思い出はどこへ行くのか? ― 2004.12.04 ―
ワタシをつつむ物の繭と表象の繭
菅原和孝(京都大学大学院人間・環境学研究科)
人間の身体を包むものの繭をほとんどもたないブッシュマンの人びと。パソコンもビデオカメラも、文字さえも持たない人びとは、出来事をどのように記憶し、伝えているのでしょうか。その秘密は身体にあります。ブッシュマンの人びとの日々の実践のなかに、近代というシステムの中でわれわれが得たもの、失ったものが見えてきます。
まず最初に教科書的なことをいいますと、人類学という学問の目標は他者理解なんですね。自分以外の他者をどう理解するか。特に社会人類学といわれているものは、人間が他者と共にいて社会的な存在であるという、そのことをなんとか理解したいという願いであり、ただそれだったら社会学と同じなんですが、その場合人類学は一つの独特なスタンスをとる。それは私たちが住んでいるこの近代というシステムの外側でそれを理解したいという望みなんですね。たとえ動物であれ、全ての他者たちにとって、それ自身から見たらそれは一つの「ワタシ」なんですね。私の飼っている犬だって、ある形では「ワタシ」性というのを持っていて、その「ワタシ」というのは非常に独特な世界に住んでいるという、その成り立ちを明らかにしたいというのが私がやりたいと思ってきた人類学であります。
私は子どもの頃東京のど真ん中に住んでいたんですが、なぜかひどく動物好きでありまして、その動物好きというのは一体何だったんだろうって遡行的に振り返ってみると、それは生命とかそういうロマンチックなものというよりも、むしろある種の形に対する熱中じゃなかったのかなと、ふと思い当たりました。私は幼い子どもの頃から「空の大怪獣ラドン」とかいった怪獣映画をこよなく愛して、そのころとしては珍しいまでに恐竜少年だったんですね。つまり形のグロテスクさへの熱中というのが動物学というところに結びついたんじゃないのかな。その発展形として霊長類学、つまりサルの学問というのに巡り会ったわけです。
私はこのサルたちに不思議な憧れを感じながらフィールドワークをやってきました。つまりサルたちには繭が全くないということですね。繭がないというのは、彼らは朝起きてあくびなどをしてぼんやりしたあと、サバンナに採食に出て、そして夕方になると別の泊まり場に帰っていってそこで眠る。サルというのは人間とほとんどそっくりであって、私たちの業界ではそういうのをすぐ「ヒトたち」といってしまうんですが、そういうヒトたちがまったく何も持たずに生きているということは、私にとっては不思議な憧れの感覚でありました。その後、霊長類学から転向して、いわゆる人類学に越境したわけですが、そこでいろいろな行きがかり上で調査の対象、ホストグループでとさせていただいたのは、いわゆるブッシュマンの人たち、そのなかでもグイと呼ばれるグループであります。
おそらくブッシュマンというのは、人間の身体を包む物の繭というのが極小の人たちでしょう。自分の身体で運べる物だけを携えて、食べて、しかものんびりくつろいで、そして眠るという、まさにシンプル・ライフですよね。そういうシンプル・ライフに対する得体の知れない憧れというのは、ブッシュマンの研究を始めてから二二年になりますが、、その間ずっと私を突き動かしてきたといっていいと思います。
それに比べると、私がまずスーツケースと機内持ち込みリュックとに入れて現地に持っていく物というのをやけくそのように書いていくと、この絵【図1】になるんですね。これは一番最近のフィールドワーク、今年の八月にどんなものを持っていったかなって全部思い返して、まったくプランもなしに書いて、A4の紙に一枚納まるのかなと思いながら書き出したら意外と納まったのでびっくりしました。たとえば、蛍光灯。これが活字中毒者である私の唯一の夜の灯りになります。それから必ず持っていく物が、タイヤ・ゲージとか。常に車のタイヤの空気圧を計っていないとえらいことになりますので、空気圧を計る小物ですね。そのバルブをゆるめるキーとか。必ず予備の蛍光灯を一本持っていくとか。そして今では本当に革命的に進歩して、もっと昔からこれがあったら私の研究はもっと精密なものになったろうと思うのがデジタルビデオカメラ。何よりすごいのはバッテリの性能がどんどん向上して、もちろん私のフィールドには電気がありませんので、日本で充電済みのバッテリと四、五本持っていくと一月半ぐらいの調査はできるというような感じですね。
これだけの途方もない物の繭で身を包まないと私はカラハリで生きていけないというのは実にふがいないことであります。私がたまたま柔弱軟弱な人間なのでいつまでも、物の繭をしょって歩いているんだけど、これはそぎ落とそうと思えばいくらでもそぎ落とせるんですね。理想的にはブッシュマンの水準にまでそぎ落とすことは可能です。それを実践している大学院生がいます。女性ですが、彼女は「菅原さんたちの実に軟弱なおじさん調査は私はいやだ」といって、さすがにテントだけはプライバシーの最終線ですから、それだけは持っていくんですが、あとは全部お任せ。彼らに食わしてもらうという生活を選択してきちんとやっています。物の繭をそぎ落とすということは、ぎりぎりまで鍛錬によって可能であるということです。
今日のテーマは「表象の繭をそぎ落とすことは不可能ではないのだろうか」ということです。表象とはなにかという話に移りますと、レプリゼンテーションという言葉は、記号という概念とはやや違いますね。心的な表象の話を最初にした方がわかりやすいと思うんですが、心的な表象というのは心の中に浮かぶいっさいであります。それが私にとって存在することは疑い得ないわけですね。たとえば私は絵が好きなので、パウル・クレーのひなぎくといえばパウル・クレーのひなぎくの絵が私の頭の中にはっきり思い浮かびますし、ドガの踊り子といえば浮かびます。決して表象は視覚イメージに限られない。「ベルリオーズの『幻想交響曲』の第四楽章の始まりのときにものすごいティンパニの音がするやろ?」といえば、そういうジャンルの好きな方は今頭の中にたぶん浮かんだと思うんですね。表象というのは視覚的であってもいいし聴覚的であってもいいし、あるいは嗅覚的であってもいい。いずれにせよ心的表象は存在する。だけど、心的表象は私にしか見えないという特質を持っています。これが人間の一番の悲劇だと思うんです。
究極の心的表象が夢です。「私はこういう夢を見た」と口で言うのはたやすいのですが、「でもそんなのは全部創作で嘘っぱちかもしれないじゃないか」といわれたときに証拠になるものがあります。それは夢から覚めた直後に枕元のノートにその夢の中で見たイメージをやみくもに書き記すことです。一九七〇年、大学一回生の冬頃から、延々と下宿で一日一〇時間ぐらい寝て夢日誌を書き記すという自堕落な学生生活を四年過ごしました。本来私にしか見えないはずの心的表象を私は絵にしたんですね。図像化したことによって、心的表象が公的表象に変換された。これが人間のコミュニケーションにとって決定的なことで、つまり私たちがコミュニケーションしているというのは、この公的表象を使っているわけですね。今私が垂れ流している音声言語というのも公的表象の代表選手であります。この表象能力というのはある種の動物にはもちろんあると考えられます。
その表象能力がもっとも見事に証明されているのは、東アフリカに広く分布するベルベットモンキーというサルで、このサルは三種類の警戒音を持っているんですね。一つは鷲が空高く待っているときの警戒音で、一つは豹とかハイエナみたいな四足獣が地上を近づいてきたときの警戒音。最後はニシキヘビが草むらを忍び寄ってきたときの警戒音なんですね。この三種類の警戒音をプレイバック実験すると、それぞれの警戒音の指示対象に対して実に適切な防衛行動をとります。鷲用警戒音だと空を仰ぎ見たり、藪の中に飛び込んだりする。それから豹用警戒音だと、豹は最初から樹上にいるんじゃなくて地上を接近してくる場合ですが、そのときには樹上に走り上って、豹の体重を支えきれないような小枝のところまでいく。それから蛇用警戒音を聞くとパッと二本足で立ち上がって草むらを見るというような形。つまりこれらの音声を聞いてこれらの指示対象をこのサルの心の中に表象しているのではないかという風に考えられています。
それからもう一つすごいのは、この地域に住んでいるムクドリも鷲を見ると警戒音をあげるんですが、このサルはムクドリ音の警戒音を理解していて、ムクドリが警戒音をあげるとパッと上空を見上げるということもわかっています。これだけすごい表象能力を持ったサルなのですが、実に研究者をがっかりさせることがあります。こういった実験を研究者たちはしているんですね。つまり豹の獲物はいわゆるレイヨウ類ですから、その中のトムソンガゼルの剥製をいかにも豹が殺して食い残したのを木の上に掛けてあるみたいな状況を作って、そこへベルベットモンキーたちがきたときに何をするかというのを観察すると、全然普段通りにしている。つまり「豹が近くにいるぞ」キョロキョロなどということは全然しないでのんきに暮らしているんですよね。彼らは危険を推論しない。つまりこのサルたちの知性の限界だという風に考えられました。だけど、もっと違う考え方をできるんじゃないかというのが私の立場で、つまり彼らの世界のあり方には、ガゼル↓殺す↓豹といったような表象の連結が存在しない。これは私はミッシェル・フーコーというフランスの哲学者の言葉を借りて「表象の脈網」と呼びたいんですが、そういったもののない世界に住んでいるのではないか。「それは推論能力のあるなしのことだろう」といわれるとそれまでなんですが、推論能力というよりももっと世界に生きる存在のあり方が違うので
はないか、ということです。
ブッシュマンには、実に「しるし」という言葉があります。ブッシュマンとは誰かということを簡単に言っておきますと、一つ重要なことはクリック言語という音韻論的には世界で二番目に複雑な言語を話す。それから伝統的な生活というのは狩猟採集で、採集で一番重要なのがスイカの原種だといわれています。それから狩猟の方ですが、伝統的には毒矢猟をしていました。それから小動物を取るのに欠かせないのは、はね罠ですね。それからもう一つは、長い竿使ってトビウサギを引っかけるトビウサギ猟です。
ブッシュマンの言葉で「しるし」というのは「ツェウ」というんですが、具体的にいいますと草を結ぶんです。この結ばれた草というのは、まさに自然とは違っているということにおいて「しるし」なんですね。どういうことかというと、どんなに風が吹いてもどんなに雨が降っても、自然に草が結ばれるということはあり得ないということが重要で、わざわざ草を結んだ他者の意図というのをそこに感じざるをえないわけです。だけど、ただ草が結ばれているだけだったらそれは単なるいたずらかもしれないんだけれど、実は草が結ばれているという文脈というのは特異な文脈でありまして、ダチョウの卵の場合ハンターがダチョウの卵を見つけます。ところがハンターはそれを取ろうとしません。なぜならこの資源は寝かせておけばおくほどいいからですね。ダチョウというのは雌が一つの巣に集団産卵することをブッシュマンはよく知ってますから、ここで寝かせておけばどんどんどんどん集団産卵されて最後には一〇個二〇個になりかねない。そのとき取った方がずっといいわけです。ここで「しるし」を付けるということは「これは俺が見つけたダチョウの卵だから取るな」というメッセージであります。
もしこれを無視してとったやつの足跡というのがここに残っているとしたら、ブッシュマンの人たちは足跡からその人の顔をありありと思い浮かべることができるといわれていますから、パッと足跡を見たとたんそいつを盗んだやつの顔が表象されるかもしれない。しかもこのことは彼らの「ツァー」という言葉、「盗み」という概念ですね。あるいは盗みという概念の背景になっているなにかを所有しているといった概念まで表象しているかもしれない。というわけで、この表象のネットワークというのは、人間的世界においては無限に近く張り巡らされているところが人間とサルとを隔てるもっとも大きな特質ではないかということであります。
私のもう一つの矛盾というのは、私の仕事自体が、これからお話しする表象の物質化ということに大きく依存しているということであります。
表象というのはさっきいったように、それを外在化すると公的表象になりますよね。外在化には二つのやり方があって、一つが身体それ自体で外在化する。私が今音声言語を喋っているような形。これはリアルタイムのもので、この瞬間が終えたらもう消えてしまいます。ところが物質化というのは、たとえば写真であるとかビデオとかに定着する。私はこのホームビデオカメラの創生期にソニーのホームビデオカメラとデッキを使って日本人の自己接触行動を分析するというまことに奇妙な研究をしました。
私自身このビデオの映像というのを見て、これこそ悪夢のような世界ではないかと思ったんですね。つまり下ネタで盛り上がる学生とか、セクハラまがいの発言している私がそのまま残っているわけです。そのころ私はボブ・ショーという人のサンリオSF文庫の『去りにし日々、今ひとたびの幻』という有名な小説を読んで非常に感動しました。この小説のアイディアというのは実に奇妙だけど単純で、通過する光の速度を圧倒的に遅くしてしまうガラスというのが発明された世界で何が起こるかという話であります。そのガラスの、こっち側からこっち側まで光が通過するのにたとえば一年間かかったとすると、そのガラス窓をはめた家で今見えていることは一年前に起きたことかもしれないんですね。それどころかこの話がどんどんエスカレートすると、ベトナム戦争でベトコンをたくさん殺したアメリカの兵士に手術してそのスローグラスをそっくりそのままレンズ体として目に埋め込んじゃうわけですね。そうしたらアメリカ人がベトコンを虐殺しているシーンはいくら目を閉じても見ざるをえないという悪夢のような世界というのが描かれているんですね。
これは時間の凍結ということなんですが、私たちが過ぎ去ると思っていた出来事が物質化されると未来永劫保存されてしまうということの恐ろしさに、まず私はうたれました。それを恐ろしいと思いながら、どんどんそういう技術に依存した形で私自身が研究をしていったわけですが、特に会話分析というようなジャンルというのは、この表象の物質化ということがなければ不可能だったわけです。なぜなら日常会話に私たちは巻き込まれているわけで、巻き込まれながらそれを局外から観察するということはできないし、更にいえば、日常会話は私たち観察者の分析速度よりもずっと速く進行するので、それは端的に言うと録音機という発明がなかったら不可能でした。私の研究というのはこういった表象の物質化に依存した形で進行せざるをえなかったし、それと同時にシンプル・ライフに憧れるという、根本的に矛盾した営みであったわけです。
次に記憶という問題ですが、これもSFから借りますと、私がもっとも震撼した記憶のお話というのはこういうお話なんです。ダン・シモンズの『ハイペリオン』、これは私が読んだ全てのSFの中でもっとも傑作だと思っていますが、ここに登場するある女性大学院生は、ある惑星で遺跡を調査していて
負のエントロピー波というのを浴びてしまったがために、一日一日身体も脳も若返っていっちゃうんですね。そうすると、今日、寝て、そして明日目覚めたときには今日の記憶は全て消去されている。次の日もまた一日遡って記憶が消えていく。この恐ろしさはたとえばある日お母さんが死んで嘆き悲しんでも、次の日にはお母さんが生きていたという記憶しかないので「あれ? お母さん、どこ行ったんだろう」という感じになる。実はこの大学院生は一番最初の頃、自分がこういう病気になったということを知って、「明日のあなたへ。私たち大変なことになってるのよ」という感じでビデオカメラでメッセージを送るんですね。明日のあなたへ明日のあなたへっていうメッセージを送り続けていると、ある日その過去のメッセージ全てを見ることに一日が費やされてしまう。つまり記憶というのは物質化するとそれをあとで見るときに現実の時間を失うという、このことをどうするのかというアポリアがあると思うんですが、結局この大学院生はそれに絶望して、あるときから明日のあなたへメッセージを送るのをやめてしまって、どんどんどんどん若返っていくという悲劇であります。
それではグイの人たち。つまり記憶を物質化する手段をまったく持たない人たちがどうやって身体だけで記憶を外在化したかという問いかけになります。一つが個人名であります。彼らは新生児が産まれた頃の印象的な出来事にちなんで個人名を付けます。主に父親が付けます。すると、そして身体的な行為として常に人は人を呼ぶわけですが、その人を呼ぶということの中に過去の出来事が刻印され喚起されるという仕掛けになっている。
その逸話の累計を分類したのが【表1】なんですが、「ザーク」というのは彼らの社会に非常に広範に張り巡らされている婚外の性関係です。日本では不倫というような変な言葉がありますが、その婚外性関係にまつわる葛藤が圧倒的に多いんですね。夫婦の争い、その他の社会的葛藤、経済的紛争まで合わせると四〇パーセント以上になる。つまり争いにまつわる個人名がすごく多くて、それゆえ私たちが理想とするような、個人名というのはめでたい意味であるとか、肯定的な意味であるとかいうことのまったく逆が起きるわけです。たとえば【図2】が私のとても親しい家族の個人名を日本語に訳したものなんですが、ご覧のように殺伐とした名前ばかりですね。「ヤギ」という人は今もう最年長者で、もう八〇を超えていますが、なぜ「ヤギ」という名前が付いているかというと、彼のお父さんが昔バンツー系農牧民が飼っていたヤギを盗んで喰っちまったというそういう逸話です。
この「ヤギ」の奥さんが「罠の呪薬」というんですが、この「罠の呪薬」さんは非常に性悪女で、婚外性関係から何人もの子供を産んでいるわけですね。たとえば一九六一年生まれの「ナイフを研いでやる」という人ですが、「罠の呪薬」の愛人が、「ヤギ」が家に帰ってきたらちゃっかり小屋の中にいたんですね。で、「ヤギ」はムッとしてこれ見よがしに小屋の外で石でナイフをじょりじょり研ぎながら「おまえ早く帰れよな」と、「早く帰らないとこのナイフでおまえのお腹を裂いちゃうからね」といって脅かしたという逸話にちなみます。それから「隠してめとる」という人ですが、「隠してめとる」の種となった「殴り襲う」という男は非常に長い間関係を結んで二人の女の子を産ませたんですね。一番最初のときに彼の奥さんが「あんたはあの女をめとりながら、それを私に隠してるでしょ?
なんであんたはそういうことを隠すのよ」といってなじったという話がこの界隈で評判になった。つまり、けだし名言というのが名前になるわけですね。
しかも、彼らは既婚者に対しては比較的丁寧な言い方として「誰々のお母さん」とか「誰々のお父さん」という、いわゆる人類学用語でテクノニミーというんですが、それを使いますから、いったん長男に「ナイフを研いでやる」という名前を夫が付けちゃったら、その奥さんつまり母親は一生の間周りから「ナイフを研いでやるのお母さん」と呼ばれ続けるわけですね。ここには夫婦の歴史も反映している。実はヤギさんは死別した先妻がいます。その先妻の娘が「婚資が見あたらない」なので、ヤギさんをテクノニミーで呼ぶと「婚資が見あたらないのお父さん」。ここでその夫婦の歴史というのが見事に個人名の中に織り込まれるというわけです。
彼らが記憶を外在化する手段は延々と過去のエピソードを語るということなんですが、それを支える非常に精密な言語学的な装置が存在します。それは人称代名詞であります。人称代名詞というのは「性」「数」「聞き手を含むか否か」「話者を含むか否か」という四つの次元を持っているわけですが、日本語や英語ではこの人称代名詞の四つの次元というのは実に不完全にしか実現されていなくて、たとえば彼らといったらその「彼ら」とは何人かわかりませんよね。「彼女ら」といっても何人かわからないし、それから「あなたたち」といったってその性別や人数など全然わかりません。ところがグイ語の場合はそれがほとんど完璧にわかるようになっていて、まず数は単数と二人と複数の三種類あります。そしてたとえば一人称複数の「我々」というのは聞き手を排除するか、話者を排除するかというような区別があって、しかも性が全部違う。「アッカ」というのは聞き手も含む「俺たち男三人以上」。「アッキャ」が聞き手も含む「我々男女三人以上」。たとえば「アツェビ」は聞き手も含む「俺たち男二人だけ」とかね。
もっとすごいのは一人称総数と複数における聞き手の包含と排除というもので、「アケビ」といえば僕と君男女二人だけという意味になります。これを日本の飲み屋で使えると「ねぇねぇ僕と君の男女二人だけでどこかに消えちゃおうよ」とかいうのが実にお茶の子さいさいなんですね。(笑)こういったきわめて精密な言語学的装置というのが彼らの過去語りの解像度を大きくあげることに貢献していると思われます。
私は『ブッシュマンとして生きる』(中公新書)という本のなかで身体配列という概念をたてて、その身体配列を認識することが彼らの出来事の理解とか説明のコアをなしているのではないかという議論をしました。
そこで例に出したのは、ある悲惨な出来事です。夫と妻が小屋の中にいた。夫は寝転んで肉をナイフで切って食っていた。妻はメロンを杵でついていた。そのときライオンが小屋からのぞき込んだんだけど、この奥さんの方は戸口に背を向けていたのでライオンに気づかなかった。夫の方はとても愚か者で、なんとライオンが小屋からのぞき込んだのにそれを犬と見間違えたというような信じがたい失策をして、しかもライオンが飛び込んできて奥さんの肩にかじりついたのを別に大声を上げもせず、必死になって引き離そうとしてぐるぐる小屋の中を回るばかりであたら時間を空費した。奥さんは結局のところ出血多量で死んでしまう。きわめて不条理としか言えないような事件です。これはずいぶん昔に起きた事件なんですが、それを語るときにその語り手が、まさに二人の座り方に着目した語りを行いました。つまり彼らは、この夫婦がこういう姿勢で座っていたんだよというようなことに非常に着目するわけですね。しかも私にその語りの聞き起こしを手伝ってくれていた二人の調査助手が期せずしてまた同じような身体配列を再現する。尻と尻をくっつけるというような実演をし始めて、そこへ私の通訳もわざわざ砂の上に横たわり、そして語り手も延々とその場面を再現するということがありました。
さきほど夢の話をしましたが、私が強調したいことは過去の思い出とか記憶とかなんでもいいんですが、それを人に対して語るという行為それ自体についてなんです。たとえば私が大学に行って朝一番の講義で学生たちに「いや、今日こんな変な夢見たよ」とか、べらべらべらべらその夢の話を一五分もしたら「あの先生頭おかしいんじゃない」っていわれかねませんよね。つまり夢語りというのは、彼らにとって私がそんな夢を見たということはなんら関連性を持たない、意味がないということですよね。ところが同じ夢語りが精神分析医のオフィスに行ったら「今日どういう夢を見たかちゃんと話してくださいよ」という形でとにかく見た夢を言え言えとけしかけられる。ということは私の頭の中にしかない表象について語るという行為それ自体が、一つの制度的支配のもとにあるということが非常に重要だと思われます。
記憶とか思い出ということもまさにそうであって、私が記憶や思い出を語ることができるのは、それを聞くものたちにとって意味のある文脈においてであるということですね。すなわち社会人類学的に考えたら、記憶とか思い出というのは私の頭の中に固定的なテキストとしてあるのではなくて、ある相手に対して意味あるものとしてそれを語るという行為それ自体に置き換えて考えなければならないというのが最終的に主張したいことなんです。そのときに私が語る出来事、その極北が夢ですが、それが私の単独経験なのか、それとも複数の人と共に経験した共同経験なのかというところに大きな分かれ目があります。おそらく単独経験を語るということに対する制度的制約の方がずっときついと思います。複数の経験であったら複数の経験であることによってそれ自体社会的な意味を持ちうるからです。だけどそこで問題になるのは、私とあと五人の人たちがある出来事を経験したとしますね。だけど私たちがみんなそれぞれバラバラのパースペクティブを持っていて、バラバラの利害関心を持っていて出来事を経験するんだから、いわゆる今では英語にもなっている「羅生門エフェクト」というのが働いて、それが本当の出来事だったのかなんてどうしてわかるの? という懐疑論というのはいつまでもつきまとうと思うんです。
そういう懐疑論を突破する一つのコアが、私が呼ぶところの身体配列ではないかということです。ブッシュマンの人たちはこの身体配列を把握する能力にとても長けた人たちだと思うんだけれども、実はこの能力というのは人類に普遍的に分け持たれていたもので、ただ私たちの近代が非常におかしなことをしたのではないか。つまりそれは身体配列に基づいて出来事を理解するというこの能力を、セクシャリティという領域にのみ切りつめるという制度化を私たちの近代はいつの間にか行ったのではないだろうか。私のやや啓蒙的な主張は、身体配列に基づいて出来事を理解するというこの能力をありとあらゆる出来事の理解、私たちの世代はすぐきな臭い話にしてしまうのですが、極北としての強制収容所とか、革命動乱といったものも身体配列にさかのぼって理解する能力を回復すべきであるという主張でありま
す。
(編集 小山茂樹@ブックポケット)