思い出はどこへ行くのか? ― 2006.11.05 ―
[みんぱく共同研究会第15回]
[国立民族学博物館2階第6セミナー室 2006年11月5日 13:00-]
[参加]
石松久幸 床呂郁哉 内田直子 大谷裕子 加藤ゆうこ 久保隅綾 佐藤浩司 佐藤優香 須永剛司 長浜宏和 野島久雄 南保輔 安村通晃 山本貴代 山本泰則 平川智章 横川公子 須永(兄) 吉田 山崎 岡島 松浦豪 小山
全記録
[野島] 最初に石松先生の方からお願いしたいと思うんですが。自己紹介もきっと必要になると思うんですが途中でやりましょうということで、最初に石松先生の方からお話をいただいて。大体1時間ぐらいお話をしていただいて、そしてまたディスカッションを含めて1時間ぐらい。それから休みを取って、その後のあたりで自己紹介をするということで進めたいと思います。よろしくお願いします。
[石松] どうもありがとうございました。
[佐藤浩司] 石松さん、マイクが入ってるので。
[石松] はい。もう少し暗くなりますか。暗ければ暗いほどいいんですが。このくらいで、じゃ。見えますか?
どうも今日はお招きいただきましてありがとうございます。私カリフォルニア大学バークレイ校東アジア図書館で、日本研究のライブラリアンをやっております石松久幸と申します。
カリフォルニアですので、まずハリウッド・スタイルで予告編から始めようと思います。今Googleと一緒になって、古地図をGoogle Earthにはめ込むという作業をやっております。これは1880年のヨセミテの古地図。それをGoogleにはめ込みまして。平面の一枚の地図なんですけど、これを立体化させて。フライ・スルーってやつですけども。これからちょっとアメリカ大陸を横切りまして、ミシガン湖を超えて。今度は1850年のマンハッタンアイランドの地図です。これを、またGoogle Earthにはめ込みまして。今度はインド。1770年のインドの地図がありましたので、これも同様にはめ込んで。これはあと2ヶ月ぐらいしますと、一般に公開されているGoogle Earthの画面の上で見れるようになります。予告編はこれで終わりです。
今から、すでに私どもがやっておりますプロジェクトについて簡単にご説明いたします。これはバークレイの東アジア研究図書館。今建設中の新しい図書館でして、中国・日本・韓国の研究だけのための、独立した一戸建ちの建物です。独立した一戸建ちの東アジアの研究図書館というのは世界で初めてのものだそうです。非常に大きな建物でして、来年の10/20に大々的に開会式をすることになっております。ここに貴重書図書室っていうのがありまして、そこに1950年に日本の三井文庫から購入しました約2300点の日本の古地図がすでにもう収められている。3年ほど前にDavid Rumseyさんという、非常に古地図の好きな、そして古地図研究家であります方とペアを組みまして、こういうスキャナー・カメラっていうデジタルカメラを使いましてデジタル化の作業を始めました。先ほどお伝えしましたように、1950年に古地図を買って貴重書図書室の中に収めまして、それで目録もとって、一般にはそういうものがあるってことは知られてたんですけれども、それから50年の間に実際にバークレイに来てその古地図を見た人の数というのが7人しかいないんですね。で、この我々がやってますプロジェクトがニューヨーク・タイムズに発表されまして、その記事が出てから三日間の間に我々のウェブサイトに40000アクセスあった。
これは桑名のお城です。今Google Earthで見た現在の桑名のお城です。桑名の天守閣はここにあったんですけども、この城主が明治維新のときに新政府に反対したために、このお城はすぐに壊されまして、現在はここに野球場があって、ここにプールがあると。それで橋は残っていて、お堀も残ってると。これは今のGoogle Earthで見た桑名のお城なんですけれども、さらに150年前に戻りますと、これが同じ桑名のお城の前です。朝出勤してくるお侍さん。偉いお侍さんは馬に乗って。それから、上役と話している家来。それから何か運んでいる女の人。忙しくものどかな朝の桑名城の風景なんですけれども、これも地図です。上の方に行きますと、朝っぱらからデートしている若い人たちもいる。これも地図です。地図っていうのは、単に一枚の紙切れで描かれたものだけではなくて、屏風に描かれたものもありますし、巻物に描かれたもの、扇子・団扇、それから花瓶なんかに描かれたもの、いろんな形の形態の地図があるわけですね。これは屏風です。この屏風につきましては、またあとで説明しますけれども、ちょっとご覧になりますと、ここに「おきつ」って書いてありますけれども、ここで塩を作っている人たちの姿なども出てます。私は図書館員、ライブラリアンでありまして、コンピュータの専門家でも地図の専門家でもありません。ライブラリアンの役目というのは、漁師。漁師さんと同じようなもので、海に行ってお魚を採ってくる。それもいいお魚を採ってきて魚市場まで持ってくる。それがライブラリアンの根本的な役割だと思います。で、研究者の方というのは、いわば寿司の板前さんみたいなものでして、魚河岸に行ってライブラリアンが持ってきた自分のほしいお魚を選んで、それを加工して、お客様に提供する。それが研究者のお仕事だと思うんですけれども。
ライブラリアンといたしましてデジタル化というのをやってきました。現在2300ある地図資料のうち約1300画像のデジタル化が終わりました。ただ、地図というのは裏表がある場合がありますし、アプラスっていう地図帳の形のものもありますので、全部の画像をとり終えますと、恐らく5000以上の画像になると思います。図書館の資料をデジタル化する場合に、一番大切なのはコンテンツとメタデータの二つでありまして、もちろんこれから新しいハードウェアもソフトウェアもでてきますから、なるべくいじらないようにして残しておくことが大事だと思います。以前80年代の中期に、バークレイにあります中国の拓本をたくさんデジタル化したんですけれども、今ではまったく使い物にならないものになっています。もちろんハードウェアとソフトウェアが、もう完全に昔のものになってしまったためです。これがバークレイの今のHPなんですけれども、実はそれだけじゃあまり面白くないので、今手に入る3つのソフトウェアを一応載っけてあります。これをお使いになれば、いろんなことをして遊ぶことができるわけです。まず最初に、このinSight Browserっていうのは、誰でも、すぐそのまま使えるものです。今日お見せするのは、我々のサイトを使えば、研究者の方はこういうこともできるんですよってことを、一つの例としてお見せするだけであります。まずinSight Browserを使いますと、このようにいろんな今までデジタル化した地図がずらっと出てきます。そのうち見たいものを一つ選びますと、こういう形で江戸時代の大絵図が出てきます。実はバークレイには約200ぐらいの江戸時代の、それも違う年の地図がずらっと集まってます。それを全部比べ合わせますと、たとえば、どの大名がお家断絶になったとか、お世継ぎがなくて住んでる人の名前が変わっていったとか、そういうことがよくわかるんですけれども。江戸の地図というのは、非常に数が多いんですね。京都もかなりあるんですけれども、なんといっても江戸が圧倒的に多いわけです。その理由として、いろいろあるんですけれども、もちろん需要と供給の関係がありまして、江戸というのは急速に発展していった街ですので地図の必要があった。それから参勤交代ですね。毎年大きな大名ですと3000人という数の家来を連れて江戸まで移動してったわけです。もちろん江戸の花は、火事は江戸の花という言葉もありますけれども、頻繁に街が破壊されていましたし、更に江戸は、ある説によりますと、ギフト。Gift Giving Societyという、贈り物をする社会であったと。悪い意味では、更にもう賄賂の世界であったというぐらいなものだったらしいんですね。それで、今の日本の家のように門のところに「石松久幸」なんて名前が書いてありませんですから、大名のお屋敷に行って、どなたがどこに住んでらっしゃるかってことがちゃんと把握してないと、なかなか正しい人のところに賄賂を持ってくことができなかったと。もちろん江戸の初めの頃、それから幕末には、それだけの需要がありますので非常に地図の数が増えてます。京都は幕末ですね。江戸と京都の交通が盛んになりまして、そのために京都の古地図っていうのが非常にたくさん出ています。
で、このクリックを押しますとこうやって、どんどんズームしていくことができるわけですね。これは大学の先生が一生懸命お魚を捌いてるとこですけれども。踊ってるのは、大学院の学生達が楽しくパーティをやってると。芝の増上寺。不忍池。東叡山がここにありますけども。不忍池っていうのは、東都江戸の琵琶湖を象徴しているとして、東叡山というのは比叡山を象徴してるんだってこと。これが今の東大ですか。それで、同じ江戸の地図ですけれども、こっちは明治の地図、こっちは江戸の地図ですけれども、二つの地図を同時に開いて比べていくことができるわけですね。これは日本橋ですね。ここにブレティンボード(BBS)があります。呉服橋。日本銀行がありますけれども、ここは大名屋敷。こうやって比べますと、既にいかに大名屋敷っていうのが非常に大きなものだったかというのがよくわかると思いますけれども、江戸の土地の60%は武家屋敷だったそうです。残りの20%がお寺や神社。残る20%が一般庶民の住む長屋とか、そういうところで占められていたそうです。次にjavaClientというソフトウェアです。これは一度だけプログラムをダウンロードする必要があります。ダウンロードする際に一番大切なのは、ポップアップブロッカーを外すこと。それからファイア・ウォールも外してください。一度ダウンロードさえしてしまえば、このソフトウェア、次からそういうことしなくても済みます。
[安村] マックでもできますか?
[石松] はい。マックでもsafariじゃなくてFoxFireっていうんですか?FireFox。あっちの方を使ってください。で、これ開けますと、さっきと同じようなんですけれども、一つ違うのは、ご存知のように地図というのは非常に大きなものですね。現物の地図を何枚も何枚もこうやって同時に開くためには、非常に大きなテーブルのスペースがいると思うんですけれども、コンピュータの画面上では、このように何枚も何枚もの地図を同時に開いて調べることができます。そして一つ一つの地図には、こういうツール、メタデータがくっついてます。これは「南瞻部洲万国掌菓之図[なんせんぶしゅうばんこくしょうかのず]」という仏教系の世界地図です。
日本の世界地図には大きく分けて三つの種類がありまして、一つは仏教系。もう一つは南蛮系。そして、もう一つは、いわゆる出島。蘭学系ですね。地図にとって一番大切なのは距離。コンピュータの画面上で2点の距離を測ることができますし、また、サイズも測ることができる。そういう風になっております。
これはさっきの仏教系の地図なんですけれども、仏教系の地図の典型っていうのは、基本的に世界が三つの国しかない。インド、中国、それから日本が基本になってます。肉眼ではわからなかったんですけれども、これをデジタル化したときに、このズームでグッと絞っていきますと、こういうものが地図のど真ん中にあったっていうのがわかりました。これ「阿耨多羅池(あのくだらいけ)」って読むんですけれども、これを諸橋の大漢和辞典で調べますと、いろいろ書いてあって、他のこういうところもみんないろいろ書いてあるのも面白いんですけど。実はこの阿耨多羅池には四つの動物の顔がここに描いてあるんですね。これは牛。これは逆さまの象、これが鼻で牙。これがこっち側を向いてる馬ですね、これがライオン、さもなければ虎の頭ですね。そして、この四つの動物の口から、インドの聖なる4大河川が流れ出ているという地図です。
このソフトウェアのいいところは、ここに皆さんの注記、ノート、メモを自由に書き込むことができる。これは私の書いたノートですけど、「This may be Mt. Kailash known in Tibetan Buddhism as a name all of the world」「source of the 4 great rivers」。これは私の研究ノートみたいなものなんですけれども、そういうことを書いて隠すことができるんですね。それからまた、他のウェブサイトにリンクすることができます。このリンクですと、たまたまこれについて、このマウント・Kailashというウェブサイトに行きまして、調べた。すると「Mount Kailash sixty-seven-forty meter is situated to the north of the Himalayan barrier, who lives in Tibet. It is perfect mountain with wholesome beauty, with whole great faces. It is the spiritual center for whole great religious Tibetan Buddhism[?]」というノートが書いてあるわけですね。そういうリンクをこの地図の中にはめ込みまして、ご自分のものとしてまた隠すこともできます。
ついでに、この地図を見てますからちょっと面白いところをご案内しますと、これが日本ですね。朝鮮半島。この日本の南に毛人国。小人国。チョウシン島。みっつくび、というような小さな島がありまして、その南の方にこんな島があるんですね。これをよく見ますと、ここに「あ・め・り・か」。アメリカと書いてあるんです。面白い。これはヨーロッパの方も少し入ってます。オランダ。紅毛。えうろぱ。イタリア。それから、もちろんサーチエンジンがいっぱいついてますので、いろんな要素から検索することができます。たとえば、歌川貞秀。ここをクリックしますと、歌川貞秀さんが描いた地図が全部出てくるようになってます。これは歌川貞秀さんの地図なんですけれども、これはアトラスですね。アトラスっていうのは地図の本です。だから一冊の本の中にたくさんの地図が入ってるわけです。現物ですと、地図帳ですから2ページしか開くことできませんけれども、ウェブサイト上では全部のページを一気に開いて見ることができます。そしてズームアップしたりして楽しむ。それから、ご自分の研究用に好きなツールだけ引っ張ってきまして、自分用のファイルを作ることができます。これは私のプレゼンテーションのファイルなんですけれども。そして、それをセイヴしたり、たとえば出版年順とか、いろんな要素でソートすることができます。そして更に、そのプレゼンテーション用のファイルを作ることができます。これは私のプレゼンテーションなんですけれども、実はこれは全部の画像を使っていると。そして、これはこのほんの小さな一部だけを使って今日はお見せしてるという種明かしです。
先ほども申し上げましたように、地図にはいろんな地図がありますけれども、これは絵巻ですね。江戸から長崎まで一気に。長さはこの窓から向こうのテーブルくらいの長さの地図です。もちろんこのようにかなり傷んでますので、いらっしゃってもなかなか一般の方にはお見せすることができないような地図です。東海道から始まりまして、富士山の麓の富士川。橋が架かってません。京都。京都ももちろん桂川には橋が架かっていませんけれども、こちらの方は架かってる。そして長崎の出島ですね。それから、ほかに、こういうあれも、よく似た絵、地図がありますけれども。このように非常に傷んでますけれども、ウェブ上でしたら何人の人が見てもいっこうに傷むことはありません。ヨーロッパの地図なんかと比べて日本の地図の非常に特徴的なのは、旅行中心という地図。これは東海道、中山道とかいう旅行の地図なんですけれども。江戸から始まりまして、品川・川崎。で、ハイウェイ地図です。ここに、こういう風に旅人がちゃんと歩いてる姿まで出てくるという非常に日本的な地図です。
これはポケットマップなんです。日本の当時の旅行者はかちで歩きましたし、大した荷物も持てませんから、大きな地図はもちろん持てないわけでして、小さなポケット地図みたいなのを潜ませて歩いたんですけれども。その割には非常に豊かな情報がその地図の中に納められています。たとえば、これは東海道なんですけれども、箱根から三島までは三里二八町。要するに「馬を雇いますと395文取られます。ただし三島から箱根は非常に急な勾配なので上りの場合は477文」と。それから地球の歩き方の本みたいに「ここから7里行きますと、三島大明神がありますよ」「ここからはきちじゅうの湯という温泉がありますよ」っていうような情報も入ってます。更にこの富士川の方まで行きますと、先ほどもご覧になったように、橋がありませんから船を雇わなきゃいけないわけですね。「船賃16文」というようなことがちゃんと書いてありまして非常に楽しい。先ほどちょっと言い忘れたんですけれども、江戸になぜ地図が多いかというと、将軍のお城を守るために迷路のように道を造ったというもう一つの理由があります[00:30:12]まっすぐに江戸のお城まで入っていく道がないという。そして江戸のお城を囲んでお堀がたくさんありまして、川もたくさん使って、そして、こういう要所要所に門がありますね。これが日比谷の御門。外桜田御門。半蔵御門。こういう門に一ヶ月交替で上級のお侍さんが門の責任者として管理してたと。朝6時から夕方の6時まで、これは開いていたと。江戸の一般の人達は、当時のヨーロッパの人達と同じように、そんなに自由に旅行してはいけないことになってましたけれども、ただ神社仏閣を訪問するのには許されたというわけで、これは関東44カ所のお寺を巡るための地図です。いろんな地図。関東全体を表した地図ですけれども、このように一部だけ、中心だけを絞って、こうやってズームインして見ることもできます。武蔵の国ですね。こういう風にして、これコインっていうんですけれども、村の名前がコインの、小判型の丸の中に描かれてます。そのほかはあまり道路とか、そういうのは描いてないんですけど。こういう形態の古地図っていうのが非常に日本的でヨーロッパにはないそうです。
[野島] これは村の名前ですね?
[石松] 村の名前です、はい。ここまでこう。とてもきれいな地図ですね。これは伊豆七島ですけれども。黒船が入ってきたときの地図ですね。これは日本側のディフェンス・フォーメーション。6/3にはここにいたのが6/9にはこっちに移って来たと。で、こっちの、大和守様のディフェンス。明治になりますとすぐにヨーロッパの地図の作成法、技術というのが入ってきまして、これは甲府の地図なんですけれども。右側が明治の初めです。これは江戸の終わりの頃なんですけれども、コインも消えてしまいまして、こういう丸になってるという。それから山の描き方も非常に絵画的でした。これは富士山ですけれども、それがこういう形で表現されるようになってきた。ついでに富士山なんですけれども、江戸の1850年頃できた地図なんですけど、こういう形で表現している地図もあります。真上から出してくる。他の山が真上からではないのに、富士山だけは真上から出しているという非常に面白い地図。万国総会図[?][33:54]。これはマテロリッチ系の世界図。江戸の地図はほとんどが畳の上に置きまして、それを囲んでみんなが見るという形の地図が一般的でして、普通はどの方向から見ても、そこに座ってる人にとって読めるような形で描いてあるんですけれども、これは縦長の地図でして、全部縦に字が書いてあるんですね。紅毛。オランダ。これは1708年の地図ですけれども、インゲレス。エウロパ。トルコ。で、万里の長城がありまして、この石垣は1300里。1200里。日本ですね。もちろんポルトガルが日本に来たのは、この金と銀を探して。おそらく佐渡。佐渡はここです。ここに書いてありますけど「これより南の方の人は、あまり人が行ったことがないのでどんな人物が住んでいるかわからない」と書いてありますね。ただ、ここは羅列国でありまして、いわゆる男を食べる女性が住んでいる島という女嶋ですね。夜の国。そして、これが南北アメリカですけれども。ここに「金山あり」とありますけどね。ペルー。鳥人島。で、アメリカですね。ですけども、もうすでに、もちろん傾度線と緯度の概念がちゃんとある。
これは仏教系の世界地図なんですけれど、これは団扇の地図ですね。去年でしたっけ?韓国の高麗大学でこの地図を発表する機会があったんですけども、韓国の方は非常に喜んだんですけれども、これは朝鮮は黄色、日本は青なんですね。ここに竹島っていうのがありまして、ちょっと黄色くなってる。それがニュースになりまして、バークレイに韓国大使館の方と、それからテレビ局の方が「現物を見せてくれ」って来たのでお見せしたら、現物はこんな小さな地図でちょっとガッカリしてお帰りになったんですけれどね。これは蘭学系の世界地図です。カリフォルニアが島になってますね。こういう地図も非常に貴重な地図です。これはトム・クルーズさんという俳優が日本に行って「ラスト・サムライ」っていう人になったときに使った地図でありまして。実は映画は1880年を舞台にしてまして、ワーナー・ブラザーズがあの映画を作ったときに私達のウェブサイトからこの地図を見つけまして、この地図は1880年の地図なんですね。「是非映画で使わせてくれ」っていうので「じゃぁいくらお金をもらおうか」なんていうので、かなり会議をやったんですけれども。うん。これが映画の最初のときに非常に大きく出てきました。でもどうも間違えてニュージーランドの方に行っちゃったらしくて、あそこに出てくる馬も鶏も、みんなニュージーランド製の馬と鶏だったもんですから、ちょっと責任感感じてます。私、実は馬と鶏が好きでして、家でも飼ってるもんですからちょっと気になりました。それで大阪ですね。地図は旅行のため、それから街図っていうのだけではなくて、こういうお寺の地図というものがたくさんあります。デジタル化したときに、こんなことやって一体誰が興味があるのかなと思い、半信半疑でお寺とか神社の地図をデジタル化したんですけれども。意に反しましてバークレイのグレイグ・ノーマンさんとか、それからカンサス大学のシャーリー・フォーラスさんというような方々が、最近こういう地図を使ってそれぞれ室生寺、大徳寺の立派な研究書を出されているので非常に嬉しかったということがあります。これは高野山の地図ですけれども。こういう風に日本の美術[39:42]の特徴といいますか、こういう、人間に動きがあります。これは長谷寺ですけども、忠家の墓。俊成の墓。コロンビア大学のヘンリー・トーマス先生は、このこりどうわ[?][40:05]を非常に興味持って研究されてました。これは談山神社ですけれども、これも現物はこれくらいの本当に小さな地図なんですけれども、デジタル化したことによりまして、こんなによく人物の表情が出てくる。見えるんですね。たとえば、
[安村] すみません。たんざんってどこですか?
[石松] 知らないです。
[安村] どの辺だろう、談山神社。
[野島] なんだっけ。奈良のあたりにあって。
[安村] 奈良の。あ、そうですか。
[野島] ええ。なんか中大兄皇子と、あと、例の大化の改新のときの打合せをしたという伝説のあるところですね。13階の小さな塔があります。
[安村] あぁー。
[石松] ここでおじいさんがこの階段を上ろうか上らない方がいいか、ちょっと悩んでる姿とかですね。敬虔にお祈りしている姿。小さな小さな絵なんですけれども。それからお母さんと一緒にお参りしている子どもの姿。[00:41:13]こんな、ひざまずいてお辞儀している女性の姿だとか。これは姨捨山の。これたぶんわかりませんけど、お別れの挨拶をしているかもしれません。地図にはいろんな地図があるんですけど、これも地図です。非常にモダンな、なんかモダン・アートみたいな地図。こういう地図もあります。でもGoogle Earthでこれを見ますと、これはフランクフルト郊外の今の写真なんですけども。当時の地図。それから施しものという名所旧跡に遊びに行ったときに旅館で配ってくれる地図もあります。そういう地図っていうのは遊びに行ったその帰りに、今と違いましてカメラもなにもありませんから「実はこういうとこ行って遊んできたんだよ」ってことを見せるためのものです。お土産みたいなものです。大体もうそれで捨ててしまうんですけれども。ですから、ほとんどもう残ってないんです。これは熱海の菊屋とかいう温泉宿で、ここのところから温泉がワーッと湧き出ているっていう地図ですね。これは箱根。修善寺です。これは明らかにもう明治の初期の地図なんですけれども、お魚屋さんがあって、すぐ隣にもう牛肉店っていうのができてる。それから大藪っていうのはお蕎麦屋さんだと思うんですけれども、その隣の隣に洋食屋がもうできてます。人力車とか馬車とかが走ってます。これも明治の姿ですけども。私、馬が好きなんですけれども、この馬湯っていう馬のための温泉があるっていうのも非常に嬉しい地図です。
それで、このさっきの二つ目のソフトウェア[43:34]の素晴らしいのは、他のコレクションと混ぜ合わせることができるという。これは先ほどご紹介しましたDavid Rumseyさんというアメリカ人のマップ・コレクターのコレクションなんですけれども。その彼のコレクションとバークレイのコレクション、この2つ開きまして混ぜちゃうことができるわけです。混ぜといて日本に関するものだけを選ぶ。そうしますと、これはラムゼイ、これは私、私、ラムゼイ、私、という具合に。私というかバークレイですね。そして、その両方を同時に開いて比べ合わせることができる。そうすると地図っていうのは、特に日本全図の地図は、出島を通じまして非常に交流があったわけですね。ビジュアルな資料ですから言葉がわからなくても非常にお互いに盗み合ったというか、借り合って。地図を日本国外に持ち出すのは御法度で、いわゆるシーボルト事件というのがありまして、そのためにシーボルトに地図を渡した人達は死刑になってますけれども。それでも出島に来たヨーロッパ人というのも、どんどんどんどん日本の地図をヨーロッパに持ってってる。また日本側も同じようなことをやってるんですけれども。で、ここに江戸。ちょっと間違えもありまして鎌倉が江戸の東側に行っちゃってますね。The bridge。これはもちろん日本橋ですね。The bridge。これが日本橋。ですから地図が、たとえば日本の古地図の字が読めないような今の地図研究者でも、この2つの地図を比べ合わせることによって「あぁこれが江戸なんだな」ってことがわかるわけですね。東京だとか。それから更に、このアミコ・ライブラリっていうのがあります。これはアメリカの数多くの美術館・博物館が、その画像データをやっぱりデジタル化したAmerican Museum Image Consortiumというものなんです。そのAMICOのデータベースとバークレイのコレクションとを混ぜまして、京都に関するものだけを探し出しますと、このような形になるんですね。そうすると、こんな風に、これはバークレイのもの、これはFine Arts Museums of San Franciscoの京都の四条の絵ですね。浮世絵ですね。それから、これはCleveland Museum of Artの下賀茂神社の馬下りの図です。こういうものをこういう形で出しまして、自由に自分のファイルを作って教育用とか研究用に使えると。
それでは、次の3つ目で出してありましたデータベースなんですけど、これはGIS。Geographic Information Systemですね。これを使いますと、このような形になります。これはサテライトが撮った関東地方の絵なんですけれども、これに1680年の江戸の地図をはめ込みます。これ、なぜこう歪んでるかといいますと、江戸の地図は驚くほど正確にできてますけれども、少しやっぱりひずみがあるわけですね。それを調節するために、こちら側は伸ばし、こちら側は縮めると、そういう形になったわけです。現物の地図はこんな形なんですけれども。そうしまして、次に1684年、1710年、1748年、1799年、1803年、1858年、1892年、1905年、1910年。それでこれは1880年代にソビエトのスパイ衛星が撮った東京上空の黒白写真です。それを入れます。そうしておきまして、また今度1680年、1799年、1858年、1892年、1905年の地図を入れておくわけですね。そして、この1905年と、ソビエトのスパイ衛星から撮った写真。ここをご注目ください。このレバーをこういう形でこう持ってくる。それから今度は1858年と1910年の東京ですね。今度はこちらをご覧ください。こういう風にカットしていくことができる。[00:49:01]それから同時に4枚の地図を開いて比べることもできます。これは1680年、1748年、1803年、1853年。4枚開いておいて、それを同時にズームインしていくことができます。これは今両国橋のところを見てるんですけどね。そして、また他の地図を持ってきましたりして、ここもソビエトの写真。そして、どんどん絞って。広小路ですね。こういう形で見ることができます。ちょっと場所を変えまして1680年、1748年、1892年、ソビエト。そうすると、ここに大蔵省。会計検査院、1892年当時の会計検査院ですね。ここまで大きくズームアップする。これは溜め池なんですけれども、1680年の溜め池はこんなに大きな池で江戸の市中の水を提供してたんですけれども、1748年になりますともう既にここに埋め立てが始まりまして、はたができてきて、更に1858年になりますと、もうこんなに埋められまして、1910年にはもうなにもなくなってしまって、現在では名前だけ残ってるというような、そんな状態がわかります。私の好きな作家は山本周五郎さんなんですけれども、この辺「あおべか物語」とか「季節のない町」なんていうのも、こういう形で今と比べますと。こういうにカットして比べます。これはブレンドです。これは非常にきれいな写真なので好きなんですけど。ちょうどこことここで調節してるわけですね。京都は実はあまり面白くないですね。道がまっすぐで昔と今と同じなもんですから。先ほどの絞ったり縮めたりしたのは、専門用語でgeorectifyingあるいはgeoreferencingっていうんですけれども、京都は古地図を使いましても、それをほとんどいじる必要がありません。
ただ大阪は非常に面白いです。大阪は水の都といわれる程埋め立てが非常に多いもんですから面白い。実はこれは近松門左衛門がやりました「曽根崎心中」という歌舞伎、文楽の名作なんですけれども。これがお初、それから徳兵衛ですね。この恋人同士が曽根崎というところに行って最後に自殺をするわけです。心中をするわけです。その曽根崎っていうのがこの舞台でもわかりますように、もう町はずれの真っ暗な森の中で死ぬわけですね。最後に徳兵衛のおじさんが「徳兵衛、死ぬなよ」って終わるんですけども。実はこの二人は実の親子だそうで、こちらがもう76歳のお父さんだそうですけれども。えらい国会議員のご主人という。親子で25年間もずっとラブシーンをやってるっていうので非常におかしな世界だなぁと思ってるんですけれども。私、実は東京生まれ東京育ちでアメリカ在住なものですから、あまり大阪のことを知りませんので、安いGPSで曽根崎っていうのはどこかなと思いまして調べましたら、ここに曽根崎ってあるんですね。だけど高速道路がこう走ってますし、ここに梅田の大きな駅がありますし、こういうところで自殺するのはちょっとおかしいんじゃないかと思いまして、それでこれに先ほどのロシアのあれを重ねてみました。すると確かにこの辺なんですね。それでここに高速道路が走ってます。で、ここに川が流れていて、ここに堂ヶ島っていうんですか。そしてここに大きな梅田の駅があるわけですね。実は近松の「曽根崎心中」っていう物語は実話をもとにして書いたものでして、それは1742年にあの事件があったんですね。それなら1740年の大阪の地図を持ってきたらどういうことになるかっていうんでやってみましたところ、こういうことになったんです。すると確かにここに曽根崎村って書いてあります。そして、先ほど見た橋と川がここにある。だから梅田っていうのはこの辺だったんですね。するとここに確かに「そねさきむら」って書いてあるわけです。それで自分なりに「あ、ここなら自殺してもいいかな」と。ちなみに、その1740年の大阪の地図っていうのはこんな形だったんですけれども、今はこうです。
[安村] さっき天神ってあったんだけど、あれ、お初天神に変わるんですか?それは。
[石松] あとから変わるんですね。
[安村] あとから変わるんだ。なるほど。あぁ。
[石松] GISはこのように日本全体をカバーすることもできます。ほんの少しだけgeorectifyingをしてますけども。GISはそのくらいにしまして、あと少し美しい地図を見ていこうかなと思いますけども。境港のにぎわってるときの。人の表情とか、こういうのが地図に出てくるというのは本当に日本的でヨーロッパの地図や中国の地図には全くないことですね。長崎ですね。これが出島。唐人荷物部落。中国とオランダだけが許されていたということなんですけれども。オランダの船が入ってきます。すると港に入った入口のところで、もう舵を取らされてしまう。万一のために舵を取らされてしまって、この絵では6つしかありませんけども、もっと30も40もの日本の引き船がこの大きなオランダ船を引っ張って入ってくるわけですね。そして、これは祝砲。その合図の大砲を撃って。で、これは帰り。オランダ帰り船。出て行く船ですね。引き船がありまして、これはメッセンジャー・ボート、注進船。これは番船、ガード・ボートですね。これはインスペクタース・ボートですね。こういう形で日本側が対応しているわけです。1850年になりますと日本も開港しましたので、江戸湾っていうのはなかなかいい港がなかったらしいので、これは横浜に国際的な港ができました。これが大波止場。大波止場ですか。町が半分に分かれてまして、こっち側はローマ字で書かれてますね。アラビア文字と。こちら側は漢字と日本語で。もう明らかにこちら側が外人の居留地であったということがはっきりわかる。明治の町というのはこんな形だったのではないかと。モダンな子どもが自転車に乗ってたり、犬を連れた紳士が和服で歩いてたり。さて、また話が変わるんですけれども、ちょっと歌を歌いますけれども。♪惚れて〜かよえーばー千里も一里〜広い田んぼも一またぎ♪なんていう歌があるんですけれども、これは浅草の浅草寺です。今も昔も一番江戸ではにぎやかだったお寺なんですけれども。真面目ないい男女はみんなここにお参りに行くんですけれども、あまり真面目じゃない男、若いのも年寄りも「ここに行くよ」と言って、このお参りをさっさと済ませてこっちに回りまして。それからここに馬道っていうのがあるんですけれども、ここをずーっと歩きまして、そしてここから日本堤という田んぼの中ですね。田んぼの中の日本堤を歩きまして、そしてここにある新吉原。ここに遊びに行ったわけですね。それはそれでいいんですけれども、私はそういう柔らかいことはあんまり知らないもんですから固いことでいいますと、新吉原の真後ろに「こつじき村」というのがはっきり書いてあります。それから、ここに非人小屋。更にここに断罪門と。断罪門というのは浅草断罪門という、いわゆる当時の被差別部落の大御所ですね。その人のお屋敷がここにあるんですね。更に、地図に入ってませんけれど、この辺に今度は穢多村っていうのがはっきり書いてあります。今現在日本でも複製した古地図っていうのが売られてますけれども、みんなこういうところは白抜きになっちゃってます。乞食村、非人小屋、穢多村という3つがあるというのはいったいどういうことなのか。ということは区別されてたんではないかと。私は非人・乞食・穢多というのが同じグループの人達について、時代の変化によって呼び方が変わったのではないかという風に思ってたんですけれども、そうではないような。ちなみに日光の方にお参りに行くときも、ここ日光街道っていうんですか、中山道っていうんですか、ここを行かないでこっちへちょっとよってから、ここから近道でこう行くという方法もあったそうで。落語なんかにも出てきますけれども。ここに、同じ地図です。ここに穢多村とはっきり書いてあります。この辺はお寺が非常に多いところですね。今の三谷の辺がちょうどここになるんですけどね。ところが、もうちょっとあとの地図になりますと、非人小屋がここに移って来ちゃってるんです。こないだまで乞食村だったのが非人小屋になって、ここにあった非人小屋がなくなってしまった。だから、まだちょっとその辺の区別が私にもよくわからないですけど。[61:36]これは1850年の地図ですけれども、穢多村が非常に大きくなって拡大されてる。同時に当時の士農階級の枠外にありました役者連中。歌舞伎座。歌舞伎役者なんかが、ここが猿楽町っていう。猿若町っていうのができまして、もう強制的にみんなここに移して、当時の三大座、中村座・市村座・森田座っていうのがここに入ってきたわけですね。そういうような。新吉原はここが衣紋坂でして、ここから入るしかないんですね。大門がありまして、ここの衣紋坂でちょっと襟を直して。今でいうネクタイを直すっていう形で。それでここへ入ってきますと江戸一丁目、江戸町二丁目と、だんだんいい女から悪い女へ移っていくという。ただ日本文化を研究する上では避けて通れない重要な場所だと思います。4つの角に稲荷があります。お歯黒どぶが囲っていて逃げられないようになっている。少し美しい地図をご覧に入れようと思うんですけれども。
今度は掛け軸です。これも地図です。これは鍬形恵斎[クワガタケイサイ]という当時の有名な画家が描いた「江戸一目の図」というやつでして、江戸全体を出している。私は思うに当時の江戸っていうのは本当にきれいなところじゃなかったかと思います。公害もないし、高速道路もないし、高層ビルもありませんし。煮たり焼いたりするのに薪でやってましたから煙は結構あったかとは思いますけれど、きれいな町ではあったと思います。これは両国橋ですね。新柳橋。日本橋。今は築地に移りましたけど、当時はこの日本橋の麓が魚市場だったところですから、たくさんの船が集まってきてます。そしてお城がありまして、桜田。これはたぶん靖国神社の前の坂。なんでしたっけ。四谷。そして富士山が見えてくると。これは慶応大学でこないだやったので、この画像使ったんですけれども、三田町とか白金とか慶応の近くはもう本当に田んぼだったですね。だからわりと土地も安かったんじゃないか。福沢先生が買うとき安かったんじゃないかと思います。それから先ほどの鍬形恵斎の、同じ作家ですね。これは日本中を一目で見たという、非常に世界地図史上でも他に例はみない。いわゆるスペースシャトルも飛行機もなかった時代に上から全体を見てしまおうという、その発想が素晴らしいと。
で、江戸から始まりまして。これは佐渡ですね。ここに銅山。八甲田。恐山。秋田のお城。かと思うと、ここに越後。そして、ずっと肥前の方に行きまして長崎。オランダ船が去っていくとこで。先ほどお見せするの忘れたんですけど、ここには朝鮮がこう映ってます。お月様が沈んでいく。こういう発想というのは本当の江戸時代の素晴らしさだと思います。ちょっと出島のお話をしたいと思うんですけれども。これは出島の三賢人といわれている人でして、左からカール・ケンペルさん。彼はドイツ人ですね。それからカール・チュンベリーさん。これはスウェーデン人です。こちらがフィリップ・フォン・シーボルトですね。これが出島の三賢人といわれる方ですけれども。まず最初に有名なカール・ケンペル、ケンファーとかいわれる方もありますけれども、非常に素晴らしい博物学者であり、医師であり、植物学者であり、画家でもありまして。これは彼が自分で描いた図ですけれども、ちゃんと日本地図を持って、こうやって仕切を持ってやってるわけですけどね。それから、このチュンベリー。カール・チュンベリーっていう人は私の大好きな人なんですけれども、医者であり、それから植物学者です。そしてもちろんシーボルト。来年は実は、このリンネ。カール・リンネの生誕300周年にあたるんですね。スウェーデン人です。実は日本でも千葉の自然科学博物館でカール・リンネの世界で3番目にいいっていうコレクションを持ってるんですけれども、残念なことに本当に死蔵されてしまってる。なんとかしようと思っていろんなところに呼びかけてるんですけど、どうも反応がよくないので、何かありましたらアドバイスして頂けると嬉しいんですけれども。カール・チュンベリー、彼がリンネのトップ・スチューデントってやつですね。カール・リンネ自身はあまり海外に出るというチャンスはなかったんですけれども、弟子達にはどんどんどんどん外国に行っていろんな収集をしてこいといってる。チュンベリーは日本に行こうと決心しまして、まずスウェーデンのウプサラ[68:44]大学にいたんですけれども、ウプサラからアムステルダムとパリへ行きまして医学を勉強して。そしてケープコロニーというところへ行きまして、これは喜望峰ですね。Cape of good hopeとかケープ・コロニーとかいいますけども、ここに3年間滞在しましてオランダ語の勉強したんですね。チュンベリーが来た頃もうオランダはほとんど日本に対する興味を失ってしまいまして、あまりおいしい儲けもない、もう金も銀もなくなってしまったので、実は出島に来てた人達の4割はもう外国人だったと。ドイツ人とかスウェーデン人が来てたわけです。それでもやっぱり一応オランダ語はできなきゃいけないというので、チュンベリーはこのケープコロニーで一生懸命オランダ語を勉強しながら植物採集をするわけです。そしてインドネシアのバタビア、今のジャカルタに行きまして、そこから台湾海峡を通って、やっと1776年に出島に到着しました。18世紀のヨーロッパというのは非常に博物学ブームというのがありまして、今ヨーロッパにあります大きな博物館とか、王様なんかが持っている王立博物館とかいうのは、ほとんどが18世紀に世界各地から集められた植物や動物などの標本が集められているわけですね。チュンベリーも医者としてきたんですけれども、植物学と医学というのは当時非常に密接な関係がありまして、やっぱり薬にしましても薬草を使ってやるということが非常にポピュラー[?][「おびのらん」と聞こえる][70:48]だったんですけれども。とにかく出島から一歩も出られないわけです。許してくれないわけですね。それでものすごくフラストレーションが固まりまして。どうしたかといいますと、ここでは牛を轢き殺してる、両方から引っ張って殺してるシーンなんですけれども。出島では豚とか牛を飼ってたんですけれど、一日おきに牧草を日本人が運んでくるんですね。その牧草を調べて、それを使って植物標本を作った。それからいろいろ通事に一生懸命、通事っていうのは一生懸命医学を勉強しに来る人達、に頼んで標本を持ってこいとか。そういうことをやって、なんとか研究を続けていたわけです。他の出島にいる外国人は酒飲んだり食事をしたりして遊んだり、中に入って許された日本人の女性は、傾城だけ許されたわけです。そういう享楽的な生活をしてましたけれども、チュンベリーさんだけは一生懸命勉強して。そしてやっと半年経ってから、1778年でしたっけ。江戸参府が許されたわけです。300人のお供を連れて、こういう形で。これはケンペルの絵なんですけれど同じような形で。
チュンベリーの足跡をちょっと追ってみようと思います。[72:25]この地図を使ってですね。まず長崎から。肥前。更に出て、それからこの道を通って小倉に出ます。小倉から船で下関。ただこの間全然植物採集は許されなかった。籠に乗せられて外に出られないんです。下関から今度は瀬戸内海。この辺を汽車で走られた方はご存知かと思いますけど、非常にトンネルが多いので当時は瀬戸内海を船で移動するというのが最も楽な方法だったらしいです。下関から海をずっと通って、で、この上の関っていうんですか?下と上の反対ですから、たぶん上の関だと思うんですけど。ここは非常に海が荒いらしくて、ここでまたチュンベリーさんは10日間もずっと船の中でじっとしてなきゃいけないと。そして広島を通りまして、やっとのこと兵庫で上陸することが許される。この地図は非常にきれいな地図でして見てて楽しいです。ちょっとこの画面が色が黄色すぎますけれども。そして大阪まで来ます。そして大阪のお城でやっぱり城主といろいろ面接をしたりして。江戸参府っていうのは一種の大名行列みたいなところがあるんですね。そして先ほどのこの屏風です。大津に。これは瀬田の橋ですね。で、ここをこういう風に来まして、ここを通って「あ、下見たら鮭が泳いでる」と。「だけどスウェーデンの鮭の方が立派だ」というコメントを本に書いてますけども。瀬田からあがって石部。そうすると当時の東海道を旅行している人達の姿が非常によくわかるわけです。
で、坂の下まで来ましたけれど、ここは泊まるのやめて関で泊まってますけれども、なぜかといいますと坂の下にはこういう飯もり女が多すぎたと。東海道五十三次、53の宿が作られましたけれども、そのときに幕府の強制的な一方的な命令で、各宿には36匹の馬を用意せよと。それが非常に財政的な負担だったそうで、各宿では旅籠一軒につき二人の飯もり女を置いてもよろしいという許可を取ったために、それがどんどんどんどん増えて東海道というのはかなり怪しげな女性が多い町だったそうで。またそれを楽しみにして旅行した弥次喜多とか、それから「東海道膝刷毛」なんていうパロディものがたくさん出版されてるんですけれども。今と昔とあまり変わらないと。で、大名行列ですね。こういう風に鷹を持って。こういう鷹まで大名行列に連れてってるんですね。刀を運んでる人とか。そして先ほど見ました桑名のお城にまで来まして。桑名のお城っていうのは海に突き出てたお城だそうでして、ここからみんな普通船でこの向こう側に行くわけです。そうするとまた。で、大井川。弥次さんと喜多さんは町人ですけども、偽物の刀を日本差してこの川を渡ろうとした。侍だと馬に乗っけてくれたりするそうで。そうすると途中で刀が溶けちゃってわかってしまって、水の中に放り投げられるとかいう話もありますけども。こういう形で渡って、そしてやっと箱根の麓まで来てチュンベリーは植物採集をすることを許されたわけです。彼はもう喜び勇んで、お付きの人達がもうハラハラいうぐらいあちこち飛び回って一生懸命集めて、それで箱根に行きます。すると箱根の関所。ここでは芦ノ湖を見て「きれいだな」と思っている人もいますし。越えて小田原に来まして。当時の座布団とか。そしてやっと品川。江戸のお城に来て、こういう形で。これはケンペルの方ですけれども、将軍の前でヨーロッパの歌を歌ったり踊りを踊らされたりして将軍のご機嫌を取ると。今もそうかもしれませんけど、江戸の人達は非常に外国に対して非常に興味があって、その宿泊所にはもうひっきりなしにこういう風に人達が来て、覗きに来たりなんかして。チュンベリーの場合は一ヶ月ほど江戸に逗留するんですけれども、日本の若い医者がひっきりなしに訪れてきて、いろいろ「勉強教えてくれ」「教えてくれ」って。それをいちいち丁寧に教えてあげて。それでスウェーデンに帰るわけです。日本には1年半しかいなかったんですけれども素晴らしい本を2冊書いて、そして植物採集も880種の標本を持ってスウェーデンに帰りました。そしてウプサラ大学に戻ったあとは、もう大教授となって一生を終えるんですけれども。帰ってからも日本の若い医者とかと文通を続けて、日本に多大な影響を与えた。日本の植物学の父といわれているカール・チュンベリーです。
もうそろそろ時間もあれですので、最後に。南蛮屏風という。これはパターンが決まってまして、一つは日本地図。もう一つは世界地図、これでペアになってます。この南蛮地図っていうのは、もう世界中に20個ぐらいしか残ってない。それでバークレイにたまたま一つあるという非常にラッキーなものなんですけれども。まず日本の地図ですけれども、これは非常に単純といえば単純な地図なんですけど、行基というお坊さんが作った行基図というのがあるんですけれども、それを踏襲したものです。ごく簡単に国と、それからハイウェイ、街道が書かれています。ただ歴史的に非常に価値のあるものですね。反対側、もう一方は世界地図なんですけれども。日本がここにあって。先ほど申し上げた男を食べる女の国とか。高麗。万里の長城。ヨーロッパ。カステラ。エジプト。そしてこれは地球の周りを回る太陽とお月様の図ですね。ですから天動説ですか。これは南極の下から見た地球の図。なぜ当時南極行ったことないのにそういうことが想像ができたかっていうのは、まだちょっと不思議なんですけど。これは世界を回るポルトガルの船。これは北極から見た世界図。そしてもちろん緯度線傾度線は出てます。これが日本ですね。こういう。これがあります。最後にこの地図を。これで一応終わりなんですけど。これで。Google Earthに合わせますね。すると日本がちょうどここに。さっきと同じ。北極がここです。ここまでは今日皆さんがご自宅に帰って、私どものウェブサイトを開けば自由にいろいろ遊べるところなんですけど、ここからは今我々が現実にやってるプロジェクトです。このGoogle Earthからこういう風に日本に来まして、先ほどお見せした南瞻部洲、4つの頭のある地図ですね。これをgeorectifyingするとこんな形になります。そしてこれに、先ほどのところでGoogle Earthに重ね合わせますと、確かにここに湖がある。それから東京にもう一度行きまして、先ほどの江戸の地図に現在の建物を加えます。三次元にして。建物に自分が撮った写真をどんどん加えていくことができるんですね。これが今の早稲田大学インターナショナルのディヴィジョン。古地図の上に重ね合わすことができる。これが現在の早稲田大学の図書館ですね。こんなことをやって遊んでいるわけです。もう一個だけお見せしましょうか。ちょっとだけね。せっかくですからね。ちょっとお待ちください。ついでですから、もう一個だけ。動くGoogleをもう一個。今の最後のにちょっと関係があるんですけど、こういう形でGoogleで回していきまして、ちょっと動きが悪いですけど、東京に先ほどの地図を重ね合わせまして。これをぐるぐる回して。これに何枚も。これは1910年の地図。他の地図を何枚も更に重ね合わせることができます。そしてこれ昔 Keyhole ってもの(ソフトウェア)だったので、いろんな情報をいろんな人達が入れていくことができるんですね。ちょうどWikipediaって百科事典と同じように、地図の中にもああいう情報を入れることができる。これは勝鬨の渡し。今ここが築地の魚市場ですね。勝鬨の渡しです。こんな風にして、またカリフォルニアに帰っていくわけですけど。どうもご静聴ありがとうございました。[86:10]
[拍手]
[野島] どうもありがとうございました。これで質問とかなにかをしたいと思うんです。是非お願いします。テープ起こしの都合上お名前をお願いします。最初に。なにか質問とか、聞きたいこととかありますか?はい、どうぞ、安村先生。
[安村] 慶応大学の安村です。[86:44]大変面白い話ありがとうございました。質問なんですけど、これ先ほど自分でコメント加えたりとかいうことがあったんですけど、Google本体の方は今APIがあったり、それから自分で地図持ってきて書き換えられるんですけど。古地図っていうか、そちらの方も自分のところに持ってきて、それを利用しつつなにかとかいうのは可能なんですか?
[石松] はい。可能です。
[安村] 可能なんですか。
[石松] 全部できます。
[安村] あ、それはすごい。
[石松] 先ほど申し上げるの忘れてましたけど、この我々のサイトの一番いいところは、完全に一般公開してまして、パスワードもアカウントナンバーもまるでいりません。
[安村] あ、そうなんですか。
[石松] はい。自由に使って頂いて、どんどんご自分のファイルを作って頂いて。
[安村] その結果を、またウェブに自分が出すことも可能なんですか?
[石松] ええ、できます。
[安村] そうですか。先月号の学資会報ですか。それに出てたんですけど、徳川家康が、私は知らなかったんですけど、結構治水して、さっきの溜め池も作りましたし、それから利根川の流れを、今の江戸川から銚子の方に変えたりとか、いろいろしてるんですね。それで、そのついでに日本地図みたいのも固めて、で、固めるついでに、吉原を作ると人がたくさん歩くんで土手がしっかりするのと。で、もし雨が降ったときに、何かあったときに、人出があるもんで「ここは危険だ」とかいうのがわかるんで。そういうことは考えらる。それ是非古地図で見たいと思って、このこと知らなかったので、次見させてください。非常に面白い。
[野島] 他には?
[須永] はい、じゃぁ僕も質問。[88:26]多摩美大の須永です。素晴らしい話ありがとうございました。地図というのは大体何枚ぐらい刷ってね、どういう人達の手に。さっき旅行とか、それから旅館に行って帰りにもらったとかいくつか話がありましたけれども。いろいろあるでしょうけれども、僕が興味あるのは、地図が作る人がいただろうけれども、それを受けとった人々が、大体あの頃印刷っていっても木版とか。だから版がずれたりしてるから、あれ版ですよね。
[石松] はい。
[須永] 何枚ぐらい刷って、どういう人達がそれ持って、なにしたのかなぁって。たとえば、バークレイに集まったのは、どこのおうちに、どういう風にしまわれていたんでしょうかね?日本で。
[石松] バークレイに集まったのはですね。三井系です。
[須永] あぁ、おっしゃってましたね。
[石松] 三井文庫が財閥解体で資産の整理をしなければならなくなりまして、極秘にバークレイに売ったんです。イェール大学に行くっていう話もあったんですけれども、まぁいろいろサスペンス小説並みのいろんなことがありまして、結局バークレイに移ってきたんですね。ご質問の刷った数っていうのは、私は古地図の専門家ではありませんのでよくわかりませんけれども、まぁ版画ですからそんなに枚数は刷れないと思うんですね。浮世絵なんかだと300〜800枚って話を聞いてますので、そのくらいかなという風に思います。ただ、たとえば江戸の大絵図なんかは一つの版を削って、新しい、
[須永] 版を作り直す。
[石松] たとえば、大名の名前が入ってきますと、そこに加えたりして。何年にも渡ってそれを使って。
[須永] 版を使うわけですね?
[石松] 版を一部だけを改良して、またそれを変えていくという形でやってるそうです。それから地図によりますけれども、たぶん私の想像では、昔の大きな立派な地図とか、ああいうのは昔も今も貴重書扱いされてたのではないかと思います。ですから、今度こういう風な形で電子化されて、初めて一般の人達でも自由に見れるようになったのではないかなと思います。
[須永] んー、そうですね。
[石松] 江戸時代でも江戸の大絵図を見ることができるっていう人はほとんどいなかったと思いますし。現在でも、たとえば5〜6年前に京都大学の図書館に行って京都の地図見せて頂いたんですけれども、ほんの5〜6枚をそれぞれ2〜3分見て「結構です」っていって、それで帰ってしまうわけですね。その版画だって[91:24]全部こうやってみるわけに行かないですし。コンピュータでしたら一晩中見てても誰も文句いいませんし。そういう意味では非常に楽しい。
[須永] ええ。はい。ちょっともう一つだけ。見せて頂いて、それからなにか自分の地図の作品とかそういうものを作れるということだったんですが、著作権というか、そういうものはどうなって?たとえば美術大学の学生が地図の作品をコラージュのようなもので作りたいなと思ったときに、先生方の集められたものを、そういう形で自分の作品に利用するようなこともできるんでしょうか?
[石松] ええ、いいですよ。著作権はもちろんありませんし。まぁ所蔵権はあります。
[須永] はいはい。所蔵権。
[石松] 所蔵権はありますので、まぁ大学同士、研究者同士ですから、一筆、そのフォームがありますので、私にいってくださればそのフォームをメールでお送りしますので。それに書いて送ってくだされば自由にお使いになってくださって結構です。
[須永] あぁ、そうですか。
[石松] 結局一番恐れてるのは、出版社なんかがその画像を全部、
[須永] 撮っちゃう。
[石松] 落として、それを本にするとか、そういうことがあると困る。それだけですね。ですから一応ちょっとプリントアウトは仕掛けをしてありまして、ハイ・レゾルーションのプリントアウトはできないようになってますけれども。
[須永] できない。
[石松] ちゃんとした交渉のうちにできるのであれば、先ほど申し上げたように、「ラスト・サムライ」の映画でも使えるようなハイ・レゾルーションの画像が出せますので。
[須永] はぁー。ありがとうございます。
[野島] 成城大学の野島ですけれども。[92:55]ちょっとお金が絡む話なのかもしれないですけど、このGoogleとの絡みっていうのは、今Googleっていろいろと手を広げてますよね。先生のところとGoogleとはどういう形、共同研究というか、どういう形でやられてるんですか?
[石松] Googleは他でお金を儲けてるので、あまりこちらには「金出せ」とかそういうことはなくてですね。ただ古地図、ヒストリカル・マップをGoogle Earthの中に取り込むっていうのが非常に喜んでるわけです。面白がってるんですよね。ですから金銭的な関係はなにもないです。
[野島] じゃぁあの枠組みに載っけるっていうのは、先生方が、ある意味でいうと勝手に載っけて、そこの上でGoogleが公開してくれる、あ、Googleのサービスとしてもう少ししたら出てくるってことですか?
[石松] まずGISの話からになっちゃうんですけど、先ほどお見せした4枚の画像が一度に出るとか、ああいう、それからGoogle Earthのあれも含めてなんですけれども、ああいうのはちょっと手作業でかなり大変な仕事なんです。ですから全部の地図をあれでできるってことじゃないんですね。で、GISっていうのは博物館の展示会みたいなもので、博物館の中には何千というコレクションがあるけれども、展示会で、たとえば50とか100のものを展示して、それに解説を加えて一般の人達が楽しめるようにしてるものですね。今Googleに古地図を載せようとしてるのは、そういう展示会みたいなものです。
[野島] なるほど。
[石松] ですから本当に研究者の役に立つのは、正直申し上げて、最初の一つ目と二つ目だと思います。もしGISのプロでしたら、ご自分でそれを作ってトランスファしていくことができますけれど、非常に時間がかかることです。先ほどお見せした江戸の地図とソ連のスパイの撮った写真を重ね合わせるのに、大体300〜50のポイントを使って合わせてるわけですね。それは大体お寺とか神社を使ってるんです。お寺、神社は大体場所が変わらないものですから。ただGoogleのHPに行きますと、そういうヒストリカル・マップが載ってると楽しいじゃないですか。たとえばサンフランシスコに古地図を重ね合わせる。それでまたちょっと興味が出る人がいるので。
[野島] なるほど。はい、ありがとうございます。どうぞ。はい。
[床呂] 東京外語大AA研の床呂と申します。[95:50]大変面白いお話ありがとうございました。Googleと一緒にやって、もう少ししたら出てくるやつは、おそらくそれこそグローバルにいろんなところの地図が出るということですが、
[石松] はい。
[床呂] バークレイさんがやってらっしゃるのは主に東アジアということでしょうか?
[石松] バークレイがやってるのは日本の古地図だけです。
[床呂] 日本の古地図だけ。あぁ、そうですか。他のエリアの地図のアーカイブみたいなのも教えて頂いたら。
[石松] 他の地図。はい。もう既に少し出てます。エジプトとかパリとか、そういうのはもう出てます。これからどんどん増えていくはずです。
[床呂] それ、要するにバークレイさんの先ほどのサイトから?
[石松] いや、他のルートからです。
[床呂] あ。そうですか。はい。
[野島] はい。佐藤さん。
[佐藤浩司] みんぱくの佐藤です。[96:41]Googleもそうなんですけど、地図に着目。最近急にネット上でGoogleにしてもYahooにしても地図取り上げてますけど、いったいこれはなんなんだろうかって。もしなにか背景があって、それをご存知でしたら、それを伺いたいのと。まぁ石松さん自身の考えでもよろしいんですけど、その点と。まぁそれはなにかビジネスに結びつくんでしょうか?ってこともありますけど。それからもう一つは、実は今日いらっしゃらなかったヘイグ先生がアブストラクトで書かれてましたけど、地図を歴史的に並べて見れることがもたらすインパクトとかいうことでしたっけ。私がいただいたアブストラクトでは「コレクティブなメモリ」っていう言葉がある。集合的な記憶ですかね。集合的な文化記憶っていう言葉を使ってらしたけど。彼女がなにをそれで言おうとしてたかを、もしご存知でしたらちょっと紹介して頂けたらいいなと思います。
[石松] ヘイグ先生はO-157に。こないだイタリアの学会に参加したときに、一ヶ月ほど前なんですけど、O-157にやられまして、ちょっと大きな病気になりまして、まだ今日はこられなくて非常に残念、皆様によろしくということでした。ヘイグ先生は哲学者、科学史の先生でして、難しいので私にはまったくよくわからないんですけれども。おっしゃってたことは、要するに過去30年、40年ぐらいですか、の間哲学界とか文化人類学の世界では、過去を切り離して現在を見ようという傾向が強かったと。けれども、こういうように古地図をデジタル化することによって、特に日本の古地図は人物が描かれていたり、非常に生き生きとした地図が多いものですから、それをご覧になって非常に喜ばれて。で、これはまた新しいディメンションが開けてきたのではないかというようなことで、非常に興奮されてました。でも私は単なるライブラリアンですので、そういう難しいことはさっぱりわからないので、あんまりお答えができないんですけれども。それからもう一つのご質問は。
[佐藤浩司] まぁ、なんで地図に注目されてるのか。バークレイもそうですけど、Google等々が。
[石松] 私に今それもちょっとわかりませんけど、私の個人的な体験を申し上げますと、実は50年間放置してありました日本の古地図を見ても、昔はちっとも面白いと思わなかったんですけれども。実際デジタル化して、どんどんどんどん小さいものを拡大したり、他の地図と比べたり、更にGoogle Earthなんかで自分の家を見たり、あちこち世界を自由に飛んでって見たりすることによって、夜も遅くまでコンピュータの前で地図を眺めてるとか、夜寝ながら地図の夢を見てしまったりというような状態になって、非常に楽しい。逆にいいますと、今までは、先ほども申し上げましたように、地図がごく一部のコレクターの、個人に関してですけど、コレクターが秘蔵している、いってみれば、こっそりと。値段の高いものですから、奥さんに内緒でこっそりと買ってきて、そして夜中に奥さんが寝てから、一人で見てにたにたしてるという、そういうものが多かったらしいんですね。まぁ高いですし。昔、藤原真一郎さんなんていうのは家を3軒も売って古地図のコレクションやったっていう話も聞いてますし。それが、ただでいくらでも見れる。そういうコレクターの方のところに行って「見せてくれ」っていっても、なかなか見せてくれませんし。図書館でもなかなか見せてくれない。ミュージアムでも見せてくれない。それが自由に見れるようになったっていうのは、これは本当画期的なことじゃないかと自画自賛しているような次第です。
[安村] ちょっといいですか?[101:24]たぶん、さっきの地図の話は、先に電子地図っていうのがどんどん普及して、で、GISができて、衛星から地球の写真をいっぱい撮れるようになったんでね。それをだからやってた連中が、今、普通に Powers of 10 みたいにして、ズームにしていろんな解像度のが見れると。ローテーションとか3D的に見れるってことをやってたんですよ。それをやって「共通プラットフォームいるね」と思っている矢先に、GoogleがああいうGoogle Earthを作っちゃったので。彼らは結構自分たちの努力はなんだったのかとか思ってるぐらいで。つまり地図の電子化とか、先にそれが進んでたんですよね?でもそれはみんな、すごく先進的な研究者だけのものだったので。それをGoogleがみんなが使える状態に一気にしてしまって世の中変わってしまったんですよね。
[野島] ウェブのときと同じですよね。
[佐藤浩司] なんでそれが地図だったんですか?
[安村] ん、え?
[佐藤浩司] なんでそれが、対象が地図なのか。
[安村] だから地図のニーズは昔からあって。道路だとか住宅だとか、あと電気・ガスだとか、そういったのもあるし。それからあとはもうちょっと高度な、要するにスパイ衛星。さっきも出てきました、ああいうニーズがいっぱいあったんだと思いますよ。ただそれが、さっきの話では、夜古地図を眺めるみたいのはやっぱりお金持ちしか使えなかったんですよね。で、Googleはそれを変えちゃって。だからまさにGoogle2.0的な発展ですよね。
[野島] だからウェブが生まれたときも、1990年代の初めになってモザイクとかネットスケイプとかああいうのが出てきたときも、技術的にはもうそんなのあって、みんながネットワーク上で情報やりとりするってできたけど、それが簡単にできるようになったっていうのが、やっぱり例のキーホールとかGoogle Earthが出たときのインパクトですよね。あと、それがなぜ地図かっていうのは、それも僕は面白いと思うんですけれども。
[佐藤浩司] 僕は別に地図のマニアじゃないんだけど、Google Mapとか出始めた途端に、地球上の、たとえばアマゾンはどうなってるかとか、自分の家はどうかって、実際にやっぱり見てみたいと思って見ますよね。衛星からの写真をね。たぶん私だけじゃなくて、世界中のインターネットにアクセスしている人がやってるんだろうと思うんですよ。それが、まさに我々にとっての集合的な記憶とか、なんかそういうのに関わってくるのかなと。そういうことがちょっと思ったことですよね。だから、かつてであれば、ある土地に住んでる人がある社会を形成してたわけだけど、こういう都市型の社会になると、まぁ定住してないわけですから、我々は。あまりその土地に縛られるような考えもなくなってきてたと思うんですよ。そういうところに持ってきて、突然こういう地図とかね、空間的に物事をとらえましょうというツールができてきたことによって、なにか我々自身のアイデンティティの持ち方が変わってくるのかな?という、ちょっとそういう予感を感じただけでね。具体的にどういうことかっていうのは言えないんですけど。
[石松] まさにグローバライゼイションそのものですよね。
[佐藤浩司] あ、それはね。グローバライゼーションになるのか、それともローカライズしていくのかが、ちょっと気になってるとこなんですよ。日本地図を見る人が日本人とか日本マニアじゃなくて、それがまさにグローバルにいってるわけですよね。そこは面白いところですよね。
[野島] 反応はどうですか?先ほど今まで7人しか見てなかったのが40000人っていわれてましたけど、フィードバックっていうのはありますか?たとえば、どういうところでなにが面白いとか、こうしてほしいとか。
[石松] 先ほど申し上げましたようにワーナー・ブラザーズが映画に使いましたよね。それからイギリスのBBCが番組で使いたいっていってきましたし。津波のあったあとではU.S. Geografic Surveyの人が本を書きまして、「みなしご津波」という、カリフォルニア沖で起きた津波が日本に行って大きな被害を及ぼしたっていうような本にも使ったりですね。なんだかんだ、あちこちあちこちありまして。それから更に、私のプレゼンテーションでこういうのがあると知って、ホウタンの地図ですね。仏教系の地図ですけど。あれを見たコロンビアの先生がバークレイまで飛んできまして、とにかく現物を見せてほしいって。人間の欲っていうのはやっぱり、どんどんどんどん深くなりますから。現物を見て、その匂いを嗅いで喜んでました。反響はとてもいいと思います。要望、こういう風にしてほしい、ああいう風にしてほしいという要望は、それはあんまり、ちょっと。
[野島] はい。
[安村] いいですか?[106:31]すごい面白いんですけれども、やっぱりああいう地図見てると、そこの裏にある文化的背景というか、人の暮らしとか、そこに書かれている意味をどう読み取るかですよね。それ、先ほどまさにおっしゃったように、それこそ専門家だとか、それをよく知っている人だとそれが見れるので、そういう人達の、また先ほどのコレクティブ・ノレッジでしたっけ、集合値みたいなのがうまく働いて、それらが蓄積されて、その地図とリンクしつつ、そういった人の書き込みがうまく増えてくると面白いですよね。
[石松] ええ。
[安村] そういう試みはされてるんですか?
[石松] いや。私はライブラリですからやってませんけど、そういうことができるようにしたいですよね。
[安村] そうですよね。うん。
[石松] Google Earthっていうのは、前身がキーホールだったわけです。キーホールっていうのはもう既に、あそこの鍵穴のところに、中にいろんな情報が入ってるわけですね。ここのレストランはおいしいとか、ホテルの値段とか説明は、そこクリックすればいくらでも入るようになってる。キーホールっていうのはもともとはゲームだったんですね。子供用のゲーム。地球上をぐるぐる回ってやるというゲームのソフトだったんですけれども。ただ有料だったんですね、確か1年間25ドルとか。
[野島] あぁ、そうでした。
[石松] それがちょっとネックですね。それを、今年の6月ですか、Googleが吸収してしまって、タダにしようと。タダでやったことによって、今現在一日に100ミリオンアクセスがあるそうです。Google Earth、世界中で。それも日本と中国の人がすごく多いんだそうですね。100ミリオンっていうと一億ぐらいですか。
[野島] 一億ですね。
[須永] ミリオンだから一億アクセス。
[石松] ただGoogle Earthだけじゃないんですよ。ナショナル・ジオグラフィックもやってますし。あれはみんなNASAのデータですから。ちょっとGoogle Earthが怠けてると、ナショナル・ジオグラフィックの方でもやってますし。
[野島] じゃぁ南さん。
[南] すみません。[108:40]成城大学の南です。ちょっと今日の話とは違う話になるんですけども。京都大学にいらっしゃったときに、2、3分しか見せてもらえない古地図っていうのは貴重なものだからそうなんでしょうけど、なんとなくでも、私実はUCSDで博士号とったりして、アメリカの図書館のライブラリアンの方の考え方と、日本の図書館のライブラリアンの考え方とだいぶ異質なものを感じてまして、その辺なんかも含めて、持ってる資料をともかく保存を優先する日本と、もうちょっと使ってもらうということを優先するみたいなことを感じてるんですけど、石松先生、その辺のあたりも含めて、こういう使ってもらうっていう方向性があるからこそ、こういう企画にも飛びつかれてるんじゃないかと思うんですけど、日本でもこういう方向で行きそうなのか、あるいは、そこちょっと日本のライブラリアンが変わらないととか、その辺なにかお考えがありましたら。
[石松] 早稲田大学は一生懸命やってると思います。古典籍データベースっていうので日本の古典籍をデジタル化して、それを一般公開するという。早稲田大学は非常に開かれた大学というのを一生懸命やっているようなんです。よくやってない大学は、やっぱり差し障りがありますのでいいませんけれども。まぁ一つの、おっしゃった、確かにライブラリ・カルチャーっていうのはかなり違うと思いますね。ご存知かと思いますけれども、またGoogleになっちゃうんですけれども、まぁYahooもやってますけれども、Google bookという新しいプロジェクトがありまして、アメリカの大学図書館の蔵書を全部デジタル化してしまおうという。今ハーバード、ミシガン、スタンフォード。今度はUniversity Calfornia system全体で入ったんですね。それで先週はUniversity of Wisconsinがまた入ってきた。ちなみにカリフォルニア大学のシステムだけで蔵書数が3500万冊あるわけです。それを全部デジタル化するという。で、それに対して、反対する、心配する出版界とか、あることはあるんですけれども、大学側・図書館側の思想といたしましては、これは州の、国民の、人類全体の財産であると。特にカリフォルニアのように地震があったり山火事があるようなところでは、万一のときにそれが全部なくなってしまう可能性もある。それを防ぐためだけでもデジタル化する必要はある。実は2年ぐらい前でしたか、ハワイで大きな洪水があって、ハワイ大学の図書館の蔵書がずいぶん水浸しになって破壊されてしまったんですね。そういうことがあってはならないという、そういう姿勢があります。先生もご存知のように、州立大学ですから一般の人達に全部開放していますね。州民でしたらば誰でも使えるという、そういう開かれた大学図書館ってなってます。
[野島] はい、加藤さん。
[加藤] はい。京都のシィー・ディー・アイの加藤と申します。[112:19]先ほど佐藤さんのご質問よりはちょっと漠然としてるかと思うんですが、記憶というか、のことで考えたときに、日本の古地図というのは古いもので行くとかなり古いものまで一応考えられるかなぁと。出てるのは近世が多いかなぁと思うんですけれども、神社とかお寺で引っ張っていこうとすると、かなり古いところまで重ねたりすることができると思うんですけれども。バークレイでやって反響が大きいというのは、たとえばアメリカにとってですね。先ほどちょっとニューヨークの古い地図と重ねたりというのがありましたけれども、アメリカっていっちゃうとちょっと広すぎるかもしれませんが、アメリカの人達にとって、古いもののパズルを埋めていくようなものに対する欲求というのが非常に強くて盛り上がってるというようなこともあり得るんでしょうか?
[石松] んー。どうでしょうか。よくわからないですね。それは日本の古地図についてですか?それとも。
[加藤] 自分たちもやっぱりこういう風なことができるんだったら少しでもやっていきたいというような、なにか探求したいというか、過去に対する。
[石松] うん。実はこのプレゼンテーションの一番最初に話しましたけど、3年前にDavid Ramseyさんという個人のコレクターとパートナーシップを組んで、このプロジェクト始めたんですけど。David Ramseyさんは既に自分の持っている約10万点のアメリカとかヨーロッパの古地図のデジタル化をこれと同じ方法で始めまして、既にもう1万点ぐらいが入ってるんです。そのプロジェクトに我々は乗っかって一緒にやってるというので、基本的には同じプロジェクトなんですね。デイヴィッドさんは有名なコレクターなんですけれども、他にもアメリカにコレクターがいるので、いろいろ声掛けるんですけどなかなか公開したがらない。そういうところがあります。David Ramseyさんはなぜこういうデジタル化に踏み切ったかといいますと、ご本人がそういうカメラの撮影のプロでもあるんですけれども、今62、3なんですけれども、今まで集めた膨大な量の古地図とか地球儀が、あと自分も20年ぐらいすれば死んでしまう、そのあとどうなるのかってことを考えると、おそらくたぶん図書館とか博物館に寄付される。そうすると、また死蔵してしまう。誰にも見せてくれない。それじゃ嫌だっていうんで、全部自分のもの公開しよう、みんなに見てもらおうという、そういう姿勢で始めたんですね。ちょっとお答えになってませんけれども。
[野島] あの、Google Earthの前のGoogle Mapが出たときに、Google MapでAPIとかを公開していろんなことができるようになったときに、アメリカの方から一番最初に、地図上に自分の先祖を辿るみたいなのが結構流行ってるじゃないですか。
[石松] うん。
[野島] それで、先祖が最初ヨーロッパから来て、それからアメリカのどこか、ヴァージニアに行って、それから西に行ってなんとかっていう、そういうのを。家系図と地図を対応させるっていうのがパッと作られて、それはすごくアメリカ的かなぁって気がしたんですけど。やっぱりそういう趣味っていうのとも合うところがあるんですか?これは。
[石松] そうです。いろんな汎用法があるんじゃないですか。たとえばアメリカの日系人の移民のところによく「500ドルぐらい払えば、あなたの家系を調べます」なんていう商売人が来るんですよね。そうすると大体みんな先祖は大名なんですよね。日系人の人達は結構、やっぱりお百姓さんなんかで来てる人が多いわけですよね。だけど大名なんです。これはオフレコにしてください。
[笑]結構系図を持って喜んでる。系図好きですね、非常に。
[野島] 好きみたいですね。
[石松] ええ。
[野島] えーと、他には?
[佐藤浩司] 久保隅さんがさっきなんか。
[久保隅] あ。
[佐藤浩司] あとね、須永先生のお兄さんかな。
[須永(兄)] はい。
[佐藤浩司] 専門、地図かなんかされてますか?
[須永(兄)] いやいや。ごめんなさい。いいですか?
[佐藤浩司] あと久保隅さんが先に。
[須永] あぁ、じゃぁ先に。レディファースト。
[野島] どうぞ、久保隅さん。
[久保隅] はい。コニカ・ミノルタの久保隅です。[117:23]今日は、実は石松さんの方は、以前私達どもの方でUCBにお邪魔したときに、デジタルのこれからを考えるというヒントをいただきに、いろいろと大学の図書館というか、そういったデジタル化のインパクトがどうなっていくのかというところの関心がありましてお話をいただいて非常に面白かったので、是非みんぱくでもお話し頂きたいということで佐藤さんと野島さんの方に無理にお願いさせて頂いて、今回の会につながりました。ですので私どもの関心の方は、やっぱりデジタル化する作業っていうのは、すごく時間もお金もかかる。そういう作業。なのにもかかわらず、誰にでも使えるように、フリーで、無料でアカウントもなしでやられる、そういう風にやっぱり決定されるのっていうのは結構いろんな圧力とかがあったんじゃないかなぁという風には思うんですけれども、そのあたりはいかがだったんでしょうか?
[石松] お金をとるっていうことは、初めから全然考えなかったです。それから学外者向きとか学内者用のバージョンを変えようとか、そういうことも全然考えなかったですね。かえってお金をとる方が大学としては難しかったかもしれないですし。それからデジタル化。最初のカメラを買うときにちょっとお金かかるのと、あと色の調整をする専門家のお金がかかるけども。そんなにお金かかりますかねぇ。
[久保隅] いや、どうなんでしょう。時間はかかりますよね?
[石松] 時間はかかりますけどね。
[久保隅] あれはすごく大きい地図から小さい地図までかかって。手間暇が。
[石松] まぁ人件費がちょっとかかるかね。
[久保隅] 一度やってしまえばいろいろ活用できる。
[安村] さっきのキャリブレーションが大変だけれども、そういった、もっと美術作品とかいうと照明の明るさとかがうるさいみたいですけど。古地図の方はとりあえず。そんなに簡単じゃないかもしれませんけれども。
[石松] 古地図の方はでもね。カラー、色調整が大変です。
[安村] あ、そうなんですか。
[石松] ものすごく大変です。
[安村] へぇー。
[石松] 具体的な名前は出しませんけれども、古地図をデジタル化した他のミュージアムとかライブラリもあるんですけどね。その色の調整の、もう見ただけでもきれいさが違ってくるんですね。その辺が残念なんですけどね。その辺に人件費としてお金かかると思うんですね。
[久保隅] Googleはやってくれたりしないんですか?
[石松] いや、Googleは全然やってくれない。
[久保隅] やってくれないんですか。
[石松] Googleは我々が持っているものを抜いてるだけで。
[久保隅] あぁ、そうなんですか。今後Google Earthで、たとえば今2006年ですけど、2007年、2008年の衛星写真というか、衛星地図と、5年ごとと重ね合わせたりできるとか、そういうのもできるんですかね?
[石松] 先のことは全然わからないですね。3ヶ月先のこともよくわからないです。ですから、私のこういうプレゼンテーションも何度もやりましたけど、毎回ちょっとずつ違ってきてる。
[久保隅] そうですよね。
[石松] こないだお見せしたのとまた違うでしょ?
[久保隅] そうですね、はい。
[石松] それだけ進歩が早いんですよね。
[野島] すみません。Googleの本の方も、先ほどいろいろな大学が図書館の契約するとかってGoogleでやってるって話。あれはGoogleの方からお金は出ないんですか?
[石松] あれね、お金じゃなくて。作業自体はGoogleが全部タダでやるって。
[野島] あぁ。あそこが、そこに本を貸し出すって形になるんですか?
[石松] ええ。そういうことです、はいはい。
[野島] あぁ、なるほどね。そういうことか。いかがでしょう?
[須永(兄)] あぁ。すみません。同じ須永といいます。[121:03]地図の専門家でもなんでもなくて、たまたま先日弟の方からご紹介したかと思うんですけれども、十勝で簡単な地図を使った情報の収集あるいは共有システムを、私自身はコンピュータのシステムエンジニアなもんですから、それをお手伝いした関係もあって、ちょっと地図に興味があるということで、遠路はるばる今朝横浜から参上した次第です。すごく興味深いお話をいただいて。ちょっと自分が思っていたインタフェースにすごく近くて。たとえば古い地図と現在の航空写真を重ね合わせる、それを連続的に変えていく、みたいなインタフェースはすごく面白いと思いました。僕は個人的な関心事項として、なにかビジネスと関係あるっていうことではまだないんですけど、やっぱりさっきちょっとご紹介されたように、その地図を比較するということの面白さだけじゃ人間まだ充分に楽しめなくて。そこにいろんな、たとえばさっきの吉原の話だとか、それから中道の話だとか。たとえば、そこに落語の、名前忘れましたけど、馬籠、なんだっけ。なんとか籠とかっていう落語っていうのはまさにあそこら辺を描いてるわけですよね。それから昔の江戸の町名がすごく落語には当然出てきて、それが最近の何十年間の間に全部消えてっちゃってるみたいな状況を、やっぱり、昔を思い出すとか、あるいは昔の事実と今の事実を対比するみたいな中に、やっぱり文化を伝えていくというか。なんかいろんなノウハウを、地図というインタフェースの上で見やすくしていくというか、理解しやすくしていくということが、もう一個乗っかるとね。だから今の石松さんのプラットフォームを活用させて頂きつつ、上になにか載っけるようなものを作れたらいいなぁという風には感じました。ただ、それを具体的に、やっぱりさっきお話あったように、すごいお金のかかる話ですし。それから当然そのプラットフォーム。デジタライズするだけでもお金かかるし、プラットフォームにして、というところまでいくとね。これまただいぶ大変なプロジェクトになるんでしょうけど。
[石松] あの。一番最初に申し上げたように私達はライブラリアンですから、自分で料理しちゃいけないんだと思ってるんですね。よくこういうデジタル化のプロジェクトで、大学の先生がやってるプロジェクトは、その先生の興味のある研究のためのデジタル化ですから、どんどんどんどんプロジェクトが専門的なプレゼンテーションっていうか、データベースになっちゃってるんですね。だから料理のしようがもうないっていう、逆にいいますとね。前の韓国での学会のときに韓国の先生がヒストリカル・マップを使って、GISを使って、韓国の仏教のお寺が、年代が近くになってくるに連れてどんどんどんどん山の上の方に移動していくという発表をされたんです。仏教がだんだん虐げられていくに従って山の上の方に逃げていくという。それはそれで非常に面白いんですけれども、そういうデータベースを作っていったい何人の人が役に立つの?っていうのを、失礼ながら聞いてしまったんですけれども。そしたら「まぁ5人ぐらいかなぁ」って。それでハーバードの先生もよく似たようなこといってる。ライブラリアンとしては、なるたけたくさんのコンテンツとメタデータを提供する。ただいま先生がおっしゃったように、その上に落語を加えたり美術史を加えたりするのは、もうご自由にやっていただいて結構ですという発想ですね。それはもう今の時点で可能だと思います。できると思います。
[須永(兄)] 今の石松さんの活動に関連したネットワークの中で、その古地図をデジタライズしたり、あるいはさっきのGISデータとして修正していくみたいな作業をされてる団体はご存知ですか?
[石松] 日本でですか?
[須永(兄)] ええ。
[石松] はぁー。ちょっと。これと同じようなのはないですね。日本によく似たコンテンツ・ソフトウェアっていうのがあって、それを使う。日本でわりと盛んに使われてるんですけれども。アメリカでも他あまりないし。
[須永(兄)] ない。うん。
[石松] 地図に関しては。[126:06]んー。
[須永(兄)] ありがとうございます。
[安村] ちょっと別の質問いいですか?
[野島] ええ。
[石松] あ。すみません。ひょっとしたら立命館大学のアートセンターの赤間先生のところに問い合わされたらば。古地図もちょっとやってらっしゃいますし。歌舞伎とか落語のデータベースの作成やってます。
[須永(兄)] あぁ、そうですか。ありがとうございます。
[石松] はい。一番、たぶん立命館が活発じゃないかと思います。
[安村] いいですか?先ほど日本が地図をみるとき、畳に置いて見るという話がすごく面白かったので。[126:49]つまり、いわゆる伊能忠敬とか近代の地図じゃなくて、主観的な地図といいますか。最近でも観光地の地図って、なんか山が立体的というか俯瞰的なのありますよね。そういう意味で、一つは日本人の地図を書くときの見方というか、みたいなのとか、あるいはそれがどういうバリエーションがあるとか、そういうことはなんかありますか?たとえば、北が大体上なのが当たり前なのか、そうでもないとか。さっきの江戸の地図なんか、北が上でもなかったですよね。
[石松] 違いますね。
[安村] ええ。
[石松] あれはね。あれはね。
[安村] 確か西が上だった?
[石松] 西が。西北西。あれはね、ちょっと。まぁ方向がないといえばないんですけど、あるといえばあるんですね。というのはレジェンドっていうのがありますよね。解説でこの記号がどこにあるか。それによって地図の正しい方向とかですね。それからタイトルが書いてますね。「江戸大絵図」って[128:04]。それを基準にするならば方向はあるわけですよ。ただ実際に地図を見る場合には、いろんな方向から描いてあるんですね。ただ江戸の大絵図の場合は大体西が上になるんです。
[安村] あぁ。
[石松] そうすると、いわゆる下町と呼ばれている庶民が住んでるこの下町が右下に来るんですね。で、お城がちょうど上に行くんです。だからお城を下に見ないように。
[安村] あ、そういうことですか。なるほど。
[石松] ええ。
[安村] ふぅーん。じゃ京都なんかは、たぶん北が上で表されるってことですか?[128:19]
[石松] いや、京都はですね。北が左ですね。
[安村] 北が左に来るの?
[石松] ええ。
[安村] ってことは東向きってことですか?
[石松] 細長い、こういう感じ。
[安村] あぁー、そうなんですか。へぇー。じゃ、その土地土地によって描かれ方が違うってことですか?
[石松] どうしてでしょうね、京都はね。それからもう一つ。これは確認のためなんですけど。今日お見せした地図は、みんな一般的商業ベースで出版された地図です。ですから、そのほかに幕府が命令して作った国絵図っていうのがある。徳川時代の間に4回立派なものを作りまして、作ってすぐに幕府の図書館の中にしまってしまったというような。それでそれは各大名に命じて、正確な地図を作って、それを合わせたものが4回あったんですね。その延長線上に最後に伊能忠敬の大きな素晴らしい地図が出てきますけれども。今日バークレイにはそういうものはもちろんありません。ただ、こういうコマーシャルの方が面白い。
[笑]伊能[129:39]地図も面白いですけどね。
[床呂] すみません。今のに絡んで一つよろしいですか?[129:43]先ほどの江戸時代の地図で、現代の人工衛星とかスパイ衛星の画像と重ね合わせても、非常にクリアに同じようにトレースできるっていうのに非常に驚いたんですけれども。ああいう写実的といいますか、実在する物理空間と一定の比率でかなり正確に書いた地図っていうのはいつ頃?今のお話だと伊能忠敬とかの測量とかの。
[石松] いや、伊能忠敬はもうずっと江戸の後期ですし。
[床呂] 後期。うん。もっと全然前?
[石松] さっきお見せしたのは、もう。一番早いので1680年ぐらいの地図ですよね。
[床呂] はぁはぁはぁはぁ。
[石松] ええ、ええ、ええ。
[床呂] 初期の焼き物。初期の伊万里焼、焼き物の。あれに地図を描いたやつありますよね。
[石松] はいはいはい。
[床呂] あれなんかは、聞くところによると、必ずしもそういう物理的なニーズには対応してなくて、非常に希望的な。まぁトポロジカルな位置関係ぐらいは模してるのかもしれないですけども。じゃぁ1600、
[石松] 1608年でしたっけ、一番古いやつ。お見せした中で一番古いやつですね。
[床呂] もう一つ。江戸時代の江戸時代版地球の歩き方みたいなやつがありましたよね。あれ非常にまた面白かったんですけれども。あれは山をわりと横から描くようなスタイルだったかと思うんですけれども、あれもわりと写実的に実際の山の形の情報とかはわりと伝えてるんでしょうか?それとももうちょっと記号的に、山っていう感じで置くような、そういう感じなんですか?
[石松] その辺はわかりません。
[床呂] あぁ、そうですか。非常に面白かった。
[石松] はい。私もアメリカ長くて、あまり日本のこと知らないので。山の格好とかそういうの、わからないのでよく知りません。もしよろしかったら、見てみてください。
[須永] あ、いいですか?
[野島] はい、どうぞ。
[須永] どうしても聞きたくなっちゃって。先生おっしゃった一目図っておっしゃいましたね。日本が一目で見えるとか。その俯瞰するっていうことは地図を作ろうと思う人間にとって非常に大事な気持だと思うんですね。一つの、自分がとらえた対象を一目の中に収めて描いてみようという。そういうような営みというのかな。人間の表現とか知的営み。それっていうのは地図にすごく表れていると思うんですけれども、地図をたくさんご覧になってる先生から見て、たとえばさっきのスウェーデン人の文章もありますよね。文章は何ページに渡って淡々と書いていく。そのスウェーデンの人の本は一目じゃないですよね。読まなきゃいけない。だけど地図っていうのは、ある程度一目。さっきの「地球を歩く」的な細かい話も、あるページを切って、長さを広げれば、そこに一目になんか自分ができそうな可能性空間がワーッと見えてるような、そういう地図の面白さっていうのかな。人間の興味とか知的営みと、地図という表現物の関係があると思うんですけれども、石松先生が地図のご研究、それからライブラリアンとしてお仕事されてて、地図への興味というのはあると思うんですが、どういうところにあるんですか?あるいは、この一目するということはどんな意味があるのかっていうのかな、地図において。人間にそういう情報を提供するメディアの形として。表現形として。
[石松] 本当に申し訳ないです。私にはわからないです。ただコロンビア大学のHenry Smith先生が、先ほどお見せした鍬形恵斎の江戸一目図と、それから日本国全体の鳥瞰図についてのいい論文を書いていらっしゃるので。
[須永] あぁ、そうですか。
[石松] 私も読みましたけれども、もしご興味がありましたら、その論文のコピーを送って差し上げますけれども。
[須永] あぁーそうですか。是非お願い致します。ありがとうございます。
[石松] はい。ちなみに今Henry Smith先生は京都に。コロンビア大学を引退されまして、京都の日本文化研究所にいらっしゃいます。
[須永] あぁ、そうなんですか。あー。
[石松] あ、日文研じゃなくて、なんですか。アメリカの大学の、
[須永] スタンフォードの入ってる?
[石松] はい、そうです。スタンフォードのあっちのほうです。[134:17]
[須永] あぁ、そうですか。ふーん。ありがとうございます。
[佐藤浩司] あの、ちなみにですね。[134:23]みんぱくも実は、なんというか、世界を周遊して歩いて、最後日本に来るんですよね。そういう構成になってて。まぁ世界を知って、最後日本に来て、自分はなにかを知る。そういう一種の地図と相関するような。
[須永] あぁ、そうですか。館の構成。
[佐藤浩司] 発想で、このコレクションができてます。ただ、そういう形で世界を理解し自分を理解するという営みが、なんか最近難しい、もう無理なのかなという感じがちょっとあって。世界を理解しても自分が理解できない。だから館の構成自体を変えなければいけないのではないかという段階に我々は来ています。ちょっと今の話とは違いますけど。
[須永] はぁー。ふぅーん。
[野島] あぁ、じゃぁ加藤さん、どうぞ。
[加藤] すみません。[135:14]変な質問だったら申し訳ないんですが、私、南先生がおっしゃったライブラリアンの話っていうのに実はすごい関心があって、日文研で昔研究者データベースを作ってたときに、ライブラリアンっていうのをどういう風な形で紹介すべきかっていうのですごく論争したことがあったんですけれども。先生がいろんなところでプレゼンテーション、たとえば韓国で竹島が、竹島とは向こうはいわないでしょうけれども、黄色がかかったとかで反響があったとか、いろんなところでお話をされている、学会なんかで発表されているのは、たぶんこのプロジェクトを知って要請されてたくさん今行かれてると思うんですが、どういう分野から関心が。単純にいうと、地図を扱うのは歴史の人とか地理学とかかなぁという風に、従来的には思うんですが、たぶん、このゆもかは非常にいろんな学際的なというか、いろんな方々が来ていて、皆さんそれぞれに「すごい面白い面白い」という風にたぶん聞いておられると思うんですが、それで行くと、今この情報関係の方々がずっとそういうことを衛星写真とかでいろいろ加工してて面白がっていたという流れと、たとえば仏教のなにかを研究したり、たとえば曽根崎心中のことを研究してた人が地図上にそれをやったら非常に「あぁ、なるほど」、今のお初天神知ってる人は「あんな都会で」ってやっぱりどうしても思うんだけれども、「こんなにはずれだったんだよ」っていうのがあんなに明らかになるじゃないかみたいな発見とか、いろんな使い方がそれこそ本当にあると思うんですが、日本の場合と海外の場合とどちらでも構わないんですけども、どういうところからどういう興味が強く先生のところに寄せられているのか、というのが教えて頂ければありがたいです。
[石松] はい。まさにおっしゃる通りでして、実は反響がいろんなところ。反響の多様性っていうんですか。興味のニーズに非常に驚いているわけです。こないだスウェーデンでやったときは哲学学部から、日本なんかのこと全然知らない哲学者ばっかり集まって。あと科学史の人達ですね。その人達から呼ばれて話しました。だから江戸とはなにか。江戸っていうのは東京の前の名前なんだって、そういうとこから始めて話したんですけれども。それからあとは美術史から呼ばれることが多いです。先々週ですか、スタンフォードで呼ばれたときは美術史でしたし、シカゴ大学でも美術史だったです。一昨日慶応大学でもやったんですけど、それは美術史のセミナーで、講師でやったんですね。あとはシンガポールのときは日本演劇史ですね。performing art。歌舞伎とか。そこで実は立命館の赤間先生とも一緒だったんですけれども。残念なことに、あまり図書館学の人達は来ないですね。日本研究のグループとか、そういう。ですから逆にいいますと、デジタル化したことによって、今まで古地図っていうのが古地図の好きな人だけが見るものだったかもしれない、あるいは。それがこういう身近に、自分の家で古地図が自由に見られるようになったということによって、新しい分野の人達が研究価値というか楽しさを発見してきたようなところがあるんじゃないかと思います。その一人として、私もそのうちの一人だと思います。
[野島] そういうのっていうのはきっと、たとえば音楽だってクラシック音楽なんて昔は聞けなかった。本当に王侯貴族じゃなきゃ聞けなかったのが、レコードとかなにかによって一般化して、そこでまた新たなものが生まれてるってことですよね。
[石松] そういうことです。
[野島] たぶん地図はアーカイブが出てきてる
[?][139:36]。それでほかのは。なんで地図かって最初に佐藤さんがいわれてましたけど、もしかしたらこういうような仕組みが、たとえば写真のアーカイブっていうのがすごく自由に使えるようになったら、もしかしたらまたそれが新しいなにかを生むかもしれないしってことは考えられますよね。
[石松] そうですね。
[野島] だからすごく面白い可能性がある話を聞かせて頂いたような気がします。とりあえず。なーんて今まとめちゃったみたいな感じですけど。とりあえずよろしいでしょうか。どうも本当にありがとうございました。
[石松] どうもありがとうございました。
[会場拍手][140:13]
[野島] それでは自己紹介をかねてお話に入ってください。お願いします。よろしくお願いします。
[床呂] はい、わかりました。どうもありがとうございます。私もこの研究会今回初めてでありまして、実は今この瞬間までこの研究会がどういう性質のものかというのかをまったく把握しておりませんでした。それで私実は今日お話しするフィリピン南部のスールー諸島からボルネオ島という東南アジア最大の島で調査をいつもしてるんですけれども。佐藤先生からこの研究会で報告してほしいというメールをいただいたのもボルネオ島で調査中のときに、2週間に1回ぐらいそのフィールドから町に戻ってメールチェックなんかをするんですけれども、そのときにいただきました。そのときに佐藤先生がちゃんと丁寧に、今までこういう経緯でこういう研究をやってますみたいな情報、URLもいただいてたんですけれども、本当に生来が怠け者でして且つネット環境もあまりよくないということで見ずに来てしまいました。ほとんどもう先週ちょっと前ぐらいにボルネオから日本に帰ってきまして、そういうスケジュールだったので、最初は「いや、ちょっとあまり準備もできないし、そういう空間に関するプロでもないので」とお断り申し上げようと思ったんですけれども、佐藤先生の方から「いや、別に全然人類学とか東南アジア研究者とか、そういう専門家の方じゃなくて一般の方々に向けて普通にわかりやすく、自分のやってることを説明してくれればそれでいいから。謝金も出るし紅葉も見れるよ」みたいな甘い言葉につい騙されてここに来てしまったなぁという感じなんですけれども。
自己紹介をかねてということですので、スールー諸島からボルネオの話はあとで十分やりますので、それ以外のテーマの話をちょっとだけやらせて頂ければと思います。先ほど石松先生のお話、僕は大変本当に面白くて、実は自分の発表やるよりもまだまだ続きを聞きたいなというのが本音なんですけれども。この中にも、わりと広い意味でのもの作りに関わる現場の方。あるいは研究者でもものに関連している方が非常に多いというので大変面白いなと思いまして。と申しますのは、私現在職場は東京外語大のアジア・アフリカ言語文化研究所という長ったらしい、略称AA研というんですけれども。そのAA研で資源人類学。資源はresourceですね。resource anthropology、資源の人類学というプロジェクトに入れさせて頂いてずっと研究会をやってるんです。その中でも小生産物。小さな生産物、small productsの研究班。資源人類学はいろんなチームに分かれてるんですけれども、その中でsmall products研究班というのに入れさせて頂いて。まさに時々こういう研究会をやっては、翌日にはエクスカーションにいって必ずもの作りの現場を見る。場合によってはもの作りだけじゃなくて、流通とか消費とか利用とかそういうのも含めますけれども。そういうのをやっております。
このプロジェクトはもう今年で終わるんですが、来年からまた、私が今度申請でプロジェクト・リーダーということで、ものの人類学というプロジェクトを立ち上げようと思っております。アフリカをやっている人類学者で川田順三さんという方がいるんですけれども、その方なんかにも入ってもらったり、あとは霊長類学者ですね。京大の霊長類学の方、ご存知の方も多いかもしれませんけれども、霊長類においてものの使用、道具使用というのは非常に発達していて、今まで「言葉を喋る動物且つ道具を使える動物」という人間の古典的な定義があったかと思うんですけれども。もう言葉の方も結構サイン言語が喋れるとか、道具に至ってはアフリカのチンパンジーはものがかなり使える。インタラクションが、ものの加工までやってるということもわかっているということで、いわば比較の視野ということで霊長類学とかあるいは考古学の方。それから実際に現場でもの作りに携わっている人にも、場合によっては研究会で報告をして頂くということを考えておりますので、皆さん、またご協力をお願いすることが逆にこちらからあるかもしれませんけれども、是非よろしくお願い致します。あとそれ以外に、まったくずれてしまうんですけれども、スールーとか私のフィールドに関するテーマでいうと、ちょうど去年の今頃は私上海の学会で報告したんですけれども、その学会がなにかといいますと、海賊。パイレーツに関する学会なんですね。パイレーツといっても別にビデオのpiracyとかじゃなくて、本当の海の海賊です。海賊というのは日本ではそれこそ、さっきの江戸以前の、もう中世とかに戻っちゃう話かと思うんですけれども、東南アジアにおいて海賊というのは決して過去の話ではなくて、現在でもマラッカ海峡とか非常に盛んなわけです。[210:58]私がやってるスールー諸島の辺も実は結構海賊が出るところです。そこで私は人類学なので、ディシプリンとしてはどうしても人に話を聞くと。ただ現役の海賊に話を聞くってなかなかいろいろ問題があって難しいんですけれども、昔海賊をやったことがあるというもう80ぐらいのおじいさんとかがぽつりぽつりと語り出してくれる。そういう海賊のライフ・ヒストリーみたいなことを聞き書きして、本にも一部まとめたりとかしてるんですけれども。それを今回の研究会でもいろんな方がいらっしゃってて面白かったんですけれども、上海の学会も非常に面白くて、僕はてっきりヒストリアン、歴史家の方とか人類学者なんかを前に喋るのかなと思ったら、オーディエンスの半分ぐらいが海軍の軍人さんとか。本当に勲章つけた制服のカナダ海軍の軍人さんが一番前で陣取って聞いてたり、あとはシンガポールの諜報機関の関係者の人が来てたり非常に得難い経験というか面白い経験をしました。そういうことでいろいろなことをやっております。
じゃぁ、もの作りの現場でどういうものを見てるんだということを一つだけ。本筋には関係ないんですけれども。先ほど須永先生ですか、工業製品のデザインの話をされてましたけれども、人類学者なのでどうしてもどちらかというと伝統的な工芸品ですよね。小生産物。そのローカルに属した地元の材料をできるだけ使って、手作り的な工程が必ず入るようなものがどうしても中心になっちゃうんですけれども。たとえばこれは去年、一昨年かな?もう。沖縄に行きまして、琉球の紅型っていう染め物の加工現場ですね。染め物の技術は第二次世界大戦のときに徹底的に沖縄の土地と文化が完全に破壊されて一旦途絶えたんですけれども、城間[213:28]さんという非常に有名な方が復興させて、首里の近くで琉球紅型というのを再生させています。今ではたくさん工房ができていて、最終的にこういう琉球紅型になるわけですね。こういうのが地元の人の、それこそあとでまた私もアイデンティティなんていう話もしますけれども、そういうのに結びついている。あと、ついこの間いったのは益子ですね。益子に民芸運動の担い手の人に濱田庄司さんという方がいらっしゃると思うんですけれども。その息子さんにあたる方ですね。そこの工房にいって、実際に彼が焼き物作り・壺作りをする現場に、それこそエクスカーションみたいな感じでみんなでお邪魔しながらいろいろ話を聞いたりというような活動。こういったことを各地でやっております。こういうプロジェクトをまた来年から継続していきたいということですね。
あと我ながらたくさんテーマが分裂しているというか、いろんなことやってるなと思っちゃうんですけれども、真珠養殖に関する研究なんかも最近はやってます。真珠の養殖技術というのはご存知な方も多いかもしれませんけれども、有名なミキモトパールの御木本幸吉ですよね。その人が1880年代に確立して、こういう核入れという非常に身体的な熟練を必要とする工程が必ず入るわけです。それが現在では日本だけではなくて各地に広がっている。それを追ってボルネオにも。ボルネオでも真珠養殖やってますし、フィリピンでももちろんやってますし、一番最近いった中では、日本名では「タヒチ、タヒチ」ってよくいいますけれども、フランス領ポリネシアでもいろんな真珠養殖をかなりやってます。そこでの私のテーマは、そういう身体に属した、属人的な技能がどういう風にグローバルに展開しているか、ネットワークしているか。ただそこでは非常に熟練があるんですけれども、熟練だけではダメです。と申しますのは自然環境、生態環境というのは非常にドラスティックに急激に変化するわけですよね。そうすると、その熟練の身体的な技能も変えなくてはいけないというような変化というのが場所ごとにどういう風になっているかというようなテーマです。タヒチも最初は日本人の総かく[?][216:00]技術者、養殖の技術者が全部やったんですけれども、今ではタヒチの地元の人とか、あるいは中国人の技術者も来たりしているという感じですね。すみません、ちょっと時間を食ってしまいましたけれども。非常に駆け足でしたが、大体私が今日発表するテーマ以外でやっているテーマということになろうかと思います。
ではいよいよ本番ということで、スールー諸島あるいは、もともとはスールー諸島なんですけれども、ついこの間ボルネオ島から帰ってきたということもありますのでボルネオの話が今回はむしろ中心になるかもしれません。佐藤先生の方から私を呼んでくださった理由として、地図的な認識とは異なる人々もしくは空間に縛られず生きている人々の一つの事例、サンプルとしてということが先ほどようやく理解できたんですけれども。そこで実は私困ってしまったなと思いますのは、場合によってはひょっとしたら佐藤先生が思い描いているような結論にはならないかもしれないということを、あらかじめエクスキューズを述べさせて頂きます。それで早速始めさせて頂きたいと思います。「移動、場所、アイデンティティ」ということなんですけれども。スールー・ボルネオ周辺海域におけるサマ人もしくは一般的にはバジャウという呼び方の方が有名なんですけれども、一応サマと呼ばせて頂きます。一般的にこういう海の世界ですね。遠浅の珊瑚礁の上で生活する海に暮らす人々、海洋民が今回のお話の舞台です。最初に佐藤先生の方からメールでいただいたときに「具体的なフィールドの話をしつつ、空間や場所と関係する話を是非しろ」といわれましたので、いろいろ考えました。大風呂敷な言い方で申しますと、人間にとって空間や場所というのがどういう風な意味を持っているのか、というのが一番大きな今回のテーマです。ただ、そういう大きな問題意識を広げつつ、風呂敷を大きく広げつつ、実際に取り上げる事例としては非常にマイナーなといいますか、特殊なといいますか、おそらく人間のさまざまな生活様式の中でも非常に珍しい方の部類に入る人々の事例を取り上げるということですね。そういう意味では、非常に特殊な事例から普遍的なテーマについてなにが言えるかということかと思います。
その対象なんですけれども、あとで地図をお見せしますけれども、スールー諸島からボルネオ東北東部沿岸。行政的にいうと現在のマレーシア領のサバ州というところに沿って生活する海の民サマとかバジャウと呼ばれる人々。あとでもう少し詳しくお話ししますが、その中でもサマ・ディ・ラウトと呼ばれる集団、これは海のサマ人もしくは海のバジャウ人という現地語での意味なんですけれども。今ではだいぶ生活様式が変化してるという話はあとで詳しくしますけれども、この人達は伝統的には少なくとも陸地には家を一切持たず、船に住んで、島から島へ漁場から漁場へと移動する人々なわけですね。そういうことから、よく一般的な紹介の中で漂海民、海を漂う民であるとか海のノマド、ノマドっていうのは遊牧民のことですね。海の遊牧民もしくは海のジプシー、ジプシーというのも、ご存知のようにヨーロッパで漂泊生活を送る人々、そういう俗称がある人々です。
なぜそういう人々を敢えて取り上げるかというのは、ある意味では人間の生活のあり方の中で最も極端なといいますか、珍しいようなあり方、生活の様式。すなわち常に移動を常態とするような人々にとって空間や場所というのがいかなる意味を持っているのだろうということ。たとえば先ほど佐藤先生おっしゃいましたけれども、定住的な農耕民ですとか現代の都市生活を送る人々と、どういう風に同じでどういう風に違うのかということが、もし言えたら面白いのではないかということになります。
更にもう一回大きな話に戻しますと、先ほどグローバル化の話が石松先生のご報告のときにもありましたけれども、現在しばしばご存知のように、現代はグローバル化の時代であるということが常套句として語られるわけですけれども、そこにおいてグローバル化の特色として、何よりも移動性が非常に高まっている時代である、人や物やお金や情報が国境を越えてどんどん動いている状態であるということがよくいわれます。そうしますと、移動性が高いといわれる現代社会にとって、このサマの事例というのは、なにかサジェスチョン、示唆を与えるのではないかと今回考えています。以上が非常に大雑把ですけれども、今回の報告の問題意識です。
次に今回の報告の舞台です。例に漏れず、これGoogle Earthで適当な地図を探したんですけれどもなかなかなくて、もうしょうがないから自分で作ろうということで。地図の専門家の前で本当にお恥ずかしいんですけれども。位置関係だけをざっと示しますとこういう風になります。インドネシアが南の方にあって、フィリピンの中で南の方にミンダナオ島というフィリピン諸島で二番目に大きな島があります。それからもう少し西の方に行きますとボルネオ島ですね。世界でも第三番目に大きな島で、東南アジアではもちろん第一位。そのボルネオの北部。北東部はマレーシア領。もっと南に行きますと、今度はインドネシア領のカリマンタンというところです。マレーシア領のサバ州といわれます。先ほどからいっているサマとかバジャウと呼ばれる人々は、このミンダナオからボルネオ島北東部のサバ州にあたる一帯にくさび状に連なるスールーと呼ばれる諸島、アーキペラゴですね。スールー諸島を出身とする人々であるわけです。ただしあとから詳しく述べますけれども、現在ではかなりの数の人がむしろボルネオ島の北東部沿岸に移住してきているという状況があります。で、先ほどよりもうちょっと大きな地図ですけれども。ミンダナオ島の一番西にはZAMBOANGAと書いてスペイン読みでサンボアンガと呼ぶところがあります。それからバシラン。次もJOLOと書きますけれども、フィリピンは昔スペインに植民地化されたことがありまして、ホロと発音します。ホロ、シアシ、タウイタウイ、シタンカイまでがスールー諸島ですね。特にこのシアシ、タウイタウイ、シタンカイのあたりがもともとサマ・バジャウの人々が一番多く住んでいたところです。あとでまた詳しくいいますけれども、センポルナと書きましたけれども、これはもうマレーシア領です。このセンポルナの町の沖にはたくさん島々があるわけですけれども、現在ではその岸辺に大量に移住しているということですね。それからセンポルナの少し北にあるサンダカン。これはご存知の方も多いのではないかと思いますけれども戦前は日本人町があってサンダカン八番娼館とか、それこそからゆきさんと呼ばれる日本人の女性が娼婦として渡っていったという町。戦後1970年代以降は材木の積出港としても大変有名なところになります。大体こういう舞台設定、位置関係になります。
次に、人間の話をする前に、それに絡むので自然環境・生態環境の話をざっと簡単にさせて頂きたいと思います。スールー諸島からボルネオ東北東部沿岸にかけての生態環境の特色ですけれども、内陸部は世界でも非常に卓越した熱帯雨林。伝統的にはアマゾンに次ぐような熱帯雨林である。特にボルネオ島内陸ですね。ボルネオからスールーの沿岸部になりますと、珊瑚礁帯やマングローブが卓越している。いずれも伝統的には、従来は世界有数の生物多様性、bio diversityと生態資源を誇っていたわけですけれども、現在は非常に急速な開発、森林伐採ですとか、あるいは、あとで写真で紹介しますけれどもアブラヤシですね。オイル・パームのプランテーション。あるいは海岸の埋め立てによる生態環境の劣化が進んでいる。駆け足で紹介しますとそういう風になります。次にこれがそのボルネオ島北部、サバ州でランドマークとして非常に有名な、絵はがきなんかでも必ずといっていいほど出るキナバル山という山があります。これは標高が4095メートルでもちろん東南アジアで最高峰ですね。ボルネオはもちろん熱帯雨林というぐらいですから熱帯で非常に暑いわけですけれども、頂上近くになると雪や氷なんかがもう日常的に見られるところです。全然関係ないような山を出してなんだと思われる方もいるかもしれませんが、報告の対象としては海の民なんですが、実は陸とか山と海の民というのは非常に実は関係があるということを今回一つポイントとして報告したいと思います。
と申しますのは、一つはGoogle EarthもGPSもない時代ですから、それこそ身体に結びついた技能といいますか、身体的な実践知として、昔の人には山影を見て位置を判断する「山あて」という技法が日本の昔の漁師さんの間でも発達していたわけですね。最近でもまだ持っている人もいますけれども。このキナバル山も、そのボルネオ沿岸の海の民にとっても一つの大きなランドマークとして機能しているということです。次にボルネオ内陸部の熱帯雨林。上空から撮ったものです。ちなみに写真は全部僕が自分で撮ったやつです。伝統的にはこういう熱帯雨林が内陸はずっと広がっていて、オランウータンですとか、ワニですとか、象なんかもいるところなんです。その状況が最近では、先ほども言いましたけれども、これですね。森林伐採で材木をたくさん切って、さっきいったサンダカンですとか、いろんな港から輸出すると。その多くは実は日本だったりするわけですけれども、それによってボルネオの熱帯雨林のかなりの部分というのが今急速に消失しつつあるというのが現実です。
これがさっきいったオイル・パーム、アブラヤシですね。特に近年はこれが換金作物としてお金になるというので、現地で非常に増えてます。たとえばコタキナバルからタワオという東海岸の町へ飛ぶ飛行機の上で初めはジャングルなんですけれども、途中からもう見渡す限りずっとこのオイル・パーム・プランテーションが広がってるんですよね。先ほどのグローバリゼーションじゃないですけれども、まさにグローバリゼーションの本当に縮図です。これが次に、写真でいいますと、アブラヤシの実なんですけれども、これを圧縮して植物油脂を抽出するんですね。それをどう使うかといいますと食品とか。日本でポテトチップとかチョコレートを買って裏を見ると、よく植物油脂って書いてありますよね。チョコレート。これは現地のジャイカ関係の人なんかからも聞き書きをしたんですけれども、おそらく99%はあれはオイル・パームであるということを聞いています。それから、ちょっと企業名は差し障りがありますのでいいませんけれども、よくテレビのCMで「地球に優しい洗剤」というようなキャッチ・フレーズで洗剤を売っているところがあるかと思うんですけれども、実はそれはこのオイル・パームの植物油脂を使ってるんですね。ですから僕から見るとあれは地球に優しくも何ともなくて、あれを作るためにどんどんボルネオの熱帯雨林を切っているという現実が一方ではあるということですね。それによって野生動物が住む面積もどんどん減っている。
これはキナガタガン川というサンダカン周辺で保護区があるわけですけれども、住処をなくしたオランウータンをそこにどんどん保護するという活動も行われている。今回の報告のメインは海なんですけれども、それが海にも実は関連してまして、プランテーションを作るために土地をどんどん切り開きますよね。そうすると土砂が非常に流出しやすくなるんですよね。これは上空から撮った写真ですけれども、もう一目瞭然で雨が降ったあとなんかはこういう風に。もともとこの島の周辺、ボルネオの周辺というのは非常に遠浅の海が多いんですけれども、そこにどんどん土砂が流れ込んで堆積して、マングローブとか珊瑚礁にダメージを与えて漁獲量も減るという現象が実際に起きています。以上、陸の話から海の話へということで、徐々に海の話に移っていきたいんですけれども。季節風の話。これがあとでいう移動にも関係するのでいいますけれども、このスルーからボルネオに掛けては季節風が非常に周期的に交替するところです。4月から8月ぐらい、大体日本でいう春から夏にかけてが南西の季節風。で、大体日本でいう秋から冬の間は北東からの季節風という風に周期的に季節風が変わるわけですね。今はエンジンボートなんかが増えてるんですけれども、伝統的にはこういうセイルボートですよね。帆で、風力で移動することが非常に多かったということです。
これは、つい本当にこないだ撮ってきたボルネオ島沿岸の更に沖の、ある島なんです。島の沖合といいますか、沿岸部ですね。こういう遠浅の海で、これ実はリーフの内側なんですよね。なので、そんなに水深が深くない。そういう海がずっと続いていて、そこが格好の漁場となるということで、干潮時にはこのように珊瑚礁がもうほとんど歩けます。沖縄石垣島とかでもそうですよね。沖縄ではイノウといいますけれども、リーフの内側に広大な空間が広がるということになります。こういうところが生活の場なわけです。民族集団の話。これはあんまり詳しくやっていると時間があれですので。スールーも含めてボルネオ周辺は主に陸の民と海の民とに分けられるということですね。民族名でいうとカダザンとかドゥスンとかムルットといわれる人々が陸の民で、水稲耕作。田んぼで稲を作ったり、牧畜、焼畑ですとか。あるいはムルットと呼ばれる人々は狩猟採集なんかもやっていて、現在はそのほとんどがキリスト教徒になっている。次に海の民で、今回の報告はむしろこちらの海の民なんです。タウスグ、サマ、イラヌンといわれる、それぞれ異なる言語集団、民族集団がいます。その中で、今回報告の対象はその真ん中のサマもしくはバジャウと呼ばれる人々ですね。この海の民の伝統的な生業といたしましては、まさに海に依存した生業。漁業、さまざまな海産物の採集。あるいは海上交易や、あるいは、それこそさっきの話じゃないですけれども、海賊ということがあるわけですね。海の民の大部分は現在イスラム教徒に改宗しています。
いよいよ今回のメインのサマ・バジャウです。サマもしくはバジャウの中にも陸で生活している人々も結構いるんですね。その左側の写真。これはサバ州の西海岸の人々で陸のサマと呼ばれます。よくお祭りのときにはこういう馬に乗ってやってきて、サバ州のカウボーイなんていって、これも絵はがきなんかで一つの典型的なシーンとしてあるんですけれども。そうではなくて、今回私の報告の対象となるのはサバの東海岸、ボルネオ島北東部の海の人々ということで、生業としては主に漁業が現在では多いんです。そうなります。ちょっとややこしくて恐縮なんですけれども、実はいろいろ細かい分類の話をすると長くなるんですが、サバでのサマ人全体の人口というのは34万人ぐらいいるわけですけれども。その中でサマディラウト、特に海のサマといわれる人々、海で生活する人々の数はセンサスの上では独立してはカウントされていません。先ほども申しましたけれども、この人々は伝統的には家船、船を住まいとして、陸には一切家を持たず島から島へ、漁場から漁場へ漁をしながら、漁や海産物採集によって生計を立てるという人々であるということです。ただ現時点で行きますと、国家の定住化政策。なるべく陸地に家を持って漂泊生活ではなくて定住生活を送りなさいという政策をマレーシア政府もフィリピン政府も推し進めている。もう一つは生業の変化。伝統的には漁、フィッシングがメインだったんですけれども、現在では、先ほどのそれこそオイル・パーム・プランテーションで働く人ですとか、あるいは、またあとで写真でお見せしますけれども、アガルアガルという呼び方を現地でされる海草の養殖なんかが非常に増えてます。こういうことによって、従来は家を持たなかった人が家を造って陸地に住むという、いわゆる陸地定住化といわれるプロセスが現在では進んでいます。陸地定住といいましても、実際には遠浅の海の上に杭を立ててその上に家を建てて住むという杭上[こうじょう][235:28]家屋という家からなる水上村。水上集落の形態をとっています。これは全部あとで写真で見せます。まずは伝統的な生活の方からです。これがサマディラウト。以下ちょっと長いので省略してサマと呼びます。そのサマの伝統的な家船でレパと呼ばれるもので、木造の船ですね。写真だとわかりにくいんですが、実はいろいろなところに彫刻がいっぱい、こういう船首の部分とか。あれ。この前の部分とかにいっぱいされて、非常に。これもまさにそれこそ熟練が非常に必要なものなんですけれども。実はこれ、このみんぱくにも展示してあるんですね。なにを隠そう佐藤先生がこれの買い付けにサバにやってこられたとき、実は私も現地にいて、あれ何年前ぐらいですかね。10年以上前ですよね。
[佐藤浩司] そんな前じゃないよ。
[床呂] え?
[佐藤浩司] そんな前じゃないよ。
[床呂] そんな前じゃないですか?それが佐藤先生と会った初めてといういきさつがあります。で、すみません。このレパと呼ばれる船は比較的小さなものです。核家族4人ぐらいが生活するのが精一杯という船です。次に伝統的というよりは、より最近多くなってきたスタイルなんですけれどもクンピットと呼ばれるタイプの家船なんですね。これはもう少し大きくて2家族から最大で3世帯。3家族ぐらい、10人以上住んでる例も中にはあります。これが前から撮ったところですけれども。これは2艘並んでますけれども、後から撮るとこういう感じになります。クピット型の家船ですね。あとでまた何回か出てきます。それ以外に、また今度ちょっと小型の船でテンペルと呼ばれるタイプの家船もあります。何種類かある。これはまた少し小さくなって4人ぐらいですね。4〜5人までがせいぜい住むというもの。これ前から撮ったところで、次がこれが横から撮ったところで。屋根なんかを折りたためるタイプもあるんですけれども、これなんかは側面にベニヤかなにかで固定しちゃったタイプのものですね。ちょっとわかりにくいんですけれども、屋根にはいつも干し魚がいっぱい干してある。ボルネオの太陽で焼かれて。
[須永] すごいね。
[床呂] それこそ究極の職住一体になっているということですね。ちょっとこれ動画でクンピットとテンペルの停泊地。普段は家船民はこういう風に特定の島の沖合といいますか、岸辺に船を泊める、そういう停泊地。あぁ、今子どもが飛び込んで遊んでますけれども。こういう停泊地に何艘も家船を泊めている。今度これはテンペルの方ですよね。側面、後からだんだん近づいていくと。船尾の方にたくさん吊られてるのはエイなんですよね。エイ。捕まえた魚のエイを干しているわけですね。当然換金用にこういうのは一定量が集まりますと陸の人に売るということになります。
[安村] おいしいんですかね?食べれるんですか?エイって。
[床呂] もちろんです。干して。
[安村] あぁー。おいしいんですか?
[床呂] えーっとですね。まぁ好きずきですよね。[239:08]要するに鮫とかエイ類は全部そうなんですけれども、生理的な気候でアンモニア臭がちょっとあるので。陸の人によってはそれで嫌う人もいますけれども、逆にくさやの干物じゃないですけど、あれが逆にやみつきという人もいたりというところですね。
[安村] へぇ。そうか。
[床呂] で、今までが伝統的な生活です。これが近年の様子は、むしろ、さっきいった陸地定住化といいますか。よく陸地定住化といわれるんですけど実際は陸地に住んでないんですよね。先ほども言いましたけれども、これはボルネオ沿岸のボルネオ島自体じゃなくて、また少し沖合の島なんですけれども、やっぱり非常に遠浅の海なんですね。そこでこの辺は台風の発生するベルトよりも緯度が低いところですから、ものすごい台風もそんなにはというか、ほとんどないということで、こういう形態。これも上空から撮ったやつなんですけれども、こういう遠浅の海の上に杭を立てて家を建てて住むというスタイルが近年は非常に多いわけですね。もうちょっと近づいた写真がこうです。このちょっと茶色くなってるのはトタンが錆びてるんですよね。ただ、もうちょっと伝統的といいますか、もう少し古いものだと、ニッパ椰子とかパンランとかココヤシとかいろんな植物の葉っぱで屋根を葺くというタイプが多いです。そういうタイプのやつが次に。これは横から見た、近くから見たやつですね。干満の差が結構あるんですけれども、当然満潮時よりまた更に何メーターか上になるような設計をやっています。漁に出ないときは船、ボートなんかもその上に上げたり、あるいは杭につないだりする。こういうところになります。僕は調査地で、普段はむしろこういうタイプの杭上家屋に住んでる方がどうしても便利なので多かったんですけれども、さっきの家船暮らしをする人に定期的につきあって船でも暮らすという調査をしばらくやってました。これまた、別のタイプの杭上家屋です。ちょっとわかりにくいですが、ベランダの上に茶色っぽいものがたくさん載ってますよね。これがさっきいったアガルアガルという海草なんですね。次に、この写真は白いものがいっぱい浮いてますよね。これはアガルアガルの畑って現地でもいってますけれども、これゴミじゃなくて、ペットボトルの空き瓶を廃品利用しているんですよね。
[須永] ウキか。
[床呂] ウキです。フロートです。
[須永] すごい量ですね。
[床呂] すごい量なんですよね。これは要するにラインをたくさん引っ張って、ラインに海草の苗を結びつけるんですね。そうすると3〜4ヶ月するとそれがもう収穫可能になる。水面近くの方が生息条件がいいので、ウキが大量に必要であるということでペットボトルを利用するという生活の知恵といいますか、生業の知恵。これが拡大写真。この茶色い部分がアガルアガル。海草自体ですね。最近ではビニールのラインなんかも使ってますけれども、アガルアガルをそれに結びつける。で、こっちの右側に見えてるのがペットボトルの空き瓶ですが、最近スールー諸島はもちろん、ボルネオ島沿岸でも非常に増えてます。さっきのアブラヤシの話をちょっとしましたけれども、これも実はグローバル化でやっぱり日本と関係してるんですね。これはなんのためにやるかといいますと、自家消費も若干します。自分たちで自家消費で食べたりもしますけれども、ほとんどが加工してカラゲーナン、カラギーナンという物質を抽出するんですね。これは家政学の先生とかはよくご存知かもしれませんけれども、食品の粘り気を出す材料として、アイスクリームあるいは歯磨き粉なんかにも入っています。ですから先ほどのアブラヤシもそうですし、このアガルアガルもそうなんですけれども、皆さんおそらく意識はしてないんですけれども、日々日常的にこれ消費してて日常的にボルネオとつながっているということが客観的に言えるかと思います。これはアガルアガルを収穫ですね。3〜4ヶ月したらもう収穫できるわけですけれども、さっきの杭上家屋のベランダに上げたところですね。こういう風に近くで、拡大するとこれです。これまだちょっと濡れてますけれども、これをまた数日間干して乾燥させるんですね。そして仲買人に売って、仲買人から更に加工工場に売って、加工工場から日本その他欧米に抽出したカラギーナンが運ばれるという状況になっています。サマ社会の特徴ということで、今お見せしたのが大体の伝統的な生活と近年の生活なんですけれども、特に伝統的な生活として移動性の高さというのが挙げられます。東南アジアの伝統的な社会について、よく東南アジア研究の間で移動分散社会といういわれ方をします。もうお亡くなりになった鶴見良行さんという有名な研究者の方が使い出した言葉です。要するに東南アジアの、特に前近代社会においては、人の空間的な移動性が非常に高くて、分散というのは離合集散を非常に繰り返すと。ある時にはパッと集まるけれども、なにか別の機会にはまた去っていく、散らばっていく社会であるといういわれ方をしますけれども、このサマ社会もまさに、この移動分散社会の典型であるといっていいかと思います。特に伝統的な生活の場合、先程来申してますように、海のノマド・海の遊牧民といわれるような、船に乗って移動性が非常に高い社会であるということが一つ特徴として言えます。
少し詳しく紹介したいんですけれども、移動のパターンは原因ごとにいくつかあります。一つは、もちろん生業であるところの漁、フィッシングに伴った移動。これも細かく分けるときりがないんですが、一つは、月内の一ヶ月の間で潮汐のサイクルが変動します。これは釣りをやってる方なんかはお詳しいかと思うんですけれども。一ヶ月の間に大潮のときと小潮のとき。干満差が大きいときと比較的小さいときに分かれるんですけれども、そういう月の満ち欠けの月齢のサイクルと連動しています。それに連動して漁法も変えたり、魚を捕る漁場なんかも微妙に変えたりするということですね。次に、先ほど述べました今度はもっと長いサイクルで、一年の間で季節風が南西の季節風と北東の季節風で周期的に交替すると。季節風が交替すると、それによって微妙に生息する魚とか、どの漁場が一番魚が捕れるという条件が変わるわけですね。それに応じて移動する。更に、その他と書きましたけど、たとえば最近で多いのは経済的な要因による漁場の移動。つまり、ある町の近く。センポウナの近くでは、たとえばある種の魚は値段がそれほど高くないと。しかしサンダカンまで行けば、その魚もしくはイカとか、さっきのエイでもなんでもいいんですけれども、価格が高くなるというので移動するというパターンのことですね。あるいは今いった生業による移動以外に、社会的な様々な要因。一番多いのは周期的に行われる結婚式ですとか。結婚式って、面白いんですけれども必ず満月のときに行われるんですよね。照明を使わないで満月の明かりの下で結婚式をやって、その下でみんなで踊るということをやるんですが、そういうものとか。あとでまた少し出ますけれども、さまざまな儀礼のために親戚を訪問するために島から島へ移動するというようなこと。あるいは最後。最近増えているのは、セキュリティ要因による移動と仮に名付けましたけれども、こういう言葉がふさわしいかどうかわかりません。先ほど海賊の話をしましたが、フィリピン側のスールー諸島の治安が最近非常に悪くなってきてるんですね。それでマレーシア側の方が比較的治安がいいということがあって、フィリピン側からマレーシア側のサバ州沿岸に、いってみれば難民に近いような形で大量に移動するということが近年起きています。こういった様々な要因に応じて非常に複雑な移動を見せるわけですね。
[須永] スールー諸島っていうのは長さとしてはどれくらいなんですか?北から南まで。
[床呂] えーっとですね。
[須永] 数百キロとか?
[床呂] そうですね。はい。百キロ以上、当然。はい。先ほどから家船の話をしてますけれども、これもあまり細かく説明すると時間がないので。これは急いで描いた非常に稚拙な図なんですけれども、大体中の内部構造の見取り図的になってます。これも船によってもまた全然違うんですけれども、全長が12メーターぐらい、幅1.5メーターぐらいです。ここに核家族2〜4人ぐらいが住むことが多いということですね。あとで動画でも出ますけれども、中にはコンロや食器などを置く調理スペース、昔は薪といいますか、木で焚く台所用具が多かったんですが最近はガスコンロを使う人も結構います。家船民なんかでもですね。それから水瓶なんかも、昔は陶器といいますか、土器の水瓶なんかが多かったんですけれども、それがポリタンクなんかを使ったりするということですね。床板は全部外れるようになってまして、外すと全部収納スペースになっています。ということでいろんなものを食料も含めて貯蔵するということですね。トイレはどうなってるかということなのですけれども、一番船の後っていうのがちょっと海面に突き出してるんですね。そうしますと、そこの板を外すともう天然の水洗トイレになるという構造になっています。次に家船の内部での家族の構成の例です。これは皆さんご存知かと思いますけれども、人類学のよくやる描き方で三角は男、丸が女で、「=」が婚姻関係、垂直のラインが親子関係ということです。これ単なる一例で、実際には千差万別でいろんなパターンがあります。たとえば小さい船の場合はほとんど核家族ですよね。物理的にも4人まで。大きい場合ですけれども、最大でも3世帯ぐらいで。3世帯でも子どもが大きくなったり数が増えたりするとちょっと手狭になるので、自分で新たな小さい船を造ったりするということですね。ちなみにここは人類学でいう妻方居住なんですよね。つまり結婚後は妻の側の家とか、彼らの場合船に住む。なので大型の家船の世帯構成の場合なんかも、ご覧になっておわかりかと思いますけれども、結婚した男の方、夫の方が妻の側の家船に住むというシステムといいますか、そういうことが多い。もちろん例外はあります。次にさっきの月内の潮汐サイクルに応じた移動なんですけれども、これも細かく話し出すときりがないので。これは非常に概念的な見取り図で、これも実際にはいろんな例外とか個人差なんかもあるんですけれども、たとえばこういうパターンですね。潮汐の変化が、一ヶ月の間に大潮のとき小潮のときでサイクリックに変動します。オウという[251:20]サバ沖の直径数キロぐらいの小さい島なんですけれども、そういう島ですら、それに応じて漁のポイントが西と東で微妙に移動するんですよね。それに応じて停泊する、暮らすポイントも異なる。たとえば大潮のときはその島の西岸に住んで、そのときは釣り。釣りによる漁というのも彼らはやりますから。あとは浅瀬でさまざまなベントス類を採取する。これは海洋生物のうち比較的海底で動かない貝とかなまことかウニとかそういう生物です。小潮のときは、また違う東岸の方に移ってネットフィッシングをやって大型の魚類を捕まえるということになります。これは実際に漁をやっている、これはネットフィッシングですけれども。他の地域にもこういう漁ってあるかと思いますけれども、追い込み漁なんですよね。最初に網を数百メーターぐらい非常に大きく広げて徐々に魚をそこに追い込んでいく、囲い込んでいくという漁法が今でもかなりやられています。ちなみに、面白いんですけど、これ戦前ぐらいから始まったといわれていて、実は沖縄の漁師さんが伝えたんじゃないかっていう説もあるんですね。沖縄の那覇から少し南に糸満という有名な漁師町があります。そこの漁師さんを糸満人[いとまんちゅう]っていいますけれども、糸満人が伝えたのではないかということもいわれていますけれども、そういう漁をやっている。これが獲った魚といいますか、おわかりかと思いますけれども、これ鮫なんですよね。鮫なんかも結構捕ったりします。鮫は捕ると、身は自家消費してフカヒレだけ切っちゃうんですね。ご存知のように、フカヒレっていうのは中華料理で非常に高価なものですので、肉は自分で食っちゃうんですけれども、フカヒレは全部こうやって乾燥して仲買人に売る。仲買人は今度はチャイニーズに売るんですね。チャイニーズの商人は香港とか台湾というチャイニーズ・マーケットに最終的には回すということになります。浅瀬での漁としては、さっき書きませんでしたが、こういう、これは突棒[つきんぼ]っていって銛ですよね。特に干満差が激しいときは、こういう魚がリーフの内側に取り残されやすく、捕まえるのが比較的容易になるので、本当に見事なものです。僕なんかがパッと見ても魚がいることすら全然わからないんですけれども、まさに身体化された技能でそういうのを捕まえる。これは、ご存知の人も多いかと思いますけれども、なまこですよね。
[須永] なまこか。
[床呂] ええ。フカヒレと同じくなまこもこうやって干して。これは乾燥済みの干しなまこですけれども。中華料理の材料として非常に高いんですね。なので、これを浅瀬で拾って獲って干して、それを仲買人に売って、やはり最終的には香港ですとかチャイニーズ・マーケットに輸出されていくということです。もう一つ。先ほどちょっと真珠の話をしましたけれども、スールーからボルネオにかけても実は非常に有名な真珠の産地なんですね。古くは13世紀ぐらいに明とか、中国の史書なんかにも、このスールーの真珠の話が記録として出たりしてます。面白いのは、僕が今主に調査をやっているのは養殖真珠なんですけれども、ここではまだ天然真珠を素潜りで獲ったりもしてるんですね。ただこれは数でいいますと非常に珍しいもので、数万とか数十万とかのオーダーで貝を拾って、それでやっと一個あるかないかというぐらいのものなんですね。逆にいうと、だからこそ高価であったということです。真珠もあこや真珠とか、いろんな種類がありますけれども、ここの写真でお見せしているのは黒蝶貝といわれる真珠ですね。いわゆる黒真珠。黒蝶貝真珠が採れる。これがその撮ったやつで、真ん中の貝殻の上にちょこんと載っけてあるのが黒蝶貝の、これ完全に天然真珠ですね。今ではほとんどが養殖で、さっきチラッとスライドでお見せしたタヒチ、ポリネシアの方で養殖されています。
今紹介したのが比較的近距離の移動なんですけれども、更に遠距離の漁場の移動というのもあります。月齢サイクルに応じた移動というのは、どんなに長くても数十キロぐらいまでというのが比較的多いんですけれども、季節風サイクルに応じた移動ですとか、経済条件の移動に応じて、場合によっては数百キロ単位あるいは千キロ以上移動する長距離の移動というのも結構あるんですね。具体的には先ほど地図でお見せしたセンポルナ。正確に言うとセンポルナという町の沖の島々からラハダトウ、サンダカン、クダット、コタキナバル。コタキナバルはもうボルネオ島の西海岸。あとでまた地図で位置関係を確認しますけれども、そこまで移動して、更に戻るというパターンもあるわけですね。たとえばこの家族。さっきいった大型のクンピットと呼ばれる家船ですけれども、2家族子どもも入れて11人ぐらいだったかな、が住んでるんです。その子どもと共に生活しながら、この人がその船の、いってみれば家長です。面白いんですけれども、結構伝統的な家船の民といいますと、それこそ未開社会じゃないですけれども、文明生活[256:57]から離れた生活という風に得てしてイメージしがちなんですけれども、このおじさんは写真見てもわかるんですけれども、ミズノのシャツなんかを着たりしてるんですよね。この手をついてる水タンクも。奥の方には土器のやつをやってますけれども、手前にあるのはポリタンクで、結構文明の利器じゃないですけれども、近代工業的な製品というのも入っているといういことですね。今お見せしたやつで、ちょっとおわかりになるかどうか。この右側のこれがガスコンロを使用しているのがおわかりになるかと思います。それでポリタンクから子どもがお米とかキャッサバとかをとろうとしている。だからそういう、さっきいった台所ですよね。だから今ではわりとこういう風に文明世界、陸の世界とも結びつきが結構、家船の民といっても実はあるということがわかるかと思います。それから左側の食器もステンレスかなにか金属製。当然こういうのも全部買ったものです。その移動パターン。先ほどいった長距離の移動のパターンを地図上で確認したいんですけれども。センポルナ、厳密に言うとセンポルナの沖の島から家船に乗って、こういうボルネオ島の北東部沿岸。で、こういう風にサンダカンまで行くと。当然ですけれども、これ略図もいいところで、実際にはもちろんこんな直線的に移動しているわけは全然なくて、もっと漁をしながら、ギザギザに非常に複雑な軌跡を辿りながら移動しているわけです。で、ボルネオ島最北端のクダットというところから最終的にはコタキナバルというサバ州の州都state capitalであるところまで移動する。直線で測っただけでも、もう千キロ弱ぐらいある。実際には漁をしながらですから、確実に片道で千キロ以上移動していると思うんですけれども、こういうのも年に数回とかの頻度ですけれども、行ったりするということです。
先ほど最後にいいましたセキュリティを求めての移動というのを少しだけ補足しますと、これはどういうことかといいますと1970年代以降スールー諸島を含むフィリピン南部ではイスラム教徒のゲリラ。MNLFという風に略称でいいますけれども、Moro National Liberation Front。モロ民族解放戦線と呼ばれるゲリラ組織とフィリピン国軍との内線というのが非常に盛んになります。それでスールー諸島も治安が非常に悪化して、海賊が非常に増えるということですね。そういう海賊や治安の悪化を避けて大量のサマがフィリピン側スールーからマレーシア領側のボルネオ沿岸沖の島々に移動しているというのが、1970年代80年代以降非常に顕著になっています。で、モロ民族解放戦線の、これはスールー側でフィリピン政府と休戦協定をやるときにできたときに、僕も現場にいって撮った写真です。こういう人々がスールーの付近ではたくさん移動している。次にこの人。この人は別にゲリラでも海賊でもなくて、実はサマの漁民なんです。スールー諸島側でやはり僕が撮った写真です。ちょっとわかりにくいんですが、手に自動小銃持ってるんですね。つまりフィリピン側では、サマの漁師さんっていうのは基本的には非常にpeace lovingといいますか、あまり争いごとを好まない。むしろ争いよりは逃げる人々なんです。そういう人々ですら、こういう風に自動小銃で自衛のために武装しないと海賊やゲリラに襲われて大変であるというような状況があるというわけですね。ですのでマレーシア領海内に大量に移動する。マレーシア領海内は、この写真にも左奥に写ってますけれども、マレーシアの海上警察とか、日本の海上保安庁にあたるものによるパトロールが比較的あるという状況なわけです。今までが大体移動です。サマ社会における移動と場所、アイデンティティというのがテーマになってますけれども、つまり移動性が非常に高いサマ社会であるということはご紹介できたかと思います。
じゃぁそういう人々にとって、島を含めたさまざまな陸地、場所というのはどういう意味を持っているんだろうかということを、次にちょっと紹介してみたいんです。これはまだ抽象論で申し訳ないんですけれども、サマ社会において特定の場所が喚起する記憶というものが非常に重要であるということを一ついいたいと思います。記憶といいましても、これ私全然まだこなれてなくて、こういう言い方がいいかどうか全然自信ないんですけれども。先ほど地図とコレクティブ・メモリー、集合的な記憶のメディアとしての記憶という話が佐藤先生の方からもありましたけれども。記憶の中でも、たとえば地図的な記憶と、場所的な記憶と。地図といっても先ほどのいろんな、それこそ石松先生が紹介して頂いた多種多様な地図があるので、特に鳥瞰図的といいますか、Google Earth的といいますか、人工衛星から上空から撮ったような近代的な意味での地図ということです。それと場所的な記憶と仮に名付けるとすれば、それはまた違う記憶のモードもしくは情報抽出のモードというのがあるのではないかということを、抽象的なんですが考えてみたいと思います。
地図的記憶もしくは地図的情報といってもいいですけれども、たとえば具体的に地図を当事者に見せたりして抽出できるような記憶情報であるということですね。抽象的、一般的、非身体的な記憶であるということが相対的には言えるのではないか。これに対して、僕はむしろ場所的な記憶というものを概念として、これもこういう言葉がいいかどうか大変自信なくて、あとでいろいろ教えて頂きたいんですけれども。つまりなにが言いたいかというと、実際にその現場、場所に身を置くことによって喚起され抽出できる記憶や情報というものが対峙できるのではないか。しばしばその場に実際に身を置いて、たとえばサマであるような前近代社会であれば宗教的な儀礼に参加するとか。あるいは漁に伴った労働に伴う歌。サマ社会でも、たとえば漁に伴ったいろんな歌があるんですよね。日本でもソーラン節とかはそうですけれども。労働歌を歌うといったような、さまざまな身体的な行為に伴って喚起されるような記憶というのが、ひとつ別のモードとして提起できるのではないか。後者の場所的な記憶というのは、地図的な記憶というのに対比させた場合に、相対的に具体的で個別的で身体的な記憶であるといっていいのではないかという風に考えられます。なんでこういうことを私が、ここでわざわざ抽象的な、まだこなれない概念を持ち出すかといいますと、サマ社会の間でいろいろ調査をして聞き書きをして、場所や漁場や空間に関する情報ってもちろん私も人類学者としてリサーチしていますから聞きたいんですよね。なので私も調査地にたくさんいろんな縮尺の地図を持ち込んで行きました。それで「すみません、この地図の上で特に魚が捕れる漁場はどこですか?」とかマッピングをしてもらおうとする。そうするとほとんど、個人差ももちろんたくさんありますし、中には結構そういうのができる人もいますけれども、一般的にいいますと必ずしも私が目論んでたほどうまくいかない。それでなかなか「困ったな。調査うまくいかないな。なかなか情報が集まらないな」というので困ってましたら、今度実際に漁の現場に、当然ですけれども、見せてもらうために一緒について行く。あるいはさっきお見せしたようなクンピットですとかテンペルなんかに一緒に暮らしながら、いろいろ実際に自分も移動してみる。そうすると、なんか島影が見えたりすると「おまえ、知ってるか?もうここはすごいいい漁場なんだ。ここは何月には、この季節風のときにはこういう魚とこういう魚とこういう魚が捕れてな。で、昔こういう人がここでこういう伝説があって」みたいな話を非常にたくさん、こっちが逆にびっくりするぐらい話してくれるんですね。で、「なんだ」って。最初は、このサマ社会の人々っていうのは空間とか場所ってあんまり、そういうコンシャスじゃないかなって。あんまり意識してないのかなと思って半分諦めてたんですけれども、実は全然そんなことはない。実際にその現場に行って見ることによって、こっちが逆に驚くぐらい記憶や情報というのが止めどなく出てくるということから考えたんですね。
これは同じオーストロネシアの海洋民、漁民の間で普遍的かというと必ずしもそうではない。たとえばオセアニアの漁民、マーシャル諸島の漁民なんかは、このみんぱくにもちょうど展示がされていますので関心がある方は是非ご覧になると非常にそれはそれでまた興味深いんですけれども。海図的なものが伝わってるんですね。椰子の木の枝なんかでうねりをひとつ。空間関係を、島から来るうねりを一つ海図にしたようなものがある。このサマ社会でもそういうものがないかと一生懸命探し回ったんですけれども、僕が知る限りなかなかないということです。そうかといって場所や空間に関する知識や情報が彼らはないかというと全然そんなことはないということですね。漁場に関する知識や記憶、あるいは島や場所に関する非常に多くのオーラルな伝承、伝説や歌。あるいは身体的な行為としての儀礼なんかも含めて非常にたくさんの、場所と結びついたいろいろなモードがある。それを喚起するのものは、彼らにとっては近代的な地図ではなくて、むしろ土地や場所それ自体がそういう情報を喚起するメディアになっているという風に言えるのではないかと考えたわけですね。もう少し具体的に、ほんの一例ですけれども、これはボルネオ島の沖のガヤ島と呼ばれる島の近くです。これ実際にはいくつかの島が重なってこう見えているんですね。こういうガヤ島なんかは特にそうなんですけれども、こういう島、漁場でだんだん近づいていって、ある島影が認知できると、その島にまつわる伝説や伝承あるいは漁場に関する知識とかを語り出すということなんです。且つプラグマティックにも結構面白くて、実はサマの場合、当たり前ですけれども、日本の漁師さんなんかは最近はGPSなんかで漁をしてますけれども、彼らは当然GPSなんか全然持ってないわけですね。じゃぁ広い海の中でどうやって位置関係を知るかというといろんな方法があります。夜間だったら星、風の向きとか、いろんなものを使いますけれども、その一つとして島影というのが非常に大事なんですね。land scape。風景。光景としての島影。というのは島がこういう風に、特に二つから三つぐらいの異なった奥行きにある島が重なる。そうするとその重なり具合によって自分がいる位置あるいは漁場の位置を知るというのをかなり正確に彼らはやってのけます。
これは、日本に帰ってきてから知ったんですけれども、実は日本の漁師さんも伝統的にはこれを山あてっていうやつでやってるんですよね。大体二つぐらいの山とか島影なんかを見て、そこから割り出して自分の位置を知る。これはただ本当に身体に染みついた技法なので、それをこういう近代的な紙に書いた地図をもってって「じゃぁマッピングしてくれ」っていってもそれはちょっと無理な相談ということになるわけですね。もう一つ。陸との関係、場所との関係というので考えてみたいんですけれども。海のノマド、漂海民とか遊牧民という話をしてますと、しばしば陸に依存せず自由に移動する漂泊性、自由な漂泊生活を送っている人々という風に思われがちなんですよね。それで、最初佐藤先生の紹介のときも、そういう空間や場所に縛られない人としてのサマの例を話してほしいというのがあって、逆に困ってしまったんですけれども。私自身も、実はこういうイメージをあらかじめ、先入観といいますか、自由に移動する人々の調査ができたら面白いだろうなと思って行ったという面は確かにすごくあるんですけれども、実際に調査してみての正直な感想はどうかというと、さっきアガルアガルの養殖をやってたようなああいう家を持っている集団はもちろんそうなんですけれども、そうでない、さっきからお見せしている家船、船で生活しているような人々ですら、逆説的に陸との関係というのは非常に重要であるということがむしろ見えてきたんですね。自分たちの家船の停泊地、根拠地に結構特定の陸や島の沖の場所を決めるということ。それから陸の民との関係というのも、私が想像していたより実は深いということもわかってきました。一つはプラグマティックな理由として、彼らはもちろん船に住んでるわけですけれども、木造の船というのは10年以上経つと非常にぼろが出てきて劣化が進むわけです。定期的にメンテナンスをしないと劣化が更に早くなるんですね。ちょっと写真わかりにくいですけれども、船底を火であぶるんですね。椰子の葉っぱかなにかを。そうすると船底につきやすい汚れですとか寄生虫といったものを除去することができて比較的長持ちがするということが一つ。もう一つは、先ほどの家船の内部のビデオでもおわかりになったかと思いますけれども、さまざまな生活必需品というのは、結構実は陸地で入手できる、陸地から交換によって入手できるものが多いんですね。
伝統的なサマでも、たとえば飲料水ですとか、あるいは彼らの主食であるキャッサバ。米もありますけれども、むしろキャッサバと呼ばれるもともと新大陸原産のもの。それから調理に使う薪とか、最近ではガスコンロのガスといった必需品は陸地との交換関係、交易関係に依存しているということですね。それから政治的あるいはセキュリティの意味でも、家船の民、こういうサマの人々というのは、当然ですけれどもパスポートも何も持ってないわけですね。スールー諸島では最近武装する人もいるわけですけれども、基本的には武器も持ってないということで、海賊に襲われたり、あるいは国家権力から。国家権力の側たとえばマレーシア政府からすると、フィリピンからパスポートなしに入ってくるというのは厳密に考えると不法入国ですよね。なので逮捕の、捕まって強制送還の対象にされても不思議じゃないわけです。そういうのに対して陸の民が身元保証人になるというようなこともやるわけですね。そういう意味では、海を自由に移動してて陸地と関係ない暮らしをしていると思われがちで、私も正直そういう風に思っていた側面があるんですけれども、実は陸との関係というのは非常に多い。ちなみに。あ、この写真は左側の女性、この人がサマの漁師さんの女性で。サマの場合家族みんなで漁をしますから、女性ももちろん労働力の担い手なわけですけれども。さっきのビデオにも出てきましたけれども、エイの干したものですね。それを。右側の人が陸地の人ですけれども、陸の人に売っている場面です。
[須永] 船の上ですか?両方。今のは。
[床呂] はい。
[須永] 買いに来てるわけ?船の上へ。
[床呂] そういうことです。[273:09]仲買人が船で買いに来てるっていうことですね。次に今度そういう風に客観的に場所というのが、わりと陸の場所が意味があるということだけではなくて、実は彼らのアイデンティティと陸の特定の場所というのも関係があるということがだんだんわかってきました。どういうことかというと、アイデンティティのマーカーとしての場所。同じサマ同士でも内部の集団分類って結構あるんですね。何によって分類するかというと出身地なんです。出身となる停泊地。主にフィリピン側のスールー諸島なんですけれども、そこによって分類する。これはあとでまた詳しくいいます。それからもう一つは、陸地の特定の場所ですね。島や陸地と結びついた儀礼への参加というのが実は大事である。どういうことかと申しますと、そのアイデンティフィケイションですけれども、サマの現地語、サマ語では人のことを「アァ」と呼びます。異民族でタウスグってよくいわれる人々がいるんですけれども、その人達のことをサマ語では「アァスゥク」とか「アァスゥグ」といいます。「スゥク」とか「スゥグ」というのは、最初の方で地図で出てきたホロ島っていうスールー諸島の中心部にある島のことです。つまりアァスゥクというのはホロ島出身の人々に対する呼称なわけですね。たとえば日本人だったら「アァジィプン」というんですけれども、ジィプンはもちろんジャパンで日本のことなんです。日本の人。まぁそのまんまなんですけれども。それが他民族だけではなくて、サマの自分たち内部でも実はかなり細かく分類をやっているというのが、聞き書きをやっているとわかってきたんです。たとえば、これは同じ海のサマの内部での分け方です。たとえばスールー諸島に「トンマンカオ」と呼ばれる島がありますけれども、そこ出身のサマの人のことを「アァトンマンカオ」、トンマンカオの人という言い方。それからもう一個。また別のサンガサンガという島出身の人に対しては「アァサンガサンガ」という言い方をします。それから今度マレーシア側なんですけれども、その出身地によって、さっき島の停泊地・根拠地という話をしましたけれども、これは移住先。マレーシアに移住していった先でも、特定の島には特定の出身地のサマの集団が移住してきて根拠地にするという細かい集団ごとの対応関係があるということですね。ちょっと省略しましたけれども、たとえばマイラと呼ばれる島は、同じサマの中でもシアシ島という島に近いラミヌサとかムスといわれる島のサマの人が停泊地とする。今ではこういう風に小屋、杭上[コウジョウ]家屋なんかも造ってるわけですね。それから今度スールー諸島の別の島。サンガサンガという島出身の人々が停泊地を作る。また別のオオという島はトンマンカオ出身の人々の停泊地になっている。これも急いで手作りで作った稚拙な地図で恐縮なんですけれども、地図上で図示しますと、大体スールーとボルネオの間は国境線を引くとこういう位置関係になっています。インドネシアが南の方、マレーシアが西の方で、東北の方がフィリピン領と、国別で分けるとこういう位置関係になってるわけです。これが同じサマの集団でも、サンガサンガというところ。スールー諸島のサンガサンガ出身の人々はDと書きましたけれども、ダナワンと呼ばれるセンポルナ沖の一つの小島を停泊地・根拠地にする。別のトンマンカオ出身の人はセンポルナ沖のまた別のオマーダルと呼ばれる別の島を停泊地とする。今度また別のシアシと呼ばれる島出身の人は、また別のM、マイラと呼ばれる島を主な停泊地として、そこを根拠地・ベースとして、またさまざまなフィッシング、漁に出かけていくというパターンが多いんですね。こういうのはいろいろ聞き書きをしながら、あるいは実際に移動なんかに付き合いながらわかってきたんです。こういうのは、ただ単に私みたいな外部の研究者から見てこういう区別があるというだけではなくて、彼ら自身の内部でも結構そういうアイデンティティといいますか、集団間を個別化してるんですよね。ここで動画のインタビューなんですけれども、すごく長いので、下の方にほとんど要約をつけちゃいました。要するに、サマの中でもいろんな連中がいると。ここダナワン、D島って書きましたけれども、ダナワン島にいるサマはサンガサンガの人「アァサンガサンガ」であり、一番純粋なサマなんだと。えらいんだと。他の島にいるのはトンマンカオ出身の連中でちょっと自分たちとは違う。自分たちの方がちょっとえらいというか、一種優越感みたいなものも語っているインタビューの動画なんですね。そういう意味においては、またサマディラウトって書いちゃいましたけど、サマディラウト、サマは移住や根拠地の形成には出身地の集団ごとに一定のパターンが存在すると。それはただ単に外部の分析でわかるということだけではなくて、当事者も呼び方で非常に区別しているということですね。移住先でももとの出身地での呼称を使用している。
それからさっき儀礼の話をちょっとしましたけれども、特定の場所と結びついた儀礼に参加するというのも彼らの間で非常に大事であるというのもだんだんわかってきました。フィリピン側からマレーシア、サバ側に移住して、長い人だともう30年という人もいるんです。そういう人でも年に数回ある儀礼のために、たとえばフィリピン側にある自分の出身地を含めた陸地で儀礼に参加するということが非常に大事であるといわれるわけですね。大体儀礼は、船でやることもありますけれども、陸地が多いんです。いろんな儀礼があります。イスラム化が進んだ集団の場合ハリラヤといって、断食月の明けに非常に大きなお祭りをやるんです。そういう儀礼に参加したり。イスラム化が顕著でない場合はマゴンオといって、これはわかりやすくいえば祖先祭祀ですね。祖先の霊に対して捧げものをする。あとで写真をお見せします。あるいは人類学でよくいうシャーマンですね。精霊が降りてきて何かお告げをする。あるいは墓参りですね。あとで写真で見せますけれども、「漂海民の人は海に水葬、遺体を流すんですか?」ってきかれることがたまにあるんですけれども、そうではなくて、墓は全部陸地なんですよね。必ず陸にある墓にお参りするということですね。こうした儀礼への参加ですとか、お墓参りなんかを欠かすと病気になっちゃったり、不漁ですね。魚が捕れないとか、不幸に見舞われるということもいわれています。たとえばスールーからボルネオにかけて陸地に上がると、人はいないんだけど旗がいっぱい立ててあるこういう儀礼の場所が時々あるんですね。そういうのは実は特殊な場所です。ただ単に普通の場所ではなくて、彼らにとってはわりと聖なる場所といいますか、そういう精霊あるいはご先祖様の霊であったり、そうしたものが宿る場所になる。まさにメディアになるという場所である。そういう場所での儀礼をすることによって「おじいちゃん亡くなったけど、どうだったね」みたいな、まさに祖先の記憶ですよね。自分たちのご先祖様に対する、それこそさっきの言い方でいえば集合的な記憶をみんなで紡ぎ出す場所になっている。これがさっきいったマゴンオといわれる祖先祭祀の儀礼です。三角形の、こういう風に山みたいなのが見えますけど、これ実はご飯。お米で盛り上げた山みたいに作ってるんです。その黄色くなってるのはウコンですね。カレーの着色に使うターメリックでこういう風に染めてるんです。要するに、これをご先祖様に日本風にいうとお供えして、あとでみんなで食べるという儀礼を定期的に、この儀礼は一年に一回やるわけです。これはフィリピン側のシタンカイというフィリピン最南端で撮ったんですけれども、こういう儀礼にはマレーシアに移住した人でもそこに必ず戻っていくということですね。
それから最後。これがお墓ですね。こういう風に必ず陸地にある。平べったい板のは女性のやつで、手前といいますか、右側に見えてる丸くなって、こういう円柱状になっているのが男性の墓なんですね。移動性が非常に高い民にとって、だからこそといいますか、逆に一定の土地にある墓地というのは非常に重要であるということですね。ちょっと長くなりましたけれども、いよいよ結論です。移動性が高い民、人々にとって、場所がいかなる意味を持っているのかというのが最初の問題意識、テーマでした。結論といたしまして、場所というのは、実は逆説的に非常に重要であると。どういう意味で重要なのかというと、一つは、それこそ記憶や情報のメディアとして場所が機能しているということですね。さっきの言葉で言うと、地図的といいますか、この言葉がいいかどうかわかりませんけれども、鳥瞰図的な記憶ではない、場所自体がメディアとして、それが喚起する記憶や情報ですね。特に、ある特定の場所に結びついた身体的な行為。漁をする、漁に伴って歌を歌う、あるいは儀礼に行くといった身体的な行為が喚起する情報や記憶というのが非常に重要であるということ。それからもう一つは、先程来申しましたように、移動性が高い海の民サマにとって、にもかかわらずといいますか、だからこそといった方がいいのかわかりませんけれども、陸の根拠地や出身地など特定の場所というのは実は大事であると。これは生活上の必要という意味でも大事ですし、彼らのアイデンティティの上でも大事であるということですね。
更に、最初に非常に大風呂敷を広げたわけですけれども、グローバル化の時代に何を示唆するかということですけれども。一つ思いつきやすいのは、よくしばしば最近の現象としてグローバル化が進めば進むほど、グローバル化というのは国境や国家を越えた人やものの移動としてよく語られるわけです。そうするとnation state、国民国家や領土というのが全然意味を持たなくなるのではないかということが普通に考えられるんですけれども、そうではなくて、実はグローバル化の時代だからこそ、非常にナショナリズムが逆説的に高まったり、再領土化といわれることが多いですけれども、領土、特定の土地や空間、場所が非常に、ある意味ではリソース、資源としてそれこそ価値が高くなるし、それを巡る紛争も起きてくるというような、先ほど竹島の地図なんていうのもありましたけれども。そういうことがよくいわれるわけです。こういうのと同じなのかということを考えてみたいんです。答えとしては、私は似てる面もあるし違う面もあるだろうと。yes & no。yes butといった方がいいのかよくわかりませんけれども。同じ面と違う面があると。確かに移動性の高いサマにとって場所は特定の場所が重要であるということは同じなんですけれども、非常に違うのは、サマ社会にとって、空間を排他的に囲い込んで所有していくという発想は伝統的に少なくとも薄いものであるということを彼らの行動を見ていて非常に感じます。ただ最近の変化で、アガルアガル、海草を養殖することが増えると、今度は、それこそ定住農耕民じゃないですけれども、特定の漁場の価値というのが非常に意識されるようにはもちろんなってくるんですけれども。少なくとも最近まで、空間を排他的に囲い込んで所有するという発想は希薄である。海という空間は彼らにとって、基本的には誰もが利用し誰もが移動することができる空間であると言えるのではないかということですよね。そういう意味ではナショナリズムであるとか、あるいは定住的な農耕民社会の場合どうしても土地を排他的に、所有権、オーナーシップを決めて、それが個人であったり村であったりというのはいろいろありますけれども、とにかく所有者を決めて排他的に囲い込んで所有していくという発想が相対的にいって強いといっていいかと思うんです。そういう発想は薄いといっていいかと思います。いや、そんなのは漁民とか海洋民だったら当たり前じゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、実はそれも必ずしもそうではない。有名な話ですけれども、それこそ先ほど江戸時代の話がたくさん出ましたけれども、日本の漁業史なんかを紐解きますと、江戸時代ぐらいから、今の言葉で言う漁場に関する地先の漁場権というのは結構確立していて、その地先の漁場権を巡る紛争なんていうのはかなりあったりする。もちろん現在でも漁協ごとに海面漁場権というのは、非常に厳格に決められているということがあります。それから同じ東南アジアでも、インドネシアなんかに行きますと、今度村ごとに漁場を完全に所有あるいは管理するというサシといわれるシステムが発達しているわけです。そういうものとは、サマ社会というのは異質だなということがあります。つまり移動性の高さと場所の重要性が共存し、且つ同時に場所の重要性というのは空間の排他的な所有や囲い込みとは結びつかないようなあり方が特徴的なのではないかということになります。ちょっと長くなりましたけれども、大体パワーポイントで用意したのは以上となります。どうもありがとうございました。[287:18]
[会場拍手]
[野島] はい。質問、疑問、コメントなど。はい。
[佐藤浩司] いいですか。二つコメントと一つ質問。と補足説明してもらいたいことがあります。コメントはですね。移動については、別にご存知の通りだったのでそれで結構なんです。ただ土地にも縛られていないし、固定資産が、税金払ってるわけでもない。そのように土地に縛られていないサマにとって、やっぱり土地が重要だってことが言えたっていうのは、須永兄弟を非常に喜ばせる現状じゃないかと私は思いますけど。まぁそれでよかったんです。それともう一つ。抽象化された地図の話と、実際の土地。実際に我々が感じてる身体的な土地っていうのは違うのはもちろんなんですが、この研究会で考えてるコンテクストとしては、いかに抽象的な地図のようなものがあっても、それだけでは結局我々はそれをとらえられないんじゃないか。だから最終的にインターネットでいくら地図を出していっても、それを最終的に自分の個人の思い出に返していったり、その背後に物語やリアリズムに落とし込んでいく操作が必要なのではないかということを我々はいおうとしていて、だからこそ、あまりその違いを強調する必要もないと思っているんです。現実にサマでなくても、地図に馴染んでない人たちに地図を見せても、日本人でもですよ、見せても全然説明してくれなくても、現場に行ったらちゃんとわかるという人はいくらでもいますから、それはそれで結構だと思います。で、質問なんですけど、とはいうものの、逆に床呂さんの話聞いてるとものすごくサマが融通が利かない。リジットなというか、あまりにもイデオロギーに縛られた民族であるかのような印象を受けてしまうところがあるんです。それは出身地に帰属してるといったとしても、今たとえば、現実に出身地を離れて住んでる人がいるわけですよね。で、儀礼のときに帰る。じゃぁその子どもはどうするか。その子どもの子どもはどうするかっていうと、だんだんその出身地はあっても、それはイデオロギーとしての出身地で実際に生活している基盤はまったく違うところにあるっていうサマは実際にいるわけですよね。で、結婚すれば、まぁ婚姻した男はたぶん違うところに行くことになるんでしょうし、そういう意味で出身地を守ることはサマって民族を守ることにはなるんでしょうけど、それを崩すような現実はやっぱり一方で進行しているような気がするんですけど、その辺はいかがなんですか?[290:13]
[床呂] もちろんおっしゃる通りの側面というのはあります。特に、確かに今になりますと、もうサバで生まれた子供っていうのも10代後半とか、人によっては20代とか。成人になってますよね。そういう人の意識と、もうちょっと上の世代の意識っていうのは当然違うと思います。そういう、まぁ今回は非常に大雑把なサマ社会の特徴の話をしなくてはいけないというので、かなり一般化した面はありますけれども、もちろん個人差というのは非常にあります。ただ、とはいうもののと申しますか、さっき若干パスポートの話なんかもしましたけれども、実は彼らはサバ州側に移住して、一番長い人だともう30年という人もいるんですけれども、民族的には同じ言語を喋る陸地で住んでるマレーシア国籍をとってる人というのもいるんですけれども、この1970、80年代以降に大量に来た、この海のサマ、サマ・ディ・ラウトの人々というのは一切そういう国籍等は与えられていません。そういう意味では一種のアウトカーストじゃないですけれども、排除された存在なんですよね。だからそういう意味では、もうフィリピンのことなんて忘れて、まぁ彼ら必ずしもフィリピンっていう国籍意識っていうのは全然ないんですけれども、出身の島のことを忘れて「俺はもうマレーシアに長いからマレーシア人だぜ」みたいな日系アメリカ三世とかそういう世界とはだいぶ違って、あくまでもやっぱりまだ、そういうマレーシア側にいる陸で普通にというとちょっと語弊がありますけれども、家を建てて陸の生業で生活しているマレーシア国籍を持った人々とはだいぶアイデンティティが、それこそ違うというのは言えるのではないかと思います。それは未だにそうですね。で、身分のことをちょっとだけいいますと、結構マレーシア政府にとっても、どういう風にこれを対処するかというのは苦渋の種といいますか、悩みの種でして、1970、80年代以降内戦が起こって、大量にイスラム教徒も含めて、来たんですけれども、マレーシアは基本的にイスラム教徒の国なので、フィリピン南部で起きた戦いで、難民に対しては当初基本的には受け入れるというのを表明したんですよね。1970年代ですけれども。それで国連のUNHCRですよね。難民高等弁務官事務所が主導で難民キャンプみたいなものを作って、そこに大量に来た、みたいなこともあるんですけれども。逆に最近では、そういう人々が、まぁサマだけじゃなくて、さっきいったタウスグとかいろんな人々がいるんですけれども、一方でマレーシア内で悪さをしている、犯罪をしているというような認識が結構サバの中では、地元の人に聞いてもいうことがあって、なるべく追い返したいというのもあるんだけれども、実際にもう何十万単位で来ちゃってるのでもうできない。なので、国籍を与えることはできない。パスポートは与えられない、マレーシア国籍は与えられないけど、ICレパレパっていって、ICっていうのはアイデンティティ・カードのことをマレーシアではICっていうんですけれども、写真だけを撮ってプラスチックでラミネートしたのを「これがIDカードだ。ICだ」っていうのを家船のこういう、それこそこういう男の子まで含めて全部写真撮って配ったりしてるんですよね。それで暫定的に国家の側としてはマネッジしている、コントロールしているという状況に何とか持っていきたいというのが政府側の対応なんですけれども。
[野島] それ、なんのIDになるんですか?国民じゃなくて?
[床呂] 国民ではなくて。
[野島] とにかくそこにいることが確認、
[床呂] まぁ難民ですよね。現地の言い方、マレー語の言い方だとパラリアンといいますけど。日本語で直訳すると難民っていう身分ですよね。
[野島] あぁ。
[床呂] だからマレーシア人ではないけれども、かといって追い返すのもしのびないみたいな。ただ、実際には結構追い返したり、強制送還したりとかいろいろしているんですけれども。
[佐藤浩司] この研究会的に質問を返すというか、答えはたぶん今出ないと思うんですけれども。要するに故郷を離れても、やっぱり自分のアイデンティティとしての故郷を守っていくというか、残しておこうとする。だけど実際の故郷を知らない人達が出てくるわけですよね。逆にいうとそれは、身体化されない土地を記憶として持とうという、先ほどの話に戻っていくんですよ。そういう人達にとって、じゃぁそういう記憶の中にしかない土地のイメージをどうやって身体化していくというか、具体化していくというのは、逆にその人達に問われる問題なのね。それ今インターネットが抱えてる問題と一緒ですから、それは同じ線上で戦える回答を出せる話じゃないかなって気がしています。
[床呂] なるほどね。[295:17]もちろん直接お答えすることはできないですけれども、一つそれとちょっと関係するような事例かなと思いますのは、実は本当の故郷っていうとちょっと語弊があるんですけれども、彼らの間で大元の故郷というのは、実はもっとバーチャルな存在なんですね。それはどういうことかといいますと、今回ちょっと長くなっちゃいそうなのではしょっちゃったんですけれども。この中にあるかな。現実の出身地以外に、彼らのサマ全体としての故郷というのは、実は数千キロ離れたマレー半島の先端にジョホールっていうところがある。現在の行政区分でいうとジョホールバルっていうところなんですけれども。そこ出身の人々なんだという伝承が彼らの間で神話として伝わってるんですね。だから、もちろん彼らは。まぁ彼らは千キロ単位で移動もしますけれども、マレー半島まではさすがに行かないわけで。実際の物理的な故郷というよりは、もう完全な観念の中での故郷なわけですよね。そういう伝承、ジョホール起源伝説、伝承とかっていう風に研究者は呼んでますけれども。そういう意味ではそもそも、そういうかなりバーチャルなものとしての故郷概念というのはもともと彼らの中にあったというのが一つ言えると思います。で、現在の子ども世代ですよね。それがマレーシア側に移動して、それがどういう、見たことのない故郷のイメージを作るかというのは、今すぐはお答えできないですけれども、非常に面白い問題で、それこそさっきの情報量じゃないですけれども、どうしても語ってくれるのが年長者の人が多いので、そういう人を中心に聞き書きをしたなという反省はちょっとありますので、もっとそれこそ若い人に、これからまた戻ることがあれば、聞いていきたいと思います。
[南] 関連して[297:35]よろしいでしょうか。子どものことがちょっと気になったんですけど。一つは、そもそも生まれるときっていうのはやっぱり船の上で生まれるわけですか?
[床呂] だから、伝統的な生活をしている人々に限っていえばそうですね。はい。
[南] そうですか。で、今きてる人達は学校みたいな教育は全然受けてない?
[床呂] 結論から言うと受けてない人がほとんどですね。それで、これも実はいろいろマレーシアで社会問題になったんですけれども。これはマレーシアにも限らないやつかもしれませんが、要するにサマだけじゃなくて、むしろ数として多いのはタウスグとか、もうちょっとイスラム化した陸に住んでる連中なんですけれども、彼らが大量に移動してきて彼らの子弟がマレーシアの地元の学校に入ることによって、マレーシアの地元の学校の教師が足りないとか、リソースがパンクしちゃうとか、そういう問題が一つあって。で、これはマレーシア側も結構わりと政策変えてるんですけれども、年によっては難民といいますか、マレーシア人以外はある一定のお金を払わないとエンロールさせないとか。もちろん難民の人達というのは相対的にいうと貧しい人が多いですから、当然払うお金がないので、もうエンロールできない。それで結果的にもうキックアウトされちゃうということが結果論でいうと多いですね。はい。
[南] もう一つ。これは別のことですけれども、彼らが移住した地区に、先住の漁民というのはいなかったわけですか?いたら、何かコンフリクトがあってとか、
[床呂] はい。それはケース・バイ・ケースで場所にもよるんですけれども。もともといた集団が、場所によっては移住してきたような人々と親戚とかであるような島とかもあるんですね、実際。そういうところでは比較的コンフリクトは少ないです。で、コンフリクトがある場合というのもあります。それは最近は漁師さん同士というよりは、それこそさっきのアガルアガルですよね。アガルアガルの養殖をするときに、島の岸辺というのが遠浅のところになっていますけれども、もちろんそこがアガルアガルの生息条件としては非常にいいところになるわけです。同じところでサマの漁民も漁をしたり、いろいろしたいということになりますと、やはり空間を巡る争いになりますよね。ただそこへの対応として、陸の人々は当然そこを囲い込んでいくということになるんですけれども、サマの場合はそういうことはしないというか、できないというか、そういう状況だと思います。
[野島] 他には?あぁ、どうぞ。
[石松] 魚を扱うっていうことは冷蔵庫がなければ腐っちゃいますし、釣った魚っていうのは自分が自給自足しない限りは仲買人に売るとか、港に持ってきて市場に卸すとか、またさっきの話になっちゃいそうなんですけれども。それ考えますと、数百キロも移動する。見てたら冷蔵庫もないような、
[床呂] 冷蔵庫、ないです。
[石松] そうすると、あれですか。釣った魚というか、
[床呂] はい、干します。
[石松] 売る場所っていうのは、いつも違うところで売ってるわけなんですか?[301:01]
[床呂] はい、そうです。基本的に魚の場合ですと、自家消費以外は捌いて内臓とって二枚おろし的な感じにして、もうさっきちょっとビデオでも出てましたけど、屋根の上にあれするんですね。そうするとボルネオの強烈な太陽なので、本当にさほど苦労なく干し魚になって。で、日持ちがします。保存ができます。それがある一定の量溜まったら、都市の周辺まで行けば必ず仲買人がいますので、それを仲買人にまとめてどさっと売ると。そういうパターンですね。なまこなんかもそうですね。なまこなんかもとって、あ、そうだ。ちょっと時間が長くなったのではしょっちゃったんですけれども、なまこの加工のところの動画がちょっとありますのでご紹介したいと思いますけれども。
[石松] っていうことは生の魚を売るということはないんですね?
[床呂] えーっとですね。もともとはないですね。ただ最近ハタの類。ご存知の方もいるかもしれませんけれども、ナポレオン・フィッシュですとかメガネモチウオですとか、ハタの類っていうのが中華のレストラン、高級な海鮮レストランとかでいけすに泳いでたりするのを見たりしませんか?香港とかいったら。そういうのがこの海域から出たりもしてるんですね。そういうのは、当たり前ですけれども死んでない、生きてないのをとるので、様々な方法で、罠でとったり、それからこれはサマの人々以外の人々はやってるケースが多いですけれども、非常に生態環境によくないんですがサイアノイド。化学物質を使って魚を麻痺させて生け捕りにしちゃうと。で、それを輸出するということも最近はあります。ただサマの、今日紹介した人々の伝統的な漁のパターンだと、生っていうのは自分で食っちゃって、あとは干し魚とか、そういう加工品です。で、ちょっとだけ、もうほんの数十秒で終わるんです。
[動画]これなまこの加工で。こういう鍋でぐつぐつぐつぐつ、魔女の鍋みたいなので煮るんですね。内臓とかいろんな不純物みたいなのを3〜4時間も煮ると出るので、それをこういう風に出して上げる。で、これを今度天日で何日も干すとどんどんどんどん固くなって、最後にはもう本当かちかちの、なまこってほとんどが水分なんですよね。なので、それが出ると、非常に乾燥した干しなまこになって。で、買い取り価格も、水分とかを指で仲買人は必ず押してまだ柔らかいようだと値を低くするとか、いろいろやります。それから儀礼の話。これも時間があれなのではしょりましたけれども、ちょっとだけ。ほんのいくつか紹介します。シャーマンの儀礼っていうのは、たとえばこういうやつですよね。シャーマンのっていうか、今踊っているのは村人ですけれども。奥で黄色い服を今着ているのが、これがシャーマン。おばあさんなんですけれども。こういう人がいろんな服をたくさん着替えるんですね。彼らの信仰の中では、一つの服っていうのは一つの人格を持ったスピリット。霊なんですね。だから着替えることによって、次から次へと違う霊が降りてくるという進行になってるんですけど。こうやって村人もいっぱい踊るということが非常によくやられています。
[野島] これは陸上ですね?
[床呂] これは陸です。家の中。さっきの杭上家屋の中ですよね。はい。結婚式やなにかでもこういう踊りをします。
[佐藤浩司] 家船の中の普通の生活がわかるような映像ってないんですか?
[床呂] ごめんなさい。そうですよねぇ。中のやつはさっきの台所がチラッと写ってるやつで。ごめんなさい。そうですね、これは漁。これは漁の囲い込み、追い込み漁のやつですね、これは。ごめんなさい。それから家船でもでかいクンピットっていうタイプは、たいてい後に丸木船とか、最近ではこういうスピードボートをくっつけてるんですよね。スピードボート、あのアウトボードエンジンのついたやつ。漁のときはああいうクンピットで直接漁をするのではなくって、そういう小舟で漁場まで行って、今は魚を追い込む、さっきちょっと説明した追い込み漁ですよね、囲い込んで。これも最初からやるともう結構何十分も、場合によっては一時間以上やってるんですけど、これはもう本当に最後の部分で。海面が黒くなってるのは、これイカ墨なんですよね。イカが結構中に入ってて。イカなんかも結構捕れるんですけれども。はい。こういう感じで。最近ではこういうアウトボードエンジンを積んだような小舟なんかもかなり使用してて。結構日本のヤマハとかスズキとか、そういうのが結構多いんですけれども。
[野島] どうぞ。
[安村] あ、いいですか。ごめんなさい。[305:44]二つあるんですけど。一つは、日本の海賊って一番最近いついたのかなぁというので。
[床呂] 日本の?
[安村] 海賊。山賊は戦後までいたらしいんですけどね。
[床呂] あのですね。海賊の定義って実はすごく難しいんですよね。海賊っていうのをどう定義するかなんですけれども。厳密に国連の海洋憲章、えーと、海洋なんだったかなぁ。United Nations Charter of Marineなんとか。なんかいくつかの公的な定義だと、公海上でやるもの以外は海賊と認めないとかあるんですけれども。そうでなくてもっと広い、一般的な語義で、海上で何かものをとるとかであれば、沖縄で終戦直後に八重山諸島、特に与那国のあたりで、
[安村] あぁ、戦後に。
[床呂] 密輸をやってたり。それから場合によっては積み荷を奪ったり、米軍基地に忍び込んで。戦果って地元の人呼んでますけど、荷をrationですよね。米軍の糧食をかっぱらうみたいなこと。そういうのまで、もし海賊と呼ぶのであれば戦後までということになりますけれども。ただ、
[安村] あ、ごめんなさい。もう一つはですね。結構民主的に見えるんですけれども、
[床呂] はいはい、おっしゃる通りです。
[安村] 要するに、日本だったら網元とかいますよね。つまり、いい網を持ってるとか、いい船を持ってると。要するに小作でもないけど、支配関係ができるけど。この民族はないんですか?
[床呂] この民族の内部集団だと非常に平等主義的といっていいと思います。これが同じといいますか、似たような民族集団、同じ海の民でも、タウスグとかそういうのになりますと、もっと階層システムが発達していて、貴族とか。前植民地期には奴隷まで含めていたりする、そういう身分社会だったわけですけれども、彼ら内部では、
[安村] どこの違いでそういうことができるんですか?日本の漁村に結構ありますよね。
[床呂] はい。ただ、ちょっとまだ半分しかお答えできなかったんですけれども、残り半分としては、ただし彼らに対する一種の支配をする、別の、たとえば魚仲買人ですね。これは同じサマ・スピーキング。サマ語は喋るけれども陸に住んでいるサマの人々が大体仲買人をやってたり、あるいはタウスグの人とか、あるいは直接、最近だとチャイニーズですよね。華人の仲買人が、まさに網元的に、前貸し的にたとえば必要なお砂糖とかキャッサバとか、あるいは漁に必要なエンジンオイルとかを貸すんですよね。その代わりある程度干し魚が貯まったら、それを必ずその人に卸さなくてはいけないみたいな、そういう一種のパトロン・クライアント的な慣行があったりもします。
[野島] ちょっと。[308:26]調査の方法論にちょっと興味があるんですけれども。こういう場合は、床呂先生はどういう立場でっていうか。普通村があればどこかに小屋建てて自分でってあるけど、ああいう家だと結構狭いから入りにくいんじゃないですか?そういうのってどういう風にされたんですか?この調査は。
[床呂] 結論から言いますと、ああいう杭上家屋に住んでました。最初はもっと本当にフルタイムで家船に住みながら調査ができたらいいだろうなと思ったんですけれども、実際問題としてさまざまな、やっぱりカメラを持ち込んだり、いろんな機器の問題とか、定期的に陸に帰ってメールチェックをやるとか。まぁそれは最近の話ですけれども。そういうのを考えるとフルタイムで家船に付き合うというのはなかなかやっぱり大変であるということで、僕としてはああいう杭上[コウジョウ]家屋を一つの物置兼ベースみたいなのにして寝泊まりをして。なるべく、ただ彼らの物質文化は知りたいのがあったので。且つ僕もいくつか島を移動しながら調査をしたんですけれども、それで食料品的なお金を払うこともあれば、そうではなくて、もう自分が世話になる分だけキャッサバとかバナナとか水なんかを買って現物持っていって「悪いけど居候させてください」みたいな感じで調査をしたというケースもあります。
[野島] そういうのは受け入れてくれるんですか?快くっていうか。
[床呂] えーっとですね。最初このサマの人々というのはわりと、僕の非常に印象的な言い方で申し訳ないんですけれども、シャイな部分っていうの確かにすごく多いんですよね。だから、いきなり行って「今日おうち泊めてください」っていってもなかなか難しいあれはあるかと思いますけれども。知り合いの知り合いみたいなつてを辿ったり、いろいろしながら広げていったという感じだと思います。そういう意味では、彼らは移動の民なのでいろんな場所に社会的ネットワークといいますか、親戚とか家族がいるんですよね。そういうつてを頼っていけば、ある島で泊めてもらってお世話になってある程度情報が貯まったら、その親戚の人が別の島にいるのでまた行ってと。それで芋づる的にやったりもしておりました。
[野島] ふーん。他には何か。はい、どうぞ。あぁ。どちら?
[長浜] いいですか。[310:58]船そのものにちょっと関心があるんですけれども。船家っていうのかな。
[床呂] はいはい、家船。
[長浜] アイデンティティと船そのもののデザインとの関係みたいなものとか、地域差があるのかということと、それからあと、
[床呂] 何?ごめんなさい。
[長浜] 地域差っていうんですか。
[床呂] あ、地域差。はぁはぁはぁはぁ。
[長浜] 出身地によってなにかしらの違いがあるのかということと。それから、そこに住まう家族のみなさんが生活のエピソードとかを家そのものに残すであるとか、何か思い入れを家として見たときに刻むようなことがあるのかみたいなことを教えて頂ければ。
[床呂] 生活のエピソードを残す。はぁはぁはぁはぁ。えっと。
[長浜] あるいは非常に耐久消費財的に、10年ぐらいでスクラップ・ビルドになるのか。[311:43]
[床呂] まず最初の地域差なんですけれども。この海のサマの人々に関していうと、大体伝統的なものだと、最初にお見せしましたレパというものとクンピット・テンペルという3種類ぐらいが今は多くてですね。大きさの差とか内部のレイアウトとかは微妙に、もう一隻一隻二つとして同じものはないといっていいかと思うんですけれども。大体その3つのパターンにほぼ集約されると考えて僕はいいと思っております。だからそういう意味ではある程度モデルが決まっているという感じですかね。それから二番目。生活のエピソードを残すかっていうのは、ちょっと難しい質問で、どうお答えすればいいのかちょっとあれなんですけれども。一つ、船の寿命からお答えすると、さっきもチラッと申しましたけれども、10年経つと結構もうガタがだんだん来てくるんですよね。メンテをよくしても20年とかぐらいで大体作り替えているような印象が私はあります。それでオーナー、所有者の人が死んだらどうなるのかっていうのが僕も興味があっていろいろ聞いたんですけれども、自分の子どもにあげる。ここの場合妻方居住ですから娘に譲るという場合と、あとはもう結構古くなってる場合は、それこそ思い出を消却しちゃうじゃないですけど、埋めてしまうじゃないですけれども、死んだときに一緒にこの船を解体して、逆にこの木材でお墓を作るとかっていうケースは結構あります。要するに、たとえばこのレパだと、彫刻があるっていうのいいましたけれども、お墓も彫刻しますよね。そういう装飾のことを両方とも同じウキールっていう言葉で呼ぶんですよね。それは同じ人が作ったり。そのウキールができる人をトゥカンウキールっていう風にいいますけれども、それができる、誰でもできるわけじゃなくて特殊な人がまたちょっとやるんですけれども。なので、そういう意味でいうと、お墓が思い出の残ったメディアになっているのかもしれないですよね。
[野島] 今写真のところで横に文字が書いてありますよね。船には名前が付くんですか?[314:11]
[床呂] 僕が知る限り船には名前つけてないですね。個人名を。このマークは、さっきの管理に、国家の話と関係するんですけれども、マレーシア政府側の要請なんですね。車のナンバープレートみたいな感じで。政府側はやっぱり人口がどういう風に動いてるかっていうのを知りたいので、移動の船にもこういうマーキングをして移動を管理するということをやっています。
[須永] もちろんアルバムなんか持ってないんですよね?[314:38]
[床呂] だから、その、
[須永] 彼ら。家族が。
[床呂] こういう杭上家屋に住んでいてアガルアガルなんかもかなりやって、
[須永] 売れて。
[床呂] 現金収入もある程度あって、わりと都会的な生活も知ってるっていう人も最近は結構増えてますので、そういう人だと写真を持ってることもあります。
[須永] あります。
[床呂] アルバムっていうか写真が。
[須永] 写真を。
[床呂] 持ってて。実は衣装箱の下の方に持ってたりとかっていうのはありますよね。
[須永] それ、その写真はその人達にとってはどういう?貴重な?大事な。大事なお客さんには見せちゃうの?
[床呂] あ、見せますね。それから、これは僕なんかみたいな外からの調査者がいって、そうすると「写真撮ってくれ」ってすごいいわれますね。
[須永] あ、撮ってくれって。あぁ。
[床呂] はい。同じイスラム圏でも中東とか行くと、場合によっては非常に、
[須永] 嫌がるところもある。
[床呂] 嫌がるところとか多い、あるんですけれども。ここの場合はそういうので何か危ない目にあったりとか、「撮るな」とかっていわれたことはなくて、逆に「撮れ」「撮れ」と非常にうるさく、うるさいっていうとちょっとあれですけれども。子どもなんかもまとわりついて。
[須永] で、あわよくば、それプリントしたの貰いたいっていう、
[床呂] それがすごい不思議なんですけれども、たとえばもう明日僕が日本に帰るというのを知ってる子ども達とかでも「撮って」「撮って」と。「次いつ来るかわかんないし、あげられるかわかんないよ」っていっても全然。なんか撮ってもらうこと自体が嬉しいっていうのが何かあるのか。それはちょっと不思議な。僕も。
[須永] んー。
[床呂] 感じがしますけどね。
[須永] なるほど。
[野島] はい、どうぞ。
[山本] とても面白いお話ありがとうございました。[316:09]私昔、8年ぐらい前にブルネイの水上家屋、
[床呂] はいはいはいはい、カンポンアイル。
[山本] の調査をしにいったことが実はあるんですけれども。
[床呂] あ、そうですか。はい。
[山本] といっても、そんな大した調査じゃない。一番お金持ちの国の人はどんな生活をしてるのかっていうのを見に行こうっていう、もう浅ましい考えから行ったんですけれども。同じような水上の家に住んでいるけれども、すごくやはりお金持ちの国なんだなぁと思ったんですけど、中がペルシャ絨毯がひいてあって、なんかシャンデリアみたいなのもあったりとかして。ペルシャ絨毯もごろごろしてましたし。水辺の岸の方にはマイカーも停まっているとか。だけど風が吹いて火事になって燃えちゃうと、もう陸に上がらなきゃいけないみたいな決まりがあったんですけれども、そういうことはほとんど、なんか船の形も本当に似てるし。ああいう飾りとかあったと記憶してるんですけどね。全然違うの。マレーシアの方まで買い物に行くっていう風にブルネイの人達はいってたんですけれども、距離的にはどれくらい?
[床呂] ちょっと数字は正確に覚えてないですけれども。近いですよ。最初の地図。これ、この。あぁそうか。ちょっとこれあんまり。
[山本] 上がっていったところに。
[床呂] コタキナバルから、あぁそうか、この地図じゃない方がいいか。コタキナバルのもうちょっと西というのが、もうブルネイですよね。ですので本当に近いです。飛行機だともう30分も乗らないんじゃないかな。乗ったと思ったらもう着いちゃうみたいな、それぐらいですよね。もし飛行機でもコタキナバルから。
[山本] なんかすごく水上タクシーがたくさん走ってて、それに乗って移動するのも気持ちよかった記憶があるのと。あと、すごく宗教にやはり熱心で、モスクに行ってお祈りをするっていうのがあったんですけど、そこの水上、船で過ごしている人とかっていうのはお祈りとかは全然しないんですか?
[床呂] あ、お祈りですか?
[山本] ええ。
[床呂] すみません、まずこの地図でいうと、コタキナバルがこの辺ですけれども。それのもうちょっとこっち側ですよね。
[山本] ええ、ええ。
[床呂] もうこの辺だったとたぶん思うんですが。そこがもうブルネイダルサラムですよね。ブルネイの首都で。そこおっしゃる通り本当に水上村で。ただ外から見てると非常に似てるんですけれども、
[山本] 似てます。
[床呂] 外の上空から見ると似てるんですけれども、中見ると、本当にさっきご指摘の通り、テレビはあるは、冷蔵庫はあるは、エアコンはあるは。
[山本] エアコンも効いてました。
[床呂] それでスピードボート。モーターボートで海から着くとベンツに乗り換えて出かけていくみたいな、そういう世界ですよね。僕もブルネイ行きましたけど。で、お祈りするのかっていうことですけれども、傾向としては、こういう伝統的な家船暮らし、船で暮らしているような人々っていうのは、まだイスラム化してない人が多いんですよね。だからイスラムのお祈りということでいえば比較的少ない。たださっきお見せしたような儀礼とかっていうのは結構多いですよね。それから、イスラム化している人々は結構ちゃんと礼拝とかもやります。それから、ちょっともう時間結構とっちゃってますけれども一個。
[動画再生]たとえば、イスラム化している集団でも、伝統的な信仰と混ざり合った儀礼って結構やっていて、これがその一例なんです。これも杭上家屋。家の中でやっている儀礼なんですけれども。これパグティンバンと呼ばれる儀礼なんですけど、ティンバンってマレー語とかでも使いますけど、ものの重さを量るという意味なんですね。これ病気治しとか安産とか、そういういろんな目的で行われるんですけど。ちょっと見えにくいですが、一方の端には人が乗ってるんですね。女性が乗っかってるんですよ。ブランコみたいな感じで。わかります?
[須永] おぉー、面白い。
[床呂] それで一方には、ココヤシとかココナッツの実とかバナナとか、この鍋にはお米がいっぱい入ってたりしてるんですよね。これは、要するに発想としては、ここまで大きくしてくれてありがとうと。体重と同じだけの捧げ物を神様とかご先祖様に与えるって。ロジックとしてはそういう意味で。
[野島] へぇー、面白い。
[床呂] こういうことをやってるんですよね。この人達は実は結構イスラム教徒なんですよね。聞けば、もうイスラム教徒で入信していて、モスクにも行ってお祈りもするんだけれども、一方でこういう。こういうのはイスラムの、中東の、いわゆるイスラム原理主義の人が見たら、もう非常に怒り出す。「こんなのイスラムじゃなーい!」とかっていって、烈火のごとく怒り出すような儀礼なんですけれども。こういうのも一方ではやってる。だからそういう意味では非常にミックスしている状況ですよね。
[須永] これは今何をしてるんですか?その。捧げ、貢ぎ物っていうか、
[床呂] いや、儀礼。
[須永] あ、儀礼?
[床呂] 儀礼です。これは儀礼です。で、この女性の場合は確か安産祈願か何かだったような気がするんですけど、ちょっと覚えてない。あるいは場合によっては、病気になった患者を一方のところに、
[須永] 乗せて?
[床呂] ブランコみたいに乗せて捧げ物をすると。で、意味としては、
[須永] よくなる。
[床呂] よくなる。治療儀礼といいますか、「お供えをするから救ってください」みたいな、そういう意味ですよね、意味合いとしては。
[須永] はぁー、重さが体重、
[野島] でもこれ、支点をどこにとるかでね。
[笑]いくらでも調整ができそうな。
[須永] かなり貢ぎ物が増えちゃったり。
[石松] の、逆もある。
[須永(兄)] 彼らは自分たちが住んでいるエリア以外の情報っていうのはどのぐらい持ってるんですか?[321:28]たとえば日本とかマレーシアの。
[床呂] 日本っていうのは知ってますよね。言葉として。さっきチラッといいましたけれども、ジィプンっていう言い方があって、日本で。それはどういうことかといいますと、実は戦争でこの辺まで日本軍行きましたよね。だから日本時代っていう言い方があって「ワクトゥ・ジィプン」っていうんですけど、要するに戦争中のことなんですよね。だからその、
[須永(兄)] あぁー。軍隊が、兵隊が来てっていう意味。
[床呂] そうですね。なので彼らはあんまり西暦とかっていう概念はそんな使わないですから、「ワクトゥ・ジィプン、日本時代の頃にあのじいちゃんはもう生まれた」とかそういう言い方は日常用語として使います。それから「ミリカン」っていう言葉もあって、これはアメリカ人のこと。まぁアメリカ人なんかももちろん太平洋戦争中にここのスールーのあたりに来てますから。そういう意味ではありますよね。「チイナ」っていうのも日常的に華人、チャイニーズとは接することはもちろんあって。ただ、だから中国が。それこそさっきのマッピングじゃないですけど、近代的な意味での地図を見せて「じゃぁ日本がどこで、アメリカがどこか」ってマッピングさせたら、たぶんできないと思います。それはできないと思いますね。はい。
[須永(兄)] でも、新聞も読まない、
[床呂] 読まないですね。はい。
[須永(兄)] ラジオも聞かない。
[床呂] そうですね、基本的にこういう、
[安村] 文字は?覚えるんですか?[322:35]
[床呂] えーっとですね。杭上家屋に暮らしてる人だと最近はリテラシーも上がってますけれども、家船暮らしをしているような人だとほとんどリテラシーはないというか、少ないですよね。はい。
[内田] すみません。[322:52]お墓のお話さっき出ましたけれども、どういういわれのところがお墓になるんですか?
[床呂] どういういわれのところ。あぁ。
[内田] いわれっていうか、故郷とかがあまりないっていう話[323:00]。故郷がどこかだんだんわからなくなってきたとかって聞くと、墓ってどういう場所?共同墓地とかそんなのがあるんですか?
[床呂] はい。基本的に。すみません、その説明が落ちてましたけれども、基本的に共同墓地ですね。だから個人で勝手にバラバラに埋めるっていうよりも、一定の墓地の土地が伝統的にもう決まってます。それから、ある無人島がスールーにはあるんですけれども、そこはもう人は住まないで、お墓の島ですね。彼らの間でもやっぱりちょっと気味が悪いのか、そこは「幽霊が出る場所である」という風にいわれてますね。ただ、
[内田] じゃぁとりあえず近くでなく。その島の近くで亡くなったらそこに入れるとか、そういう発想ですか?
[床呂] そうですね。だから。
[内田] で、たとえば墓参に行くとか、そんなの、
[床呂] だから、僕が確認してるので、スールー・ボルネオとかで3、4カ所とかそういう世界ですね。はい。
[内田] たとえば親が亡くなったら、またそこに。
[床呂] はい。
[内田] お参りとかそういう発想はあるんですか?
[床呂] はい、あります。
[内田] それはあるんですね?
[床呂] はい。墓参りっていうことですよね。墓参りなんかも結構する人はちゃんとして。逆に、さっき今動画でお見せしたような儀礼に参加しないっていうのはよくないことといわれていますし、墓参りもしないと、要するに先祖の霊が怒ると。それで病をもたらすという風に信じられて。これはもちろんイスラム以前の信仰なんですけれども。
[内田] じゃぁ親ぐらいしかわからないですよね。おじいちゃんぐらいとかってわかります?墓が。
[床呂] 世代深度は、たとえば人類学で父系出自集団とかがあるようなアフリカの遊牧民とかに比べると浅いですよね。浅いっていうのは3〜4世代ぐらい以上になるともちろん直接は知らないですし。名前ぐらいかろうじて、とかっていうことになりますし。あとリテラシーの話が出ましたけれども。系図とかっていうのは基本的にはこういう人々はないので。そういう意味では、はい。
[野島] あと今日の予定なんですけれども、35分にはもう下でタクシーが待ってることになってるので、もう大体そろそろクローズかなと思いますが、じゃぁ今日はどうもありがとうございました。
[床呂] ありがとうございました。
[会場拍手][326:07]