップを得て行った活動です。

思い出の「家」回想法

 最後に、思い出の「家」回想法ということについてさらっとご紹介したいと思います。

 これはまだ途上のものなので、本来こういう場で発表すべきものでもないかと思うのですけれども、きょうはクローズドのグループであるということで、まだ途中のものですけれども、年配、高齢者の方に思い出の「家」について話していただき、それを千葉大学の建築学科の大学院生たちがビジュアライズしてくれるという企画です。その千葉大の建築科の学生は、これも偶然会った人ですけれども、ある日、私のところにやって来て、修士論文で回想法をテーマに高齢者について取り組みたいと、これは数年前のことです。大学院を卒業して研究生のとき、3年ぐらい前に来た人との縁でこういう会を企画しました。左後ろに写っているのが伊藤アツシ君という千葉大学建築学科大学院2年生の人です。

 これは東京都の新宿にあります「ユリノキ」という私どもの関連の、大学とはまた別の慶成会老年学研究所というのにかかわっているのですが、その関連のクリニックの部屋です。

高齢者にとって、思い出の「家」

まず、第1回目のときに、思い出の「家」、一番なつかしい家について、建築の大学院生と年配者と臨床心理士とが3人が1組になって聞き取っていくということを行いました。けれどもなかなか話がまとまらないのです。拡散していくのです。思い出の「家」というふうに聞いても、家族の話にいったり、亡くなった両親の話や、ある時期住んでいた別の家のほうに話がいったりして、終わったときに私と一緒のグループにいた大学院生は、頭を抱えて混乱したというふうに言っていました。ある方は昔の家の写真が残っていて、それを家族が持ってきてくださいました。土建屋さんだったと、自称土建屋です。広い家に住んでいて鳥居があった。その鳥居というところから「隣の家にはね、おばあちゃんが住んでいて、そのおばあさんが恐かったんですよ」と。具体的な写真の中のある物から出発して思い出が語られてきました。塀の下にちょっとした隙間があって、自分の家で柿の実や栗の実がなると、「お嬢ちゃん、柿をよこしなさい」と言うのだそうです。驚いて、物をもらうのに「よこしなさい」と言われて、子どもながらに恐いし、渡すと、「もっとおよこしなさい」と言われて、何だと思いながらまた渡すと、「おりこうさん」と言われたそうです。「ありがとう」という言葉はその人にはない。何かとても偉いお家の奥様で、口調が常にそういう感じだったというところからまた拡散していくというか、発展していくというのか、思い出は限りなく広がるということで、この方の担当になった建築家の学生も同様に頭を抱えていました。どうしたらいいんだろうと。

 そんな中でこんな図面にしてみたり、聞き取ったことを文字にしてみたり、それからその話の最中には、「今、私の読んでいる本はね」と言って、かばんの中から本を取り出す方もある。その本の内容がまたすごいのです。「ヨーロッパメディアから見た日本の政治」とか、何かそういう本で、また大学院生は頭を抱える。私は家の図面を起こさなければいけないのだから、何センチとか、何メートルとか、そういうことが聞きたいのに、話はあちらこちらにいく。その中で唯一この方だけが息子さんが付き添ってきていた方で、そのチームだけはその息子さんがここの棚は何センチだったとか、何メートルだったとか、何畳だったとか、非常に客観的な情報を息子さんが提示してくださったおかげで、1時間終わった後、その院生だけは「すぐに模型をつくれます」と言って、胸を張っていました。それがこのチームです。

 第1回目でおよその話を聞き取って、2回目のときにこういうざっくりとした模型をつくってきてくれて、そのときに内装、ここにふすまがあったとか、戸棚があったとか、どういうものがあったというような話を聞いて、それをまた書き込んでいく。

 途方に暮れたこの彼女は、前に見ていただくとわかるように、エピソードが時代を越えて転々とするので、コラージュという形で2回目のときに持ってきてくれました。2回目にはおおざっぱなコラージュと図面を手がかりにして、より詳細ななつかしい思い出についての情報を得ることができて、大分ほっとしていた様子です。こんな感じで持ってきてくれました。例えば庭にヒマラヤ杉があったと。どこから見つけてきたのか、ヒマラヤ杉の写真、ヒマラヤ杉はいいなと思って植えたら、植木屋さんに「これは庭木ではない」と言われて、ものすごくぐんぐんぐんぐん伸びてしまって、最初3本植えたのだけれども今は1本だけ残っているとか、この方は今、住んでいる家が一番の思い出の「家」だという方で、実はこれが一番厄介だったのです。今、住んでいる家は結婚して以来、数十年住んでいる家で、家自身の中身が変化している。家族も変化している。それで長女がこのとき出ていって、帰ってきて、留学して、出たり入ったりして、上が子ども部屋だったけれども、受験のときは下にきて勉強して、アコーディオンカーテンで仕切ってみたりとか、話の時空を越えて錯綜するし、実際に現実もどんどん変化していた今の家というものを表現しなければいけない人が一番苦労しているところです。それでも2回目にはこれぐらいのものをしました。

 それから、鳥居があって、柿を「およこしなさい」と言うおばあさんが住んでいた人は、物語が非常に豊かだったので、学生の伊藤アツシさんが新潟県の信濃川、自分の家から花火が見えたという、その話をもとに絵をかいてきてくれました。この絵だけではなく何枚も絵をかいてきてくれました。「そうなのよ、そのとおりなのよ」と言いながら、立ち上がって説明をしてくれた。そのうちにだんだんと話を聞きながら、鳥居が実は3つあったとか、ここには池があったとかということで、2回目のときに話を聞きながらパーツつくっているという状況です。

 大体これで終わります。

思い出の「家」の記憶

思い出の「家」回想法といっても、年配者にとっての思い出の「家」は、この場合、3人だけだったのですけれども、一人は子どものころによく遊びに行っていた祖父母の家が思い出の「家」だという人、それから子ども時代に自分が住んでいた家という人、それから今、暮らしている結婚後の家と言う人、それから今、暮らしている結婚後の家という人、3人でも全員違う家を話していたのが印象深かったです。家の思い出に伴う物語を中心に語る人もいれば、家を客観的に語る人もいれば、主観的に語る人もいる。部分の記憶から全体に向かう人もいれば、むしろ全体から部分に向かう人、人、事、物の思い出の比重が人それぞれ違う。長く暮らした家ほど記憶が、あるこのときというものに同定されないので、フカク化するのはかなり難しい面もあると思います。

記憶を未来に送る営みとしての回想法

それで記憶を未来に送る営みとしての回想法ということで、記憶障害を持つ方の記憶、残っている記憶にも意味があり、きょうの記憶力が一番、記憶を今ここで語ることによって共感し、未来に送る意味は大きい。これをエピソード記憶の意味記憶化、繰り返し繰り返し語るプロセスの中で意味記憶化されるのだというふうに説明している研究者もおります。

 最後に、“SO WHAT?”ということなんですが、だから何なのさという思いもありながら、ヒストリーの語りとか、歴史や伝統の伝承とはとか、家がその人にとって持つ意味とか、そういうことについては私には答がない。伝統とか、歴史とかいいますと、多くの人は革新の連続というかっこいいことを言うわけで、事実そういう面もあるのですが、しかしながら、家というものが負ってきているいろいろなものの中には、概念的にはいいとわかっているがそれは負担だというようなものもいっぱいあるわけで、伝統とは犠牲の連続という気もします。

 以上で私の話は終わらせていただきます。

 ご清聴ありがとうございました。




討論2

●野島  どうもありがとうございます。

今、3時10分ぐらいですが、4時ぐらいまで適宜好き勝手に議論をしていきたいと思います。

寺子屋シリーズというのは、あれは一連のものなんですか。「寺子屋」と頭についているのは。

●黒川  最初に寺子屋回想法として、一連のものというのはシステマティックなものではないのですけれども、自分の中では一連のものですが、人にとってはばらばらなものです。

 次にやるのは寺子屋植樹回想法です。みんなで木を植えようということで。

●南  対象の方は認知症の方ですか。

寺子屋シリーズは違うのですよね。それはどういう狙いですか。

●黒川  やろうと思った動機は、私が患者さんと今までの十数年、回想法をしてきた中で聞いてきた話によって受けたインパクトがあまりにも大きくて、何だかこれを分かち合いたいという強い思いにかられたという、とてもお節介根性があって、中学校とか高校とかに行って、老いについての授業をしたりしてきたのですけれども、その一連の流れの中で、街の中の普通のしつらえの中で、いろいろな場を変えていろいろな世代の人が自然に交わるようなことができたらいいなというものです。そこでは何かを学び合う必要もないし、すぐに何かを得る必要もないし、無理に伝承する必要もない。

だけど今、中学校などに教えにいってみると、驚くほど年配者と接したことがないという子どもたちがふえていて、そもそもお年寄がどういう体験をしてきたか、何もそんな壮大な体験である必要もなく、朝起きてからまず雨戸を開けたというような日常的な体験さえも触れたことがないというのは残念なことかなというふうに思ったので、お節介なおばちゃんがそういうことを考えてやって、何か10年とか20年ぐらいして、「寺であんなところに行ったな」と、それぞれの形で思い出してもらえたらそれでいいなと思ったのですけれども、実際のところはふたを開けてみましたら、若い人たちすぐに集まるのです。私が大学で教えているとか、そういうせいもあるかもしれないのですけれども、出たい出たいという若者はすごく多いのです。自分を高齢者と思っている高齢者は極めて少ないので、むしろ年配者に来ていただくほうが常に苦労しているという現状があります。

●南  ネイチャーのほうはどういう人、ネイチャーのほうは世代が……。

●黒川  ネイチャーのほうは大学生ぐらいから80代ぐらいまでの方たちです。小さい子はいなかったですね。

●南  それは高齢者が何かネイチャーのトピックごとに何か語るべきものを持っていらっしゃると。

●黒川  特にそういうことはないです。自然の中で集まろうというぐらいのもので、でも実際、自然の中を歩いていくと、そこにはものすごくたくさんのものがある。風、雲、光、それだけでも年配の方はいろいろなことを思い出しながらひとり言を言ったり、自分の体験を思わず語っていたり、山菜を摘んで、それをどう料理するか。天ぷらにして揚げたのですけれども、そういう東京の寺とかビルとかではない場所でそういう自然の中で交流を持った体験ができたらいいなというのがありました。だけど自然に触れればいいかというと、そういうことでもなくて、三浦豪太チームは結構自然といっても極まった人たちで、死ぬ覚悟で山に登っているのです。やはりそういう存在がいたということも大きいような気がするのです。

だからいつも言われてしまうのは、「黒川さんだからできちゃうことで、特別なことでしょ」と言われると、そうかもしれない。でも私は無理やり何かすることはできないので、いろいろな人との出会いにどうしても恵まれてしまってきている中で、そういうことをやろうよということで、自分の中に枠があって、これを埋めていこうというよりも、何か偶然やっているという感じ、何かに導かれて偶然やっているみたいな感じなんです。それではだめかもしれないのですけれども。

●安村  普通、セラピーとかインタビュー法というのはいろいろルールがあったりするのですけれども、さっきのお話を伺っていると、そういうときに何か参加者にインストラクションというか、こういうことはしてはいけないとか、こういうふうにしてくださいとかおっしゃっているのか、それともそれは全くなしなのかということが一つ。

 それから、さっきのお話を聞いていると、お茶の大家の人とか、お坊さんとか、あとは三浦豪太とか、それなりの一流の人を呼んでいるじゃないですか。そういうことがキーになっている、そういうことさえあればいいのか、それとも何かそういう寺子屋法がうまくいっている仕掛けというか、その辺はどうなんですか。

 だから最初の質問は、つまりグループで勝手に集まってしゃべらせると、勝手にしゃべりたがるというか、そういう人も出たりしますよね。

●黒川  それはファシリテーターが入って、ある程度ルールの中でやっています。

●安村  あとは準備が最初はすごい大変とか、それの秘訣というのは何かあるのですか。

●黒川  準備はかなり大変でした。幾つもの全然関係ない種類の人たちが集まってやるので、おもしろいと同時にすごく大変です。だから下見に行き、いきなり山菜をむやみに採りにいきましょうというわけにはいきませんので、私たちは場所を全部下見をして、でもそれも季節によって何が生えているか、もうすべて摘まれているかもわからないことでしたけれども、その中である程度当たりをつけて、5グラムというのですか、それは決めて、一応のラインというのは決めていました。ある人と組むことがいいのかというのはちょっとよくわからない。別にそんなことはないと思います。ごく普通の学校とか、老人ホームとかにいろいろな世代の人が集まって行う活動というのもあるので、何もそうでなければいけないということはないです。

 徳島県で、きょうはご紹介しなかったのですけれども、この間に「寺子屋妖怪回想法」というのを1回やったのです。それは全くの市民グループ、徳島県吉野川町川島というところで偶然立ち上がった回想法の市民グループがあって、ある日電話がかかってきて、「黒川さん来てね」と。全然知らない人だったのですけれども、なんか電話の感じで行きたくなったので行ったのです。それ以来のお付き合いで七、八年です。そうしたらそのうちに市民グループが立ち上がって、そこはもう例えば名札でも寺子屋妖怪なので、一人ひとりの名前と妖怪の絵を手づくりでクレヨンで描いてくれてみたいな会だったのです。それで公民館でお酒一切なしのすべて手づくり持ち寄りの会食で、それは何々様みたいな人がいたわけではないので、それがなくてはならないということはないと思います。

●佐藤(浩)  何をどう聞けばよいかもよくわからない状態で、ともかく自分なりに引っかかるところがあって、自分のことから話せばいいかと思いますけれども、2002年に「ソウルスタイル」という展覧会をやったときに、家の中のものを全部写真に撮って、それを一つひとつ全部家族に聞いたのです。これは何、これは何と聞くと、相手の人は楽しく話してくれて、楽しくというのは変だけれども、僕は僕で全部記録を取っていくということをやったら、相手の人間というのはそれですごくよくわかる。お互いのコミュニケーションができる。その奥さんにとってみれば、家族よりも誰よりも僕のことが一番の理解者、一種のカウンセラーみたいな感じです。物を通して最大の理解者になった。それはそれで人を理解するということ、個人を理解し、その家を理解するというのはとてもおもしろいことなんですけれども、でもそんなことをやって一体何になるのという話になるのです。黒川さんの“So what?”と同じで、ある一人の人間のことをそんなふうに理解したとしても、そんなのは学問になるのかとか、一般化をめざすべきではないのかという疑問が一方で常にありました。でもそれは、これで韓国の一家族の持ち物がすべてわかったのだからそれでいいではないかと、これは学問だと、突き通しているのです。

黒川さんがやっていることも、自分の思いを話すということは誰でも楽しいに決まっていると僕は思っている。自分のことを語るのだから。だけど一方でそんなことを語ってはいけないのだと、個人的なことを公的な場で語るのはあまりいいことではないとか、そんなことをしてもしょうがないんじゃないかという気持ちは特に高齢者だったらあると思うのです。でもそれを“なんとか法”と呼んでしまうだけで、何か水戸黄門の印籠ではないけれども、正しいことみたいなお墨付きをあたえる、学問だと言ってあげると、何かいかにもそれで自分のことを話すという、楽しいことが善になる。その瞬間があるわけですよね。

 僕の場合も学術調査という意味づけをあたえて個人の思い出インタビューをやってしまっているのですけれども、現実には今の学問は、なんとなくそういう楽しみを引き受けられないような状況になっていて、だからこそこれは学問ですよと、楽しいことだって学問になりますよと言ってあげた瞬間に、みんなが発言できるようになるという状況がうまれるわけです。でもいっぽうで疑問はついてまわります。では、回想していくことで何をもってそれを治癒と言うのか?例えば過去を思い出せないようなお年寄が何か回想した。それは医学的に進歩なんですかというか、それをどう評価するか。病気で何も話せない人が会話ができるようになれば、周りから見れば確かにそれはある種の前進だから治癒と見てくれるのでしょうけれども、病気でもない普通のお年寄とか、普通の人が集まって何か回想する、回想し合うということを黒川さん的には、回想しないことと比べてどれだけよいことなのかということをどう説明するのかなあ。

●黒川  それは私、一番悩むところです。きょうまでそのことをずっと考えていました。結局“So what?”で何なのかなというところです。少なくともそれは正しいことではないかもしれないという慎みを持っていることが重要だとは思ってはいるのですけれども、多くの営みは何々、世代間交流なら世代間交流とか、回想法なら回想法という名のもとに、さもいいことのようになってしまっているという問題意識を強く持っていて、セラピーはまたちょっと違うと思うのです。

回想法を常にセラピーの中で全く全面的に押し出すのではなく、もちろん限界もありながら、現にあることで困っている方がいて、そのことが改善に向かうためにどのようにかかわれるかという中で、回想法を応用して、それが本当にいいのか、どうなのかということを瞬間、瞬間に吟味しながら語っていただかない選択肢も含むこととしてやっているという自覚があります。それがいつもよくいくか、わからないのですけれども、ただ、寺子屋回想法については私自身も、集まった人は楽しいと言うし、またやりたいと言う。

寺子屋植樹というのも徳島で妖怪をやったら、今度は植樹、ワンガリ・マータイさん木を植えようではないのですけれども、私が連載しているいい加減な「そとこと」という雑誌があって、そこにちらっと書いたらそれをやろうということになって、でもやりたいと思う地域の人たちがいて、それに一緒にかかわるのはいいことかどうかはわからないけれども、学問となると、ますますわからなくなってきて、私は大学で教えていながら、このためにこの研究をしてこれという、システマティックな頭が全然なくて、例えば学位論文、博士論文にして、何かやろうと思うことをやったら、気がついたらデータがあったということなんです。

 そう言うとちょっとあれなんですけれども、だから「学問とは何ぞや」というか、「これが学問か」という問いはすごく難しいけれども、私の中ではそれが学問でなければ学問としてしか認めてくれない場から撤退すればいいと、乱暴に言ってしまえばそれぐらいの気持ちは持っているので、何だか全く答が自分の中にもない、最も・・・的な課題だと思っています。

 「ソウルスタイル」については、あれはその場限りのものではなくて、私もインタビューとか、本とか、いろいろ読ませていただいて、家族についておっしゃっていることに随分啓発されたなと思っているので、答がここにあるとか、正解がないところのことをしているので、いつも悶々としているのですが、セラピーというものがそもそもそういう性質を持っているもので、それと逃げになってしまうかもしれないのですけれども、例えば認知症の方の現実を評価する方法でいくか、虚構の世界を受け入れるかとかいうようなところのものすごく曖昧なところでいつも落としどころを模索しているようなことで、そういうことぐらいしか私は今は答えられないので、またちょっと考え続けていきたいと思っています。

●安村  認知科学会の会員なんで、アルツハイマーとか、あとは認知症という言葉は私はあまり好きではないのですけれども、いわゆるアルツハイマーテストとかいうのがありますね。そういうので例えば回想法をやったときと、やる前とやった後で改善の効果が見られるとか、そういう可能性はあるのですか。

●黒川  それはあります。それはもう数百という論文があります。私も学位論文はそれで書きました。常に全員に一定の変化が生じるわけではないけれども、情動的な側面において優位な改善というものを報告している論文はたくさんあります。

 私が研究を始めたころには、痴呆症でも認知症でもアルツハイマーでも、呼び方はさておき、それに対してセラピーをすることはナンセンスとみんなが言っていました。それは今、私を一番バックアップしてくれる人さえもそうでした。はっきり覚えているのですけれども、東大病院の医学部の講堂で行われた講演会、いろいろな人を集めて啓蒙的な講演会で、精神科のあるドクターがそのように言い切りました。私はそのときに裏にびっしりとそうではないという反論を書いたのです。そういう意味では自分のしていることや、自分たちがしていることが、常に正しい方向に行って、何かよい結果を生んでいるというほど傲慢ではないつまりですけれども、どうせわからない人たちだから適当にしとけばいいというような風潮に対しては、私ばかりではないですけれども、私や私の仲間たちは一石を投じることができたかなと思っています。

 それで、実際にそういう方たちと十数年お付き合いをして、いろいろな思い出を聞き取ってきた事例というのは、これまでほとんどなかった中で、何かそういうことをすることに意味があるというふうに今は確信しています。ただ、その方法とか、いかに、いつ、どのような人にということについては、十分にまだまだ検討していかなければいけない課題がたくさん残されている。

 それからもう一つ、話を聞くばかりではなくて、聞かないということのほうが実は技術がいることなんだなと、今、話しながら思ったのですけれども、セラピーで話をたくさん聞き取る、それが目的ではなくて、黙ったままほとんど何も語られず、何かがそこで生じるということも、ある程度はあると思っていて、浅く語りが少ないセラピーのほうが上質だと、極論で言えばそうだと思います。

●武井  最後のほう、思い出の「家」、あれにすごい興味があったのですけれども、というのは、思い出の「家」もいいのだけれども、思い出の「街並み」とか、そういうのはこれからのプランとしてお考えではないのですか。というのは、ついこの間、浦河に行ったときもあったのですけれども、浦河の街が今、道路の拡張工事や何かで街並みが全然変わってしまったのです。そしたら土地のじいさん、ばあさんたちが「俺の住んでいた町はどこに行ったんだ」というようなことで、急激に認知症の度合いが悪化した人がふえたとか、そういうのを聞いています。

 それだけではなくて、僕自身は個人的にたまたまそういう何症例か、劇的に置いてやる空間を変えた途端に、認知の度合いががたっと変わってしまうと。つまり一番早い話が病院に入院させると完全にぼけてしまうのだけれども、家に連れてきて、いつも座っているところに置いてやると、途端にしゃきっとしていつもどおりの生活ができるという年寄を何人も見たことがあります。

 そういうことからも随分前から、個人のアイデンティティというのは空間的な定位というものを含んでいて、だから空間的な定位を失うと、個人はアイデンティティを失ってしまうし、つまりは尊厳もなくなると思うのです。

 そういう意味から言うと、さっきの思い出の「家」というのは、それはそれで個人には意味があるかもしれないけれども、もう少し共同性とか、集団性ということを考えたときに、思い出の「街並み」というのはかなりおもしろい課題なんではないかと思うのですが、どうでしょうか。

●黒川  そうだと思います。実際に文京区の老人ホームであるときに、ボランティアの地域に暮らす方たちが中心となった回想法があったのですけれども、そのときに統合失調症の上に認知症が併発したという入居者の男性の方が、街並みについて話を始めて、でも記憶も確かではないし、いろいろな意味で思い出の「街並み」を再現することが難しかったときに、古くからその街に住んでいた年配のボランティアの方が、例えば「クリーニング屋さんの隣はお風呂屋さんだったですよね」とか言って、素人のボランティアの方なんですけれども、スケッチブックに思い出の「街並み」をその方と一緒に共同作業で再現してくださったことを今、思い出したのです。それはすごく意味があることかと思います。

 実際にそれを形として再現することがいいのか、イメージの中で共有するということがいいのか、人によって違うように思うのです。ご指摘のように古里にもう一度帰りたいといって行って、あまりの変わり果てた姿に愕然として帰ってきた方も何人も知っていて、そうすると、ではどういう形でそれを味わいなおすのがいいのかというのは、ケース・バイ・ケースかと思います。ある山陰地方にある病院で、思い出の「街並み」といっても、一人ひとりに再現することはできないので、ある廊下をなつかしい「街並み」にしつらえて、それも今やっている思い出の「家」回想法を一緒やっている千葉大の建築科の教室が協力をして、そこで何が起こるかということをいろいろデータを取っているようなんです。きのうかおととい、その学生からメールをもらって、非常に劇的に状態がよくなった人がいて、それをどういうふうに効果を学問的にプレゼンするかということでやはり悩んでいまして、その相談を受けたところでした。

●野島  そのアドバイスは。

●黒川  それはかなり具体的に認知症効果評価のスケールにはどんなものがあるかという話だったので、それは観察評価スケールと本人にやってもらう評価法とあって、本人にやってもらうのは難しいだろうから、観察評価スケールだったら過去のその時点の看護記録とか、介護記録とかを参照して、ある程度評定することができるのではないかというふうに一応助言をしたところです。

●武井  一言だけ付け加えますが、その街並みの問題を言いたかったのは、一つは過疎化ということはものすごく都市化が進んでいるわけですよね。それで例えば僕自身の個人的なことを言うと、生まれた家がもうありません。それから子どものころに知っていた親類の家も全部ないのです。しかも自分自身は大学に出てきて以来というか、高等学校へ進んだときから、高等学校から下宿をしていた関係で、転々といろいろなところに住んでいます。それから後は一番長く住んで6年ぐらいです。今、住んでいるところが一番長いかもしれない。

 そういうふうになってくると、そういう生活をする人というのは、僕だけではなくて今、結構ふえているのではないかと思うのです。そうなってくると、ある時期、あるところで、それがどういう年代かわからないけれども、そういうなつかしい街並みみたいなものを年を取って必要とする人たちはこれからますますふえるのではないかと思うのです。つまり田舎にずっと住み続けていた人たちだと、その浦河みたいなドラスティックなことをやれば別ですけれども、どこかに昔の面影というのはずっと連続していますでしょ。だけど都市だとそういうことが急速に変化していって、10年前に住んでいたところに行ってもわけがわからないということだって起こり得るわけです。そうなったときに、どういうふうにしてそういう街並みというか、そういうものを復元するかとか、そういうノウハウを今からつくっておいてもらうと、私がぼけるころにとても役立ってもらえるかなという気がするのです。

●黒川  今は昔よりはそういう意味でのいろいろな手法を使って、何らかの形で情報を残していくというのができるのかなという気がします。私はある街並みがずっとあることが本当にいいかどうかというのは、自分の中ではちょっとよくわからない部分もあって、この地球に建っている家はすべて仮設住宅というふうにもとらえることができますし、例えばパリの街並みは長いことそのままだとか言われても、最初にパリに行って街の風景を見たとき、私は大きな違和感を感じて、ここのどこがいいんだと思ったんです。すごくあまのじゃくだと言われるのですけれども、ある時代のあるものがそんなに長くそこにあることに価値を見出すことは絶対ではないなと、私はいやだなと、個人的には思ったことを覚えていて、今でもその考えは部分的には変わっていない。だけどいろいろな人がいるので、もしかしたら古里のなつかしい街並みというものがリアルな形で再現されるなり、残っているなりということのほうがその人の中でより強い・・・いらっしゃるだろうし、どうしても変化してしまっている東京に私は生まれ育ってしまったので、どこかであきらめているのかもしれなくて、結婚するまでは11回ぐらい引っ越したのですけれども、その後は定住してしまって、むしろ一カ所にいて、ずっとここにいるということがだんだん居心地が悪くなってきて、どこかに移りたいなと、最近思うのですけれども。

●佐藤(浩)  ちょっと質問ですが、認知症というのは伝統的な社会という言い方も変ですけれども、例えば20年近く全然景観が変わらないような社会があったとして、そういう社会でも認知症はあるのですか。武井さんが昔やっていたみたいなところでは?

●武井  アマゾンのことを言うと、まず認知症があらわれるような年齢まで生き延びる人はそんなに多くないのです。もちろん70以上のお年寄も結構いることはいるのですけれども、でも日本と比べたらやはり頻度的にはかなり少ないです。同世代で生まれた人たちのうち、70歳まで生きる人というのはすごく少ない。だからそういうところでいわば淘汰されてきたからだろうけれども、親とか、孫とか、いろいろ世代計算をして、どう考えても70から80はいっているなという人が何人かいて、その人たち、大概シャーマンなんですけれども、話して、認知症と思われるような兆候はほぼゼロです。それはやはりそれだけ淘汰に耐えてきた強い人ということもあるだろうし、それからシャーマンというのはある意味でそれこそこの研究会の名前ではないですけれども、メンタルにはユビキタスな人なんです。世界中を被いつくして、彼の精神が活動しているような人なので、一つ何かがあって相談を受けたら、彼らはそれを世界中を全部スキャンしますから。

●佐藤(浩)  知りたかったのは、特にこの近代に入って、どこでも急速に景観が変わっているわけですよね。それがこういう病を引き起こしたと、先ほどの武井さんの古い街、記憶の街を残してくれという叫びは、ある意味……。

●武井  僕自身がそうかどうかはよくわからないけれども、というか僕自身は動いてばかりだから、どっちかというと一カ所に長いほうが妙だったりすることもあるのです。両方あるのです。だけど浦河のお年寄たちの話を聞いてみると、恐らく結構そういう意味では急速に変わる社会に生きていながら、例えば家と会社しか知らないなんていう男性は結構多いわけではないですか。そういう人たちにとって見慣れた景色というのは、退職してしまったりすると、とても重要になってくるのではないかと思うのです。そういう意味でさっきお聞きしたのです。

 それで、一般論として言えるかどうかはわかりませんけれども、アマゾンなどの場合だと、確かに景観は変わらないと言えば変わらないのですけれども、でも変わると言うとすごく変わるのです。毎年毎年つくる焼き畑の位置が変わります。そうするとそこへ分かれてくる道や何かも新しく切り開いたりとか、あるいは隣の集落へ行く道などでも、雨の多い年があったりすると、そこを全部削り取って新しく道をつくらなければならないとか、ある意味では微妙とばかりも言えないけれども、結局いろいろ変化して、しかも彼らにとっては目印があるというだけではないですかね。

つまり僕らが車で走っていて、どこの標識を少し行ったらどう曲がればというのを覚えていたとしますね。次に行ったらそれがなかった。どうするか。そうしたらその近辺で探すじゃないですか。あるいは建物とか、そういうもので目印を見つけて探すじゃないですか。そういうふうにして定位していきますね。

 アマゾンの場合は、例えば外から行った我々にはジャングルはほとんど一様に見えます。だけど彼らにとってはすごく違うのです。だからむしろ環境は変わっても、彼らは僕ら以上に多様な木の種類とか、いろいろなもので目印を持っているので、僕らが見ているのと同じような意味で変わってないわけではないと思います。

●佐藤(浩)  要するにマサイのお年寄の嘆きと一緒のことを、基本的にはアマゾンのお年寄に聞いても同じことが出てくるという話になるのですか。

●武井  最近はそうなっていますね。子どもが学校に行くようになって、ものを覚える時間というのは全然なくなってしまいましたから、だから読み書きはできるけれども、

ジャングルで生活するのに必要な技術を身につけないで大人になる子どもが今はすごくふえているのです。

●野島  長浜さん、家の話は一言ありませんか。

●長浜  家もそうなんですけれども、街並みの話を実は非常に興味深く聞かせていただきました。ご存じだと思いますけれども、先だって住生活基本法という法案が国会を通りまして、これから住宅というのは街並みも含めて長期にわたって愛着のわく住まい、それからまちづくりというのは国が旗を振って進めていこうとしているわけです。ですからこれからはいや応なしに家は長持ち、それから街も長持ちと、そうすると先ほどの記憶に残る家とか、街とか、プライオリティーは高くなっていくのですが、街並みといったときに、それが残ってほしいと思っている街と、市民レベルで残してほしい街と、少しギャップがあるのかなという気もしていて、住宅メーカーはどちらかというと、いわゆる国が旗を振る方向に、いわゆる国が言うところの美しいまちづくりというところ・・・、ただ現状残っているさまざまな形の街、東京の街、それから郊外の密集した街並みとか、ニュータウンの街とか、いろいろな人たちにとっての思い出の「街」というのがあって、そこはどのようにしていけばよりよい未来が開けるのかというのが、我々メーカーにとっては非常に重い課題かなと思います。

 あまり答にはなっていないですけれども、以上です。

●南  Tさんの例のときだったと思うのですけれども、初期にネガティブな話が出て、中期にポジティブな話が出る。それは初期、中期というのは、認知症の初期、中期、あるいはかかわりになられた初期、中期、それはTさん以外の場合でもある程度そういうパターンがあるかということを1点教えていただきたいのと、もう一つ、Tさんの場合に「最後まで人格の確保を保持することができた」という言い方をされだきですけれども、ある意味わかるのですけれども、もう少しその内実というか、そもそも人格の格というのはどういうふうに見ていらっしゃるのかとか、それが保持できたということは具体的にどういうところを見ていらっしゃるかみたいなところを教えていただきたい。

 もう一つ、3つ目です。私も社会調査法などを教えているのですけれども、最近倫理問題がうるさく、もちろん個人情報保護法などがあるのですけれども、臨床の方の場合、こういう症例を紹介するということで、当事者にどういう形で承諾を得られるとか、その辺は最近どうなっているか、そのあたり教えていただければと思います。

●黒川  最初のご質問のネガティブからポジティブな回想法は、これはセラピーの経過とともにということです。重度になるとポジティブになるということではないです。

それから人格の格を支えるような幾つかの人生の物語が保持されたというふうに、人格の格とは何ぞやというのは、今、私が答えられるものではないのですけれども、その逆の例をものすごくたくさん見てきていますので、自分は一体誰かわからなくなり、あらゆる物語が失われ、無為、自閉と言われるようなことがこの方の場合はなくて、そして通常ものすごく不安が強くなると言われるのですけれども、とても安心して暮らしていらっしゃったということで、人格の格という、格を支えるようなご本人にとって大切な、ご自分の人生において大切な格となるような物語が幾つか保持されたという、そういうことです。

 それから、倫理的な問題については、臨床心理の世界は極めて厳しいので、私がこうしてこういう場で話すこと自体、あり得ないと思っている人が大部分だと思います。この患者さんさの症例については、全部同意を得ています。ご本人、ご家族、それから百歳回想法の場合にも、あれは本にしたのですけれども、何回もご家族ともやり取りをして、ご本人はおっしゃっているけれども、家族の記憶ではそこはこのように違っているというところのすり合わせ等は経ています。でも経たからいいというものではないので、そのことについては私はいつも大きなためらいを持ちながら、本当はこういう事例は幾ら了解を得たといってもご紹介すべきではないかなという気持ちもあるのです。でも、きょうご紹介した方たちに限って言えば、むしろぜひ皆さんにも知ってほしいというふうに、ご本人がおっしゃれる方はご本人が、そうでない方はご家族がということで、今回のことは了解を得ています。

●南  どうもありがとうございました。

●山本(貴)  回想法の話、とても興味深く拝聴させていただきました。

このセラピーというのは家族間でも簡単にできるのかというのをお伺いしたかったのですけれども、私の母はたまたまといいますか、5年ほど前に随分大きな脳出血の病気をしてしまいまして、半身不随になって、書くことができなくなりました。ものをずっと書いたりとかする人間だったのですけれども、目をやられてしまったことがあって、ワープロとか、書くことが苦手になってしまった。

母はずっと30年来、同人誌を毎月毎月ずっと仲間とつくっていて、それが大病をしたときに一時中断されるのは、母にとって復活した後に何もできなくなってしまったときの楽しみを奪ってしまうのではないかというので、その間は私が引き継いだのです。私が幼児期から始めていた同人誌だったので、昔、私が詩を書いたりして参加していた思いがあったので、間は引き継いで、母が目覚めて少し話せるようになってきた段階で、今度は母がしゃべって、それを私たちが記録して、同人誌に出していこうということで、家族みんなでやり始めて5年ぐらいは経っているのです。

それをやることによって私たち家族は母の考えとか、思い出というのを引き継ぐことができて、それはすごくラッキーというか、普通離れて暮らしていたりとか、一緒に暮らしていても、老いた母から思い出を聞くということはあまり日常ではないだろうし、そういうことによって私は間接ではないのですけれども、母の思い出を共有することができて、それはすごくよくて、そういうふうに家族間がなっていくとおもしろいなと思うのです。それはそういう特殊な場合だと思っているのですけれども、そうではなくて、そういう家族間でそういった回想法というのは可能なのか、やはり難しいのかというのは、何か事例でありますでしょうか。

●黒川  そういうふうにご家族がご家族の話を聞くというのが、本来の原点だと思いますので、それは何ら特殊なものでもなく、むしろそのほうが自然で、それが自然に行われているご家族というのはすごいなと思いました。

 それから、患者さんと家族が合同で一緒にしたときには、最初は家族のほうが元気で、若いし、それから記憶もしっかりしているので、ほとんど家族がしゃべっている。それはある程度予想はしていたのです。オリエンテーションもたとえ間違ったことをおっしゃったとしても、訂正していただかなくてもいいしということは一応申し上げてはあったのですけれども、ふたを開けてみたら家族同士がしゃべっている。それからご本人が何か発言をされたら、「違うでしょ」とか、訂正が多く入るということだったのですけれども、家族は家族ですごく不安を抱えておられて、間違いを聞き逃すためには精神のキャパがいると思うのですが、最初はなかなかそうはいかなくて、会を重ねるうちにだんだん家族が後方に引いていかれて、ご本人たちが語られたり、語ることがほとんど難しい重度の方は単語ぐらいしか発せられなくて、またご家族が補ったりしながら、そこでとても意味のあることだったと、家族は喜んでくださった例はあります。

 それからあとは、そういうのを見ている家族がお見舞いにいらしたときに、ある家族はこんなに大学ノート何十冊分、話を聞き取って、これは本当に自分たちも楽しいし、記憶の障害の経過を押さえる意味もあると思っている例です。逆にとても家族だから難しいという例もすごくあって、母親を他人に預けてボランティアをやっていた方がいたのですけれども、他人だから客観的に感情を揺り動かすことなく聞けると、そういう例もあると思います。

●山本(貴)  聞ける話も限界があって、例えば母の昔の恋愛の話とかは、家族は非常に聞きにくい。そうすると、重度なので家政婦さんが手伝いに来てくれている。その家政婦さんも高齢なのですけれども、その間で昔の恋愛話とかというのも語られて、それがまた私に来るみたいな感じになって、それはすごくいい例だなと思っているのですけれども、普通の家だとこういう方法を知らなかったりすると、なかなか定期的に聞くというのも難しいというか。

●黒川  そうですね。なかなか定期的に聞くニーズもなければ時間もないという差し迫った何かがあって、何かできることはないかしらと探した家族が回想法に行き当たる例はたくさんあっても、普通に暮らしている中ではそれぞれ忙しいので、なかなかそういうふうにはならないで、だけど一般的に、私は狭い狭い医療等の場でやってきたことを、そこを開いていくには随分時間がかかった。こういう場にお招きをいただいて話そうという、喜んで来たいと思うようになるにはとても時間がかかったのですけれども、でもそういうふうになってみると、専門出版社以外の一般出版社などで、家族が聞き取る親の歴史みたいな、そういうテーマで本を書いてくれないかということを言われることも、そんなことは思いもよらなかったり、方法がわからなかったりする家族もいらして、すべての家族に強いるものでもないとはもちろん思うわけですけれども、でもそういうことが意味があるかもしれないということがわかれば、もう少し家族の中での回想法といいますか、伝承というか、可能性はあるのかなと思っています。

でも、そういう自分は両親に一度試そうと思ってやってみたことがあったのですけれども、全然だめでした。まだそんなに年寄でもなかったということもあるし、それから夫婦間で何か食い違いがどんどん出てくる。それで娘の立場として、娘は親にはセラピーはしませんから、何かあれっという感じで、ちょっと何となくある時期聞いてみたことはあったのですけれども、今は父も亡くなりましたので、両親は無理ですが、もうちょっと母が年を取れば、最近は前よりは話したがり屋になっているので、・・・親子との関係・・・双方の準備性というのも……。

●野島  孫にやらせるといいとか聞いています。

●黒川  そうですね。孫だと以外に……。

●山本(貴)  脳障害をやってしまうと、結構しゃべりたがらなかったり、冬は閉じてしまったりとか、春になるとしゃべるとか、何かいつでもしゃべるという状態ではないので、こっちは同人誌の締め切りが差し迫っているというので、「何か昔の思いはないの?」みたいな感じで掘り起こすのですが、なかなかうまくいきません。鬼の編集者、そうすると、何か雛祭の思い出の話が出てきたりとか、そんなことがあったんだというのを、こっちは無理やり聞くことができる場があるからいいのですけれども、なかなか家族では難しいのかなと思ってお伺いしました。

 ありがとうございました。

●野島  なにかほかに。

 まだまだ僕も聞きたいことがあるのですが、一つだけいいですか。やはり工学的なほうの人たちに対して、いろいろできることがあるじゃないかみたいな話がありましたけれども、例えばその辺はすごく興味があるのですけれども、例えば今は昔に比べると、先ほどの街並みもそうですけれども、街並みの話というと、工学の人たちでバーチャルリアリティーでみんなつくってとかいう話になりますよね。それからあと、そうではなくても例えば先ほど犬の話とか、これからだったら例えば「犬のタロウが……」とか言ったとたんに、そのタロウがババッと出てきて、動画も出てきてみたいな時代になりますよね。そういうときは一体どうなるのだろうかというのが一つ興味があることです。

例えばあとは、この前、別の全然違うところで回想法をやっているという話を聞いたのですけれども、今の高齢者の方というのは、昔の本とかはいいけれども、我々の世代が高齢者になってくると、「タイガーマスク」のテレビがとか、あるいは「巨人の星」の話になったときに、テレビというのは著作権の問題でなかなか使いにくいとか、いろいろな話があって、なまじあったからいいわけではないみたいな話もあると思うのですけれども、だから2つあって、1つはこれからみんなが思い出をたくさん持つようになった時代の回想法というのは一体どうなってしまうのだろうかということと、あとは工学の人たちに対してこんなのをつくってくれたらうれしいなというのが、何か具体的におありですか。

●黒川  キーワードを幾つか入れるとパッと写真が出てくるとか、あるといいなというふうには思います。それこそ30年代の世田谷区瀬田1丁目の風景が出てくるとか、あると便利だなとは思ったり、何か工学系の方とも今、共同研究を言われて、ロボット、これもちょっとプロセス途上なのであまり詳しくは言ってはいけないみたいな契約書を書いたような、これから書くような気もするので、某研究所で回想ロボットというのをいろいろつくろうとしていて、はてなと内心は思いつつ難しい。もしかしたら最初から否定するよりは可能性を試してみたいほうなので、いろいろ試行錯誤しながらそういう回想  ロボットと会話をするということを考えています。だけどそれもよくわからないですね。何かパッパッパとキーワードが出たら、手軽にパッと飛び出てくる資料というもの自体がどうなのかなという思いもあるので、ちょっとよくわからないです。

 ただ、最初に病院で第1回目のグループをしたときには、全員の古里にちなむさまざまなものを、いろいろな郷土館とか、図書館とか、あちこち行って、すごい苦労して探して準備したことがあったので、今だったらそんなことはしなくても、もう少しその方の過去にまつわる情報が工学系の方の知恵で見られるかなと期待しています。

●野島  よろしいですか。

ではとりあえずここでクローズして、あとは懇親会の場で。

どうもありがとうございました。





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